日常を過ごす
ソフミシアに仕立てた服は革のジャケットとシャツ、それから右側にかわいらしい刺繍の入ったジーンズだった。ジャケットにはまんざらでもない感じのソフミシアであったけれども、ジーンズを出した時にはほんの一瞬ではあるものの固まった。ややあってから、ああそう、なるほど、と独り言を口にいて、ついに一式を身に着けてくれた。ジャケットは思っていたよりも余裕があるらしかったものの、シャツとジーンズは体にぴったりだった。ソフミシアの立ち姿を前にライラは、以前にもまして格好良く感じたし、なによりところどころにちりばめられたかわいい要素がソフミシアの雰囲気をがらりと変えた。ソフミシアの姿に色がついたのである。上下とも同じ色で、それも地味な色、それがソフミシアの持つ服全て。色彩のかけらもない服装に比べれば、このライラの選んだ服は飛躍的な進歩である。
外の雨脚は相変わらずして激しい。ライラはそれでもソフミシアを外に連れ出した。くるぶしから上はきっかり調えたのに靴を買ってこなかったのはうかつだった。見るからにソフミシアの靴は水が滴っており、地面に靴がふれるたびに水につけた中敷きがつぶれる不快な音が耳に入る。ライラ自身の装備は山歩きにも耐えられる頑丈な革のブーツであったがために、靴が水浸しになるということをすっかり見落としてしまっていたのだった。
ソフミシアに選んだ靴は運動靴だった。ただし布製のものではなく革製のもの、ソフミシアとライラ双方の一致した意見がそうさせた。それまで履いていたぐちょぐちょの靴については店で処分してもらうことにした。
快適になった足回りで向かう先は海鮮料理の店だった。実は待合室でパンフレットを眺めているときに目についた店で、ごく短い紹介文を読んだだけで腹が鳴った。小さい写真の紹介画像を一目見れば、写真に写っているその場に行っておいしいものを食べたくなった。
店に入ったライラはほとんどが人で埋まる座席をしばしあっけにとられて眺めた。この雨なのだからほとんど外を出歩く人はいないだろうと思っていたし、事実ライラたちが歩いているときにだれかとすれ違ったこともなかったので、目の前の活況が信じられなかった。ソフミシアもまたライラの隣でかつての強い警戒心をあらわにしていたけれども、中年のおばさんが接客のために小走りでやってきたころにはその感じは彼女の陰に潜んだ。
ひとまず注文したのはおばさんがお勧めと言っていた料理三品と、ライラが個人的に惹かれた小魚の揚げ物だった。刺身のさらには白身魚と赤身魚とが数切れ乗っていて、地元の溶岩を使った溶岩焼の上で魚と香草に程よい焦げ目がついていて、炊き立てのシラスはテーブルの上で最も白かった。
ライラが揚げ物をほぐしてあんかけに絡めれば、鼻先をつんつんとつつくような香りがふんわり立ち込めて、何も口にしていないのに唾液が出てきた。ソフミシアもまたライラにつられるようにして溶岩焼きに手を付けた。一口にも満たないほどの身をほぐして、申し訳なさそうに口へ運ぶのだった。
ソフミシアのひどく重い雰囲気にライラも閉口してしまった。どうしてそこまで落ち込んでいるような風でいるのだろうか。まるで人のものをこそこそ盗んでいるかのようなソフミシアの食べ方もまたライラの不安をかきたてる。どうしてだろう、なにか悪いことをしたのかもしれない、服、それとも食事、それともこうやって誘っていること?
揚げ魚を再び口に運ぶ裏腹で気が気でなくなっているライラなものだから、ソフミシアがおもむろにフォークを置いたときには思わず固まってしまった。ソフミシアがついに耐えかねてしまったのだと思った。
けれどもソフミシアは、顔を下に向けながらもはにかみを口元に浮かべるのだった。
「なんだか非常に申し訳ない気分になってきた。服を買わせて、靴まで買わせて、しまいにはこのごちそうだ。いろいろとしてもらったのが申し訳なくてたまらない」
「気にしないで下さいよ。こうやって食べる楽しみも今までなかったでしょうから、そうやって申し訳なさそうにされるとかえって困ります」
「だが、なにからなにまで、全部任せてしまっているのは、どうも」
「ですが、ミアさんにはできないのではないですか。そういったことをする暇もなかったのではないですか」
「それは確かに、『塾』ではあらゆることが人任せになっていたから不自由しなかったが、さっきの言い方はどうも引っかかる」
「それは申し訳ないです。誤解させてしまったようですね。私はただ、ミアさんに普通を体験してほしいのですよ」
するとソフミシアはテーブルに置いたフォークに手を伸ばして再び溶岩焼きに手を出した。それでもなおライラの機嫌をうかがうような手つきではあった。ソフミシアの心の外郭はライラに崩されてはいるのだろうけれども、彼女のより深い部分は微動だにしていないらしかった。
ソフミシアが溶岩焼きの付け合わせを口にすれば、たちまち沈黙が周りを取り囲んだ。周りの席では談笑しているような楽しげな素振りがあるにもかかわらず、二人の座るテーブルには暗雲が立ち込めようとしていた。
心の落ち着かない沈黙。ライラが話のタネに頭を巡らせれば、すぐに出てくるのはただ一人の人物のみだった。エッカ、ソフミシアの親友だった人で、ソフミシアの命を狙っている人で、ライラにソフミシアの近況を聞いてきた人だ。
「あの人のこと、教えてはくれませんか」
「あの人というのは、エッカか」
「そうです。どういういきさつでミアさんと仲良くなったのかがどうも気になりまして。ミアさんから聞いた話をまとめると、とてもではないが交友関係が広い風には思えないもので」
「言ってくれるな。たしかに事実なので何も言えない。その、エッカ——エッカはもともと『熟』の後輩だった。しかも私の研究の助手だった。私は助手なんていらないと伝えていたにもかかわらず、結局エッカが入ることになってしまった、それがはじめてエッカと会った時。それから毎日のように私の研究室に入って、なにか手伝うことありませんかー、なんて言うわけだ。任せることなんてないのだから、なにもない、と言えば、じゃあ自分の研究しますねー、と間延びした声で言うわけで。それで、休日も研究室に出てきて、同じことを繰り返す始末だ」
「ミアさんも休日は出ていたのですね」
「私に仲間や友達といった人はいない。母に会えると思うだろうが、『塾』では家族に会うのは禁止されていた。となると、何もやることがなく研究をするしかない」
「なにか趣味はなかったのですか。趣味の一つぐらいあれば研究以外のことを休日にできたでしょうに」
「趣味ができるような齢にはもう『塾』に入っていたものだから、趣味らしい趣味はない。しいて言うなら古い文献を読むこと、つまりは研究をするとさほど変わらない」
「その文献は研究室にあったのですか」
「その通りだ。むしろ毎日趣味に没頭しているようなものだろう」
ソフミシアの溶岩焼きへ運ぶ手に少しばかり自身が取り戻されたように感じられた。口に運ぶ白身の量も気持ち大きくなって、口に入れる直前にあった少しばかりの躊躇もなくなった。躊躇の直前になったライラに対する目配せもまたなくなって、迷いない手つきで熔岩焼きを食していた。それにしても、ずいぶんと溶岩焼きを気に入っているらしかった。
「エッカはとても向上心のある人間だった。教わるのもうまければ、教えるのもうまい。研究を進めていて分からないことはすぐに聞いてきて、それも投げかけてくる問いかけはどれも重要な問題を示すものばかり。互いに専門の者同士が話すわけだから、話せば話すほど議論は白熱してきて、楽しくなってくる。話すのが楽しいと思うようになったのはエッカと出会ってからだ。燃え上がる議論は時たま思わぬ方向に寄り道することもあって、そういった時は彼女の独壇場だった。口から出てくるのはどれも私の知らない世界ばかり、遊び、遠い場所、ごちそう。とにかく私の知らないことを山ほど話してくれた」
「『塾』はそういった外のことを知るのに厳しいのではなかったのですか。両親と会うのは禁止されていると話していたと思うのですが」
「親と会うのは禁止されている。だが、外に出て何かするということになにか縛りがあるわけではない。とにかく親に会いに行かなければどうとでもなる。エッカは私の知らないところでいろいろとやっていたのだろう」
「じゃあミアさんはエッカさんと一緒にどこか遊びに行ったりとか私としているようにご飯を食べに行ったりしたのですか」
ソフミシアはかぶりを振って、ようやくその手を溶岩焼きから刺身に移した。行く約束はしていた、と言って切り身を口にした。口をもごもごさせて束の間の沈黙が続く。ひっかかりのある言葉に間が気まずくなって、何でもないはずの沈黙が耳障りで心をかき乱す沈黙としてライラに襲い掛かった。静かな襲撃を避けるべくソフミシアから視線をそらしてみればろくな注文もしないで座っている男がじろじろとこちらを見ていた。ちらりとライラを見やる視線があったから、思いっきり睨み返してみればすっと視線をテーブルの上に落として、すぐに席を立った。
「ただ、あの破滅の二日後の約束だったがな」
「そうだったのですか。結局行けずじまいだったわけですね」
「まあ、行かなかったのが不幸中の幸いかもしれない。もし行っていたらとてもではないが壊せなかっただろう」
「それは不幸中の幸いなのですか。その事件がなければ今のような状況にはなっていないでしょうに」
「耐えられなくて死んでいるだろうな。あるいは世界中の要人を殺しているかもしれない」
「そういう意味ではなく、エッカさんがミアさんを支えてくれたのではないかということです。きっとエッカさんなら」
「私はそういった経験をしていない。想像できないし、理解できない」
「それは、そうかも、しれないですが」
ソフミシアの静かな指摘はライラから次に続く言葉を奪い取った。ソフミシアの言葉はもっともだ。知らないのだから分かるわけがない。支えてくれるだとか、助けてもらうだとかいう、そういった甘いものを享受したことがない。ソフミシアは常に自分を自分で守るしかなかった。
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