伝えたかったこと
突然の感覚だった。腹に何かが当たっていた。確かに革は堅いけれども、それよりもはるかに質感を持った硬さだった。ちょうどへそのあたりを横に分断する感触は今にも体の中に食い込んできそうなほどに圧迫してきた。なにがなんだか分からなくて、体が動かなくなる。動いていてはいけない、何が起きるかは皆目見当がつかないけれども、とにかく動くのはまずい気がする。
動かないで、じっとしていてください。
耳元に投げかけられる声はかなり小さかった。女性の声、体の中にやさしくしみ込んでゆくような声だった。だが、視線の先、臍の先にあてがわれえているものは刃であって、声と同じように体へやさしく作用するものではなかった。
ソフミシアと同じ場所に生きている人。ソフミシアが心配していたことが現に起きてしまった。ライラは今にも同業者の手にかかってしまいそうになっている。相手はだれだ。視界にその姿をとらえられるものはない。ライラが目に捉えられるものはレールにびっしり吊るされた衣服と刃物、それをつかむ手。
体中から汗が噴き出してくる。体が動かせない一方で心臓ばかりが激しく暴れまわる。足と腕も勝手にがくがく震え始めて、ますますいうことを聞かない。別段猛暑というわけでもないのに汗が頬を伝う。助けて、ライラがそう願っても助けてくれる人は部屋でライラの帰りを待っている。
どうにかしたいと思っていてもライラには到底無理な話だった。ライラには人を殺める技を持っていないし、自分を守るための手段や方法もない。対するはソフミシアと同じように技を持っていて、武器を手にしていて、すでにライラの腹にあてがわれて——
ライラの腹にあたっているのは、ナイフの峰、つまりは腹を切れる状態ではなかった。
「僕はあなたを知りません、ですから、こういうことをしなければならないのです。きっと大丈夫だとは思っていますが、保険だと思ってください」
「一体なんなのですか」
「僕は聞きたいことがあるのです。ミアのことで」
「ミアという名前の人は知りません」
「あ、そっか。では、ソフミシアといえば分かるでしょう。あなたと行動を共にしている」
「つまり、あなたがソフミシアさんを殺そうとしている、エッカ」
「話すと長くなりますので、そこについては割愛させてください。ただ、ミアの様子が知りたくて」
「ならば本人にお聞きになればよい話でしょう」
「そういうわけにもいかないのがこの稼業の悪いところでして。僕はミアを殺すよう依頼されている以上、ミアと接触するわけにもいかないのです。あなた方は常に監視されていますから、会って殺さないというのは私の身が危うくなってしまいます」
「今なんと?」
「あなたは僕の依頼主の手下に監視されているのです。いやでも今は監視できていません、この雨ではだれがだれだか素人では分かりませんから。まあ、雨のおかげで幸いにもあなたに会うことができたのです」
ライラとソフミシアは監視されている。部屋を出る前にソフミシアがしていた険しい表情はもしかしてこの女が口にしていたのをほのめかしていたのだろうか。ソフミシアは監視の目があるのをすでに知っていて、それでもライラを外に出させたということか。となると、監視の目の能力を低く見ているということであろうか。ならこの人が潜んでいることは予見していたのだろうか。いや、これは間違っている。ならば、この人、エッカがライラに接触してくるのをソフミシアは予見していたのだろうか。
「まずたずねます。ミアは元気でやっていますか」
「元気なのだと思います」
「では次に、精神的には、何か苦しんでいますか」
「私のソフミシアさんの苦しみは理解できません」
「そういうのも無理はないかもしれません。では次に、僕のことをミアは何か言っていましたか」
「憎まれて当然だと」
「そうでしたか。最後にあなたの名前をさしつかえなければ。もちろん他言はしませんし、この接触自体なかったことにします。あなたもミアにはこのことを言わないでください」
「分かりました、名前はライラです」
「ではライラさん、ミアを支えてあげてください。ミアにライラさんのような人は必要です。ミアの陽だまりになってください。私はもうミアの陽だまりになれませんから」
すると体を石のようにしていたナイフが身を引いた。ライラの体を縛り上げていたものがたちまちほどけて、体を動かす自由が戻ってきた。手を軽く握りしめてみれば、ライラの思うとおりに手が握りこぶしになった。
動かせる。ライラはエッカという名前の彼女を目に収めようとがばり振り返った。けれども目の中にあったのは閉まりつつあるドアと、ショーケースの向こうで消えゆく長い金髪だった。店内から漏れる光だけでまばゆい光を放つ髪の毛は強く目に焼き付いた。
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