友達
どうかしたのか。
耳に入ってくる声は聞き覚えのある声で、その声で戦慄の綱渡りから救い出されたのを理解した。
「だれかが窓の外にいたもので」
「それは確かなのか、顔は見たのか。姿形はどうだった」
「顔は見たのですが、どういった顔立ちだったのかまでははっきりと覚えているわけでは」
「なら、男か、女か、それぐらいの判別はつけられたか」
「たぶん、女性の方のような感じがあったかと思います」
「そうか、分かった。あなたは下がっていて」
ソフミシアはライラをかばうように立って、窓にめがけてしばし、ガラスを割る勢いの視線を向けた。部屋一面に張りつめた空気が体を束縛する、これは綱渡り状態と同じだったけれども、目の前にソフミシアがいるだけで随分と気持ちに余裕があった。この手の状況にソフミシアなら対処できる。
ソフミシアはすっと体をかがめて窓に迫った。素早く動いているのにもかかわらず足音は全く聞こえなかった。
ソフミシアは壁に張り付いて、慎重に外を覗き見た。鼻の先が窓枠に差しかかる手前でぴたりと止まって耳を澄ませれば、手触りを確かめるようにナイフを握りしめた。口をとがらせて息を吐けば、瞬時に行動へ移った。窓を開ける。身を乗り出す。ナイフで前からの攻撃を防ぐ。
ナイフを構えたままソフミシアは動かなかった。見ているだけでも辛そうな姿勢を崩すけはいもなく、同じ方向にじっと目を向けていた。切っ先を少しばかり下げたかと思うと首を横に振って、しまいにはナイフを鞘に戻した。
「退散した」
「ということは、やはりだれかいたのですね」
「ああ、いつものやつだった。しかし、窓のそばまで忍び寄られても気づかなかったのはまずいな。気を抜きすぎた」
「ですが、今日はもう来ないのではないですか。一度見つかっているわけですから、もう出直しはしないでしょう」
「すでに私たちが勘づいているのはあいつも分かっている。今日はあきらめるだろう」
ソフミシアは腰に手をかけてもぞもぞと手を動かすと、腰からベルトを引っぺがして鞘を取り外した。鞘を縛るようにベルトを巻きつけながらソフミシアの向かう先はベッド、ライラと一緒に使っているベッドだった。
ライラはソフミシアの言葉で心の底から安心して、恐ろしい姿を前にため込んできたものがどっと出てきて、体全体に疲れとしてのしかかってきた。ごく短時間でたまったものとは思えないほどの疲労にベッドに倒れこめば、ソフミシアがにやにやしながらライラの顔を見つめていた。
「疲れたのかい」
「だって、ソフミシアさんがいないような状況でしたもの。本当に殺されてしまうのではと思いました」
「悪いことをしてしまったな」
「今でも思い出しただけで鳥肌が立ちます。月明かりの中で見たあの顔はまるで幽霊のようで」
「そいつが幽霊ならまだよかったな。あいにくあいつは生きていたよ。まあ、エッカにも依頼されていない人を手にかけないだけの分別はあるだろうし、あまり気にする必要はなかろう。とばっちりはありうるだろうが」
「エッカというのは、さっきのですか」
「ああ、彼女もエリエヌの生き残りだ」
ソフミシアはあおむけになってベッドに体を預けた。新しい名前の登場にライラはそれなりの説明をしてほしかった。そもそも何者か、どういう関係か、どうして今もなおソフミシアを追い詰めるのか、ソフミシアに尋ねて分かるかどうか疑わしいが、とにかくソフミシアの口から何かしらを耳にしておきたかった。
ソフミシアはついに目を閉じてしまった。このまま寝息を立て始めてしまうと思っていた矢先、にやりとして、おもむろに口を開けた。
「あいつもなかなか奇妙な奴だった。あいつは私にとっては『塾』の後輩にあたるのだが、やることなすこと全部おかしかった」
「知り合いだったのですか」
「知り合いというよりも、エリエヌで得られた唯一の財産とでもいうべきだろう。歳は一つ違い、もともとは生みの親には捨てられて、孤児院にいたのをエリエヌの学校のある教師が養子にした。はじめはひどく荒んだ人間だったようだけれども、次第に丸くなっていったらしい」
「なんといいましょうか、すごい人生ですね。想像もできません」
「エリエヌでは孤児はさほど珍しいことではない。エリエヌで教育を受けている子供の半分は孤児の類だ。話を聞く限りでは、あそこまでの変わりようは珍しいが」
ソフミシアの口からすっと微笑みが引っ込んだ。ややあって目を開けたソフミシアの横顔は物悲しかった。
「私はあの日、エッカだけは殺そうとは思っていなかったし、実際殺さなかった。だが、彼女の前で、私は彼女の育ての親を殺したのだよ」
「それはまたどうしてですか、と聞いたとしても理由らしい理由もないでしょうね」
「たしかにそうだな。エッカは殺さないと強く決めていた。だが、ほかの人間はエリエヌの人間として見ていた。自分で発行した魔術に意識を奪われかけている状況で、そこまでの判断ができる状況ではない」
「その、町を破壊してから、エッカさんという人にあったことは」
「七年ぐらい前に一度だけ。複数人で当たる必要があるほどの難易度の高い依頼を受けたときに、私が執行責任者で、エッカは後方支援だった」
「話したのですか」
「いいや。互いに目が合ったのは間違いないが、話はしていない。あなたは話したいと思うかね、親を殺した人間と」
「ですが、親友だったのではないのですか」
「人は簡単に人を追い込む。私はエリエヌに追い込まれたし、エッカは私に追い込まれた。そして壊れるのだよ」
親指の腹を押し付けるようにして目をこすって、その手を頭の下に潜り込ませた。首をうごめかせて定まりのよい場所をつくろえば、たちまち目を閉じてしまった。もはやソフミシアには更なる話をするつもりはないらしい、ちらりと薄目を開けてライラを見やっておやすみと口にするだけだった。
おやすみと言ってくれた、とライラは気づく間もなく気持ちが沈んでいった。やはりソフミシアの心をもみほぐすことは不可能なのではないか。ソフミシアの口にすること全てが正論で、ライラはただ屁理屈をごねているにすぎない——そう思えてならなかった。ソフミシアの言葉は、経験を積んできたからこそ口から出てくる言葉だった。
ベッドの上というのは不思議なもので、一度否定的な事柄を考え始めるとどんどん深みにはまってしまうものである。できないと思ったらたちまちできない自分がダメだと考えるようになって、自己嫌悪の気が出始めた。
無理やりにでも眠りに落ちて迫りくる暗い気持から逃げようと目をつぶっても、すでに毒牙はライラから眠気を奪いつつあった。眠気に身を押しやろうとしてもベッドの上に引きずり出す手があって、やればやるほど目が覚めてしまう。
眠れない、と天井にささやきかけた。このままけだるい体を横たえたまま時間が過ぎるのをただ待つばかりというのは苦痛だった。横になるだけで何もしないとなれば自然とものを考えてしまう。ライラが今考えられるのはあまり心地よいことではなかった。
目を閉じるのみならず、手で目を抑えて眠気を待ってみることにした。それでもなお眠気はやってこなくて、やはりどうしようもないと気を抜いたところで、突然なにかがライラの胸に重なってきた。
取るに足りない一撃にライラは凍り付いた。胸の上にあるものが何なのかライラに判らなかった。分かろうとする余裕もなかった。ものを払おうと考えたところで腕はかたくなに動こうとしないし、目で確かめようにも瞼に鍵をかけられてしまっていた。何もできないままそれがするに任せるほかない。細長いそれは徐々にライラの体に絡みついてきているらしく、はじめは乗っかっていただけだったのがいつの間にか肩をつかんでいて、背中ではマットレスとの間にねじ込まれるものがあった。
細いものが立て続けにやってきて、次第に一つの太いものとなってゆく。先端が背骨を触れるまでになると、背後のそれは身をよじりながら更なる侵攻を進める。五本の触手が反対側に到達すると体にピタリと張り付いた。
両側を腕に包み込まれたライラは体がほどけてゆくのを感じた。自然に瞼が上がって目の前に視界が戻ってきた。何ら変わりのない天井。何も恐れるべきことのない光景。ただ一つ違う場所、胸の上を探ってみれば、ほのかな温かさと、ときおりでこぼこのある肌触りを指に感じた。
ソフミシアの傷跡。ライラはソフミシアの腕で挟まれていた。左耳にかかる空気は吐息、顔を横に向けてみれば、目と鼻の先にきれいな寝顔があった。穏やかな寝息の間に入る声にならない寝言を耳にすれば、ソフミシアも人の子であると感じるのだった。同時にその顔はまたたくまにライラをむしばむ自己嫌悪を溶かすのである。
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