生きるということ

刻まれたもの

 ソフミシアは最後の言葉を口にするとため息を一つついて、上着のボタンを外しはじめた。上着のボタンを外したら、今度はその下のシャツに手をかけた。私はあの時の魔術で魔術を扱えない体になってしまった、と言葉をこぼすやいなや、ライラに背を向けて、上着もシャツも一緒くたにして脱いだ。 

「そうして、体はこの通り、跡が残っている」 

 背骨を真っ二つに立とうとするバツ印の痕跡が背中いっぱいに大きく残っていた。バツ印のみならず、肩甲骨を横断する傷痕だったり、背骨に沿って刃物をまっすぐ振り下ろされたかのような傷痕もあったりしたが、それ以外の跡はよく分からなかった。傷痕が付いていないのが肩甲骨から首にかけての部分しかなく、横断する傷痕の下は縦横無尽に当時の名残が刻まれていた。 

 振り返ったソフミシアの姿もひどいものだった。背中にあったような傷が胸のあるべきところから下を覆い尽くし、へそがどこにあるのか分からなかった。ライラにとってより衝撃だったのは胸のふくらみがあるべきところだった。 

 胸がない。俗に言うぺったんこやら貧乳といった言葉で言い表せられるものではなく、胸そのものがないのである。女性らしいふくらみどころか、男性さえも持っている乳輪と乳首さえない。ごっそり丸ごと抉り取られてしまったかのような様子だった。ただ、筋肉の隆起だけが認められた。 

「あいにく、あの術を使ったときに胸もごっそり持っていかれたのだよ。おかげで男を抱いた時も揉みしだく胸がないと不満をよく言われたものだ」 

「抱くって、まさか、体を売ったのですか」 

「当り前じゃないか。エリエヌをぶっ潰したときに、金も何もかも燃やし尽くしてしまったからな。だから体を売って金にしたり、裏の仕事をこなしたりしてきた。どちらにせよ生きるために『部隊』のようなことをしているのは皮肉だな」 

 ソフミシアの生きてきた時間をライラは想像できなかった。どのような思いで日々を過ごしてきたのかを考えようとするも、ソフミシアにその思いを抱かせた行為が想像を絶していた。見方を変えて自分がソフミシアのような日々を過ごすのを想像すれば、頭にほんの少しでも思い浮かべただけで生きる気力を失った。一週間も耐えられない、ライラはいまだに生きているソフミシアの精神力に驚いた。 

 生きている? いいや、ソフミシアは生かされているだけだ。ソフミシアからの最期を奪っているのは何を隠そうライラ自身だった。最期を迎えようと山頂に立つ姿を止めたのはライラだ。何かしらソフミシアから死が顔を出そうものなら、ライラは必死になって押し戻してきた。ソフミシアの苦しみを、ライラはソフミシアの中に押し戻していた。 

 ライラは自らの無責任さを呪った。目が合いそうになったものだからたまらず顔を下に向けて、それっきり顔を上げられなくなってしまった。少しでも顔を上げてしまえばソフミシアの強い目に焼かれてしまう。自分自身の無責任と身勝手が見透かされてしまう。時すでに遅しなのは分かりきってはいたけれども、ソフミシアに見せる顔がなかった。 

 だが、それでもソフミシアを助けたいという気持ちは収まるところを知らなかった。後ろめたい気持ちがあったとしても、ソフミシアをあきらめたくない気持ちはいまだ強い。ソフミシアを描きたい思いはいまだ消えていない。どうにかしてソフミシアの助けになりたい。ソフミシアの笑顔を描きたい。 

 ライラはそっとソフミシアの手を取った。 

「私はソフミシアさんのことを何も分かっていなかったのです。なのに、無責任にも、死のうとしてはいけないとばかり押しつけてしまっていました」 

「この話をしたのはあなたが初めてだ。私にとっては今まで体験したことのない経験だったよ」 

「思い出させたくない過去を話させてしまったのです。申し訳ありません」 

「申し訳ない、と言われるほどでもないと思っている自分自身が不思議でたまらない。ずっと隠しておかなければ、死んだとしてもだれにも話すまいと考えていたが、いざ打ち明けてしまえば、とてつもなく心が軽くなった」 

「ですが、私はソフミシアさんに辛いことを強いてきました。赤の他人だったソフミシアさんを山から引きずりおろして、私と一緒に行動させて」 

「はじめは確かにその通りだった。なんなのだコイツ、と思いながらも、あなたと契約があったからそれに従っているつもりでいた。だが次第に、違和感というべきか、戸惑いというべきか、とにかく歯が浮くような思いにさいなまれた」 

「ソフミシアさんを苦しめたのですか、私がまた」 

「苦しかったわけじゃない。ただ、よく分からなかった。けれど今ならはっきりと分かる。私には少年少女と呼ばれる年代の時代がすっぽり抜け落ちている。虐げられてのけ者にされていたかと思えばきわめて特殊な教育機関に放り込まれて生きてきた。友達と呼べるような友達はほとんどいなかった。たった一人だけいたが、エリエヌを壊す半年ぐらい前になってできた友人で、したことと言えば研究に関して話をするぐらい。そんな人間が今、経験豊かな人の雰囲気に巻きこまれている。本来なら幼い時期に体験しておかなければならないことを、今経験しているらしい」 

 ソフミシアの顔をおそるおそる見上げてみれば、不思議な顔をしていた。泣いてはいない。警戒心をあらわにしていない。辛そうではない。嬉しそうでもない。感情という感情を感じられなかった。 

 無表情、というのは今までも見た覚えのあるものだけれども、言いようのない重さ、ことの顛末を知ったライラが感じるには、複雑な感情を塗り重ねたがゆえのあいまいで重い顔つき。目の前にある顔はどちらも似ても似つかなかった。むしろ厚塗りされたそれらがごっそり落ちて何もなくなったかのような軽さがあった。すっきりとした顔つきなのだ。 

 ソフミシアはライラのさする手を奪った。ソフミシアはライラがしたようにさするようにしたわけではなく、ただぎゅっと握りしめるだけだった。 

「あなた方のような人が経験するだろうことは全てを奪われた。穏やかな友情も慕いあう男女の温かい性交も知らない。知っていることと言えば、金のために男を体に穿つこと、金のために人を消すこと。常に自分が消されることが頭から離れない。そのような人間が普通の人なら得られることを望んでもよいものだろうか」 

「どうしてそのようなことを言うのですか。普通のことを得ようとするだなんて当り前のことではありませんか。なにを恐れているのですか」 

「私にとっての普通はあなたにとっての影だ。人間として、社会としての暗部。金のための情事と人殺し。あなた方が普通という事柄はどこにもなかった」 

「見たことも触れたこともない世界だ、と言いたいのですか」 

「だから怖い。踏み込んだところで自分の身に危険が及ぶのではないかと思ってしまう」 

「ならお尋ねしますが、ソフミシアさんは欲しくないのですか。ソフミシアさんのあこがれているという、普通というものに」 

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