行き止まり
久しぶりに構内を歩いた。本来だったら研究室あるいは書庫にこもって没頭している時間帯で、出歩くには新鮮だった。だれもいなくてしんと静まり返った廊下は、研究室の静けさとは違う趣があった。研究室の中では文献に対する熱が今にも爆発しそうになっている。一方でこの廊下に熱はこもっていない。それどころか熱を吸いとってしまおうと冷たい空気が足元にたまっていた。
空気だまりを蹴って進む先にあてはなかった。母と施設の中を歩き回ったことがないから、どこによく立ち寄るのか分からない。ただ、私が普段向かわないほうへと向かった。研究室とは反対側の廊下、下りの階段ではなく、移動する機会のない上の階へ。階段を上がりきって廊下に出てみれば見覚えのある光景が、しかし全く見たことのない光景が広がっていた。見たことのない男が本を抱えて歩いていた。
廊下を突きあたりまで進んで階段に出くわせば上の階に上がる。この繰り返しだった。階を上がるごとに足にまとわりつく空気がしつこく感じられるようになり、一方で人の影が消えていった。ただ扉が廊下の壁に貼り付けられているだけのようで、だれかが使っているけはいはなかった。
だからこそ、自分が出したわけではない音には敏感になるのだった。自らの足音に重なるようにして聞こえたのは乾いた音だった。思いがけない音に体をこわばらせたところ、続いて甲高い罵声と湿っぽくて鈍い音が追い打ちをかけてきた。一瞬にして起こった音の応酬が廊下に戻ってきた静寂をひときわ際立たせる。
音の響きを脳裏で繰り返し再生しながら廊下を進んでみれば、突き当りにある部屋の戸がかすかに開いていた。あからさまな音が隙間の薄闇からこぼれだしていた。声は図太い男の声で、内容としてはひそひそと話していなければならない内容であったが、戸口のすぐそばに立って様子をうかがってみれば、とてもではないがひそひそとは言い難い声量だった。
こっそりと中をのぞき見てみれば、同じ服装をした男が二人、言い争っていた。どうやら声を潜めて話していたのがいつしか声を張る言い争いに発展してしまったらしかった。取り返しのつかないことをしてしまった、どうするつもりなのだ、だの、お前の段取りが悪いからこのようなざまとなったのだ、だの、俺のせいじゃなくてあんたが雑すぎるからだ、だのと責任の押し付け合いが繰り広げられていた。
取るに足りない男同士の小競り合い。私は何も見なかったことにしよう。しかし男が一歩後退りしたときに見えたものが目に入った。人が壁に背を預ける形で座っていた。だが座っている姿がおかしい。微動だにしないのだ。息をするにしても多少なりとも体は動くだろうし、目の前で口論をされていては何かしようとするものである。その姿には生き物らしさがなかった。母には生き物らしさがなかった。母の額が異様に陥没していた。隣では、見知らぬ男が血まみれになっていた。
男の一方がやや落ち着きを取り戻したのか、責任を押し付けるのをやめた。あるいはちょっとしたひらめきだったのかもしれない。これはこれでよいではないか。するともう一人は興味を示した。予定通り隊長を殺したのだから、隊長が新しいポストに就くことも永遠にないし、ガキの収まる場所もこしらえられる。あの男が新設される役職に就いた時のことを想像してみろ、俺らは刑務所行きかよくてもクビだぞ。それに、この女も生かしておけばいろいろと嗅ぎまわられて邪魔だ。両方を消したことで、俺らが面倒な役回りに回らなくて済む。
男が、確かにそうだ、と納得していたが、私にはどうでもよかった。母の言う通りだった。目の前の二人は保身のために母を殺した。『部隊』をまとめる隊長の殺人に至っては予想通りだった。
母を殺した連中。残忍な連中。
するとめまぐるしく私の記憶は過去にさかのぼって、そしてめまぐるしく現在に戻ってきた。覚えている限りの記憶、私が学校でひどい目にあって、それから魔術に親しんで没頭して、『部隊』の身勝手で殺された母を見ている有様。
私も、母も、エリエヌという町によって、全てをめちゃくちゃにされた。
その瞬間、私は魔術の言葉を口にした。『部隊』の男どもはようやく私の存在に気づいて振り返ってきた。彼らの目が真ん丸に見開かれていたのは、私がいたからでもあったろうし、私がおう吐するかように血を吐いたからに違いない。
私が口にした魔術は私が発見した中で唯一公表しなかった魔術だった。研究としては非常に難解でかなり苦労したが、公表できる結果ではなかった。自分の命を引き換えに、魔術の力を無尽蔵に強くすることのできる魔術。禁忌と呼ぶにふさわしい魔術だが、すべてを破壊するにもってこいの術はこれ以外にはなかった。私が腕を一振りするだけで、男どもはぐずぐずの肉塊として崩れた。
それからの私は魔物だった。人に出会えば一瞬のうちに命を奪い、大きな建物には火柱を突き刺した。知らない人でも知っている人でも構わず殺めた。自分の放つ魔術で自分の体が傷だらけになっても構わず、殺した。子供であっても殺した。この町を牛耳っていた連中には特にむごたらしい仕打ちを与えた。
町一つを滅ぼすのに一日かからなかった。最後に手をかけた人間は私にとって特別な人だった。恨むところしかないこの町で唯一の光、私と親しくしてくれた唯一の人だった。彼女の両親を殺し、そして最後の一人となった彼女をやろうとしたとき、私はほとんど意識を失っていた。自分の魔術で服はすっかり破れてしまって裸同然の状態、守るものを失った体は魔術で切り刻まれて血が流れて、そして口からは吐血だ。動いているほうがおかしかった。
それからしばらくの間の記憶がなくて、気づいたらベッドに倒れていた。かつて母と一緒に暮らしていた家だった。不思議なことに傷口からの血は止まっていて、傷痕だけが残っていた。私を助けてくれる人なんているわけがいないから、魔術で自分自身を直そうとしたのかもしれない。覚えていないのだからこればかりは全く分からない。とにかく、外に出てみれば、空から血の雨が降っていたかのような光景が広がっていた。血だまりがあらゆるところにできていて、そこら中に屍が倒れている。中には体が真っ二つになっているものもあったし、骨が抜かれているかのようにぐちゃぐちゃになっているものもあった。地上にできた地獄、あるいは惨状、という言葉でも言い表せない有様だった。
こうして私は、町を一つ壊し、エリエヌの人間数千人を殺した。
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