ぶたい

 心配だよ、と母は訴える。そこに仲間なんていない。そこにいるのはあなたの命を狙う人たちなのよ。『部隊』に入ってしまえばいつ『部隊』の人間に背中を刺されるか分からない。これは今の隊長から聞いた話——『部隊』は居場所ややりがいではない。『部隊』はまさに殺し合いの檻。入ったら最後、やめたくても死ぬまで出られない。死ぬまでずっと仲間を疑い続けなければならない。 

 母は全ての引き出しを開けつくしてしまったのか、隊長の話にも私がたてつくと、ついにあきらめて、お願いだから入らないで、と悲しそうな目で言葉して、部屋から出て行った。私はというと、母との口論でひどく興奮していた。感情は高ぶり、いらだちを心の中に隠しきれず、近くにあった本を床に投げつけた。一冊だけでは足りなくて、何冊も。世界中の学者にとってのどから手が出るほどの本であっても構わず投げた。 

 気持ちが落ち着いた頃合いには床はすっかり本で埋め尽くされて足の踏み場もなかった。辺り一面が本であふれていて、一方で背後の本棚はすっかり空っぽだった。身長よりも上の段にも本は残っていなくて、おそらく手が届かないところは魔法で投げ飛ばしたに違いなかった。そう、本を投げていたのは分かっていても、途中のことをよく覚えていなかった。ようやく自分が長いこと暴れまわっていたのに気付いたのである。

 現実に戻されてまず感じたのが腕のだるさだった。重い本を何十冊と投げた腕に風邪がまとわりついているような感覚で、動かすのさえ辛かった。じんわりと重く響く感覚は体中に広がって、本をかき分けてベッドに向かうのも一苦労だった。当然ながら片づける気なんてさらさらなかった。 

 ベッドに身を投げて目をつぶれば、辺りはしんと静まり返る。だれかの話している声もなければ、虫のささやきもない。あるのは無音と、そして耳の奥にほのかに残る母の声だった。誇りに思う。あんなに会うのも話すのも嫌だった母の声が、耳の中に響いては私の心をいやした。じんわりと心を温める響きは今まで感じたことのないほど私の心を揺さぶった。心の隙間風がなくなってゆっくりと暖かくなってゆく感じは私にとっては耐え難かった。気づけば、目を何度もこすりながら子供のように泣きじゃくっていた。 

 泣けども泣けども涙が止まらなかった。もう少しで気持ちが落ち着きそうにある瞬間があったが、耳の奥でささやく声がそれを許さなかった。たちまち体の奥底がじいんと震えあがって、涙と嗚咽があふれだしてきた。二度か三度繰り返していると、それが母の言葉によって引き起こされるのか耐え難い心の揺れ動きによるものなのか分からなくなってしまっていた。苦しい波は結局一晩中続いて、気持ちが落ち着いたのは窓から陽が差す頃合いになってからだった。 

 私は動けなかった。時計の針が進んで、『塾』にある研究室で作業を始めなければならない時間となっても動く気になれなかった。私の居場所である魔術が潜んでいるかもしれない文献が待っていると分かっていても、動く気になれなかった。私の居場所である魔術を追い求めて突き進むのではなく、その場に立ち止ってじっとしていたかった。 

 私は母の言葉を思い返して、一つ一つを心の中でコロコロ転がしてみた。あの言葉については、なるべく思い出さないようにして、ほかの言葉を注意深く拾い上げてゆく。私は『部隊』のことをよく分かっていない。『部隊』には入ってほしくない、私の居場所にはならない。『部隊』はもっとも残忍な人間が、人を平気に裏切って消し去ってしまう人が集められる。死ぬまで逃れられない『部隊』。 

 母と面と向かって言い合ったときにはそのようなことはないと高をくくっていたのが嘘のようだった。ゆっくりと言葉をかみしめれば、きわめて真実味を帯びていたように感じた。母は実際の『部隊』の人間と会っている。私は会っていない。母は『部隊』の人間と話をした。私はいわば又聞きのようなものである。 

 ぼんやりと言葉を拾い上げてどこかへ放り投げてみてみれば、私が考えていたことの信頼性がみるみる間に失われて、取るに足りないものへと成り果ててしまった。知ったかぶりの無駄な言葉にしか思えなかった。 

 だからと言って無条件に母の言葉を受け入れたわけではなかった。幼いころに受けた体験は時間がたっても心の枷だった。私の決めたことを母は拒絶する。どうもその姿が想像できてしまう。『部隊』に入るとしても入らないとしても、どっちにしろ母は私の選んだ道を非難する。そう思えてならなかった。 

 しかし、想像は想像でしかなかった。母が私を非難することはその先はなかった。非難するための口が、失われた。 

 あの事件からはすっかり引きこもりとなってしまった私のところを訪れる人物がいた。研究成果の文書を催促に『塾』のだれかが押しかけてきたと思ったのだが、見覚えのない中年男性で、聞けば母の研究仲間だという。三日前から無断欠勤を続けていて行方が分からないと男は言った。三日前。母が私の部屋にやってきたのが三日前の朝だった。 

 私は何も知らない。ただ話をしに来ただけだった。私が『部隊』に入らないよう説得しに来ただけだった。これから立ち入ろうとする場所がいかに残忍で残酷な場所であるか、実際に『部隊』の人間に話を聞いて説得力を持たせてまで説き伏せようとした。 

 『部隊』の人間——?  

 私は知っている。母は危険な『部隊』の隊長と接触している。母は私の入隊を阻止したいと考えている。もし『部隊』が私のことをほしくてたまらないとしたら、母の行動は連中の目にはどのように映るであろうか。私だったらこう考える、邪魔でたまらない。 

 私が知っていることを口にすれば、男の顔がたちまち青ざめて、挙動不審にあたりを見回した。独り言で、まずい、とも漏らした。おそらくは研究者も私と同じことを悟った上に、自分自身までもが悪い状況に突き落とされたのに気づいたのだろう。もし見かけたら顔を出すように言っておいてほしい、と私に告げるなり小走りで逃げて行った。 

 私は男が廊下の角を曲がって視界から消えても、部屋に戻らなかった。脚が後ろに一歩踏み込もうとして、腰も体をよじらせて部屋に戻ろうとしている。だが、私の心は体を力で抑え込むのだった。言いようのない不安が心の中を毒素のようにめぐっていて、その不安こそが私を外へと駆り立てるのである。探しに行かなければ、母を見つけ出さなければ。

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