狂乱
ライラの腕に刻まれたナイフの刃は中指ほどの長さに至り、包帯でぐるぐる巻きにしておけば治るような深さではなかったらしい。診療所では傷口を縫合された上に包帯でぐるぐる巻きにされた。診療所に駆け込む前にソフミシアに止血をしてもらったのだけれども、医者が感心するほどの止血だった。
わざとではなくとも、ソフミシアはライラを人殺しの道具で傷つけた。このことはソフミシアにとってかなりこたえたのだろうか、殺し屋の異常行動がなおも続いた。医者のみならず、休む場所までもソフミシアが探し始めた。本当ならどこかで座っていてもらいたいが狙われてしまうのは困るから申し訳ないけれどもついてきてほしい、と思いもしない言葉が彼女の口から投げられたのだ。
ライラはソフミシアのことがますます心配になった。人のために優しい言葉を投げかけたりつくしたりするのを目の当たりにして、ソフミシアの心はついに壊れてしまったとしか考えられなかった。
いざ宿の部屋に落ち着いても、窓際に立って外を警戒するいつもの動きがなくて、自分の荷物を載せたベッドに腰を下ろしてじっとするばかりだった。鋭い一瞥もすっかり影を潜めて、それと同じように、周りを黙らせてしまうほどの雰囲気さえも見る影がなかった。徹底的に破壊されつくされてしまったかのようだった。
ライラはもどかしい思いの中を右往左往していた。助けたい、でも助けるすべがない——残念ながらそういった優しい問答ではなかった。ソフミシアが話してくれなければ何もできない問題である。ではライラの心を揉むものは何かというと、描きたいという衝動だった。ソフミシアの追い詰められている姿はまさに絵として残しておくにふさわしい、と絵描きの心は手に鉛筆を握らせようとする。
けれどもそれを押しとどめる一派がライラの中にいた。対話、お話し。支え。今こそソフミシアに寄り添ってあげなければと、その脚をソフミシアの腰掛けるベッドに向かわせようとするのである。話しができるのであれば一番良い、それができなくてもただ寄り添ってあげているだけでも絵の素材となるよりは心が安らぐに違いない。
ソフミシアのためを考えれば選ぶべき道筋は決まりきっていた。それでもライラは逃れがたき衝動に流されてしまいそうになっていた。今ならこれまで描いたイラストや絵画を超える作品を作り上げられる。ソフミシアの壊されてしまったかのような有様はそれだけで力があった。
ライラはいつしかソフミシアの姿に吸い寄せられていた。目は壊れた姿にくぎ付け、無意識のうちに体は前のめりに距離を詰めようと、ベッドのヘリに包帯の腕を突いた。わずかに体重をかけたとたんに傷がゆがんで、縫い合わせたところが引きつって、芯を貫く痛みに思わず声を漏らしてしまった。
ソフミシアの体はライラの声に過敏だった。普通であれば微動だにしない、怒号であっても動じない。にもかかわらず、ソフミシアはまるで雷に打たれたかのように飛び上がって、真ん丸に開いた眼をライラに向けた。ライラはちょうど顔をしかめつつ包帯をかばっているところだった。
ソフミシアの表情から驚きや怯えに近いものがすうっと引いてゆき、残るは鈍い苦しみをたたえる目だけだった。
「あなたには、取り返しのつかないことをしてしまった」
「そのようなことはありません。ソフミシアさんに大変なことがなくてよかったです」
「あなたは、私にとってのいわば依頼主だ。そのような人に私はけがをさせてしまった。これはあってはならないこと、許されないこと」
「自分の意志で傷つけようとするなら問題でしょうが、あの時のソフミシアさんは明らかに常軌を逸していたように思えます」
「あなたをけがさせたという結果は変わらない」
「違う、ソフミシアさんは間違っています」
ソフミシアはかすかに揺らいだ。顔がゆらりと動いて、ライラに目を向けるそぶりをしたのだけれども、しかしライラの姿を視界に収めているのかは疑わしかった。ライラ側から見える細い目はいまだうつろとしていて、ほとんど死んでいるような様子だった。
ライラの天秤ようやく介抱に傾いたらしい、いてもたってもいられなくてソフミシアのベッドに飛び移った。ソフミシアの真ん前に腰を据えても彼女は微動だにしなかったけれども、手を掴もうとすればすっと引いて抗った。もう一度やってみても結果は同じだった。ためしに包帯で巻かれているほうを隠して手を伸ばせば、すんなりと手を握らせてくれた。傷だらけの手は小さかった。
「もっと普通に考えられないのでしょうか。ソフミシアさんはいつも仕事の考え方で動いています。確かに仕事が仕事なので気が抜けないのかもしれないですけれど、それでも頭を休める必要はあります」
「気を抜けばその時点で一突きされる。常に周りに気を配って、相手のすきを見つけたらすかさず仕掛ける。私はこれで食事を得ている」
「まるで仕事を誇りに思っているような言い方です。どうしてやめたいだなんて言い出すのでしょう」
「私にはこれしかなかった。ほかのものを得る機会がなかった。だから私にはこれ以外のことができないし、それ以外の方法を知らない。やめたくてもやめられない。もういやだ、もう限界だ」
「無邪気に子供らしく遊びまわった時代はないのですか。友達と一緒になって買い物をしたり旅行したりした時代はないのですか。仲間と一緒になって汗を流した時代はないのですか」
「私にはそのような時代はない。私の子供時代は、いじめと殺しと破滅だけだ」
ソフミシアはらしくなかった。声が外に漏れるのも恐れないほどの大音声を張り上げて、顔はすっかり赤くなっていた。頬だけでなく、白目までもが真っ赤になっていた。激しい感情をあらわにしても、彼女は武器に訴えようとしない、腰のナイフを引き抜いて構えてもよさそうなのにそうしなかった。
「もう嫌だ、自分だけで抱えるだなんてももう無理、あなたの身の安全が保障できなくなるのはどうでもよい——もう、全部、ぶちまけてやる」
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