発狂の果て
この中で平静を保っているのはライラただ一人だけだった。老人の顔から知性が奪われて、一方若い女は豪雨の中をさまよい出るという狂気の沙汰に陥っている。当然ながらライラが気にするのは彼女のほうであって、いつしかばねになってもおかしくない老人をそのまま放っておいて、ライラもまた狂気の沙汰にとびこむのだった。
外の豪雨は待合所で眺めていても十二分に激しいものだと感じてはいたものの、実際に飛び込んでみれば激流の川の中に身を置くような状況とさほど違いはなかった。違いがあるとしてもせいぜい息ができるぐらいであって、けれども数少ない違いであっても、普通の路上で息をするのに比べればだいぶ息がしづらかった。
空から投げ落とされる水玉の乱反射と空の色ですっかり濃霧の様相を呈してきていたが、ソフミシアを見つけるのは苦労を伴わなかった。雨の中に身を投じて二歩で彼女の背中が、おぼろげながらに見えたのである。駆け寄ってもライラが駆け寄ってきていることに気づいていなくて、肩に手を載せた瞬間にはびくんと体が飛び上がって、その時の彼女はいつものソフミシアではなかった。いつもの姿は遥かかなたに消えてしまっていた。
ソフミシアを保護したライラはそのまままっすぐ走って、ソフミシアを押して、バス停の小さな待合所に逃げ込んだ。船の待合い所とは異なって雨をはじく窓はなくて、だから横から雨がはねて手の甲にかかってはいたけれども、雨の中にいるのと比べれば上を遮るものさえあればありがたいことだった。
ソフミシアはライラに助け出されてもなお呆然と立ち尽くしていた。待合所の真ん中にいるがために雨が横やりを入れてくることはないけれども、足元はしたしたたる水で水びたしだった。
ライラとしてはソフミシアに対していよいよソフミシアの過去を引っ張り出さなければならないと感じていた。現状ではもはやこの若い殺し屋を支えることができない。エリエヌ、ソフミシア『様』、壊滅。ライラの理解を超えた言葉だった。
だからといってソフミシアを問いただすとしても、ソフミシアがちゃんと答えを返してくれるとは全然思えなかった。ソフミシアの顔を見るに、老人のそれに比べればまだ精気は残っているようであったけれども、かなり消耗してしまっていのるは間違いなかった。常日頃から目に宿る鋭さは影をひそめ、ライラの知りえない苦しみや恐ろしさ、とにかく負の感情で押しつぶされてしまいかねないところまで追い込まれているらしかった。未知の事柄に対してソフミシアを絞ろうとするにはあまりにも弱りすぎていた。
いわば精神的に瀕死となっているソフミシアにかけてあげられる言葉といえば、彼女の身を案じる甘くて優しい言葉だけだった。どうしてこのような雨の中に出て行ったのですか、ぐらいの小言は漏らせたものの、それ以上にとげのある言葉は口にできなかった。体は大丈夫ですか、だとか、寒くはありませんか、とか、着替えはありますか、だとか。自分のカバンを開けて、画材やら着替えやらを漁って見つけ出したタオルを彼女の頭に当てて水を吸いとった。タオルはあっという間に重たくなって、手に冷たく感じられた。
タオルを絞って髪の毛の隙間にしがみつく水を取り除く間もソフミシアは微動だにしなかった。右側に立って髪の目に沿ってタオルを流して、背後に回って後頭部を撫でて、左側に立った時もまるで蝋人形のようであった。けれども、真正面に立って髪の水を除こうとしたとき、思いもしない表情に出会ってしまった。
ソフミシアの目から雨がしたたっていた。髪の毛から水気を取って、顔を流れる水を吸いとってもなお、目じりから流れ出る一筋は途切れなかった。口にはぴしりと閉じられているが、口角にやや引きつりがあって力が込められていた。
平静を装って面倒を見ていたライラだったけれども、これにはさすがに戸惑いを隠せなかった。ソフミシアの頭に添えていた手を思わず放して、ほんのわずかではあるけれども、距離を取ってしまった。足を滑らせた瞬間に動揺している自分自身にはっとしたわけだけれども、一度動き始めた体を止めるには無理があって、ついに感情を表に出してしまった。一番感づかれたくない人に対して。
様子をうかがうも、ソフミシアはそれどころではなかった。口をきつく結んでいるのは声を上げないためであった。声を出してわんわん苦しみを外に放り出すまいと、自分以外の何物にも弱みを見せないようにしている。強がって、目は素直に気持ちを白状しているにもかかわらず、理性で何とかできるところは無理やりにでもおさえこもうとしている。
だが、おさえこんだ感情が突如として爆発する。白い歯がわずかに見えたかと思ったとたん、左手が引き抜いた。横にまっすぐ伸ばした腕の先に光るものがあって、手首の付け根からひじの辺りにまで達していた。
ライラは腕を押さえようとした。腕を、二の腕を掴んで、ソフミシアの体に向くそれが動かないようにしたかった。鋭い先端がソフミシアの体のうずまってから次に起きることを想像した。体からほとばしるしぶきがライラを赤く染める。ソフミシアははじめの目的を果たしてしまう。
ライラの腕は、しかしソフミシアの力にあらがうには非力だった。やめてください、と声を上げてもソフミシアは聞く耳持たず、無理やり止めようとする腕をたやすく振り払った。ささやかな抵抗さえも失った殺し屋の武器は体の芯めがけてまっすぐ振り下ろされた。
止めなければ。
止めなければ。
ふと気づいたときには、ソフミシアの短剣が地面を転がった。ライラには何があったのか分からなくて、けれども、刃に赤い痕跡を見つけた瞬間に血の気が引いた。心が縮み上がった。恐ろしい気持ちはライラを駆り立てて、考える間を与えずソフミシアの立つほうへ顔を向けさせた。
ソフミシアは立っていた。血がにじみ出る様子も、短剣が突き刺さって破けている部分も見つからない。ただただ立ち尽くすのみだった。
ライラは心の中で無尽蔵に増える恐怖がすうっと清らかになるのを感じた。ソフミシアの死を防ぐことができた。安心はライラにため息をつかせるのだけれども、どうしてだろうか、息が漏れ出るなり、腕に焼けるような感覚があった。次第に鈍い痛みを感じるようになって、心臓が胸を打つたびに鈍い痛みがはじけてゆき、焼ける痛みの中にジンジンと暴れまわる何かとなった。
腕にまとわる奇妙な有様を目にとらえても、ライラにははじめ、何が起きているのかよくよく分からなかった。腕を斜めに走る赤い線があって、そこから引っ張り出したように赤い色が指先に向かって伸びていた。指先まで引き延ばされた赤は薬指でしずくとなって、地面に這いつくばるナイフの横にしたたった。
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