老人
ライラは窓口からソフミシアをひっぱり出すついでに待合室から出て次のバスを待つつもりだった。あわよくばこの港町の観光でもしてやろうとまで企てていた。けれども、待合室の扉に手をかけた瞬間、脚と目が止まってしまった。
なにこれ、気づいた時には声が漏れてしまっていた。目の前にあるところはついさっき二人で歩いてきたところだ。きちんと切りそろえられた石が敷き詰められた場所だった。なのに、今やそれぞれの石の輪郭を目に治めること叶わず、空一面が空から降り注ぐ球のために大きく揺らいでいた。
球、まさに粒よりもはるかに大きい物体だった。ライラはガラスの向こうで空から降り注ぐそれが雨だと認めるのに時間がかかってしまった。屋根の上からだれかがバケツなりホースなりで水を振り回しているのか、あるいは突然待合所の上に滝ができたか。目の前を激しい滝を言い表す方法がライラには乏しかった。
意を決して扉を開けてみれば、ノブの手に雨玉がしたたか手の甲を打ち付けた。分かり切ったことではあったが、この雨はただならない。ライラが住んでいる場所にだって雨は降るし、程度が激しいこともある。だが、ライラを水浸しにせんと襲ってくる水の群れをライラは知らなかった。天変地異、ライラの脳裏を言葉がよぎる。
この豪雨はソフミシアも体験したことのない規模だったようで、ライラの後ろで言葉を失っていた。どうしたものかと後ろに顔を向けたところで頭に何も考えの浮かんでいないような顔、ソフミシアに考えがないのは尋ねなくても分かった。
待合所は雨粒の壁で覆われていた。途方もなく分厚い、立ち入れば最後、一瞬のうちに水の餌食となるのは目に見えている。ここは待合所で待つのが一番の得策、というよりもそうするほかに手立てがない。しばらくここで待つしかありませんね、とソフミシアにささやくと、しかし、とためらいを示したものの、ややあってから、しょうがない、としぶしぶ固い座席に腰を下ろそうとしたのだった。
しかしその時、二人の前に立ちはだかる者がいた。すっかり腰がしなびてしまっているようなよぼよぼの老人だった。歩くのも精いっぱいで人の前からなかなか通り過ぎられないかと思えば様子がおかしかった。老人はソフミシアの顔をじっと見つめて、まるで動こうとしなかった。
ライラは見知らぬ男をどう扱えばよいのか分からなくてその場で立ち尽くす意外に何もできなかった。どうしたらよいのか、いくつもの修羅場を潜り抜けているソフミシアに倣おうと視線を移したところ、彼女もまた、足に杭を打たれてしまっているらしかった。老人を焦がすほど強い凝視で、まばたき一つしなかった。
お前は、とソフミシアが口にした。ぽつりと口元がかすかに動くだけ、あまりにも小さい声でかすれ気味だった。対する男はソフミシアのつぶやきがシカと耳に入っていたらしい、目玉が飛び出るのではと思わせるほどにぱっと見開いて、歳で弱くなった足を必死に動かしてソフミシアに迫った。顔を見る限りでは今にもソフミシアに飛びかかってゆきそうな雰囲気さえあったけれども、そこは老人である。ほんの二歩ぐらいで済むような距離を四歩で詰めた。
「ああなんということであったか、ソフミシア様、ご存命でいらっしゃいましたか。私のことを覚えていらっしゃいますか」
「何者だ、お前の、お前のことなぞ」
「私は今この周辺の情報を収集する命を受けております。覚えておいででしょうか、特命を受けた老人が襲われたところを助けたのは。そのときの老人が私なのであります。助けていただいたこと、改めてお礼申し上げたい」
「やめろ、やめるのだ、お前が思っているソフミシアではない」
「そのようなことは決してありません。ソフミシア様に違いありません。われわれを、国を導く人様を毎日心に思い描いているのです。たとえ老いぼれとはいえ、我が地エリエヌを導く主席様の顔を忘れるわけがありません」
ライラはすっかり置いてけぼりだった。大雨の中の待合所に取り残されたかも分からない見ず知らずの老人にどうしてここまで迫られているのかが理解できなかった。そもそも男がソフミシアを知っていることが不可解であったし、のみならず、どうして『様』をつけているのであろうか。老人が敬意を示されるのはまだ理解できる。しかし、目前の二人の立場は明らかに逆だった。男は明日の命も分からない老人、一方女は二十歳である。数々の修羅場を潜り抜けてきた若者であっても、老いぼれがひれ伏すだけの力はない。ソフミシアが持つのは人を殺せるだけの力である。
ソフミシアは老人が示すありったけの敬意をよく思っていないらしかった。顔面蒼白になって首を横に振りまくっているところ、むしろ否定したくてたまらないといった境地のようだった。だがいくその気持ちを拒もうとしても、ソフミシアへの畏敬の念はとどまるところを知らなかった。
エリエヌが抱えてきた多くの問題をたやすく解決したではありませんか、我々が安心して暮らせるようにしてくださったではありませんか、老人は言葉を続けた——ところで、今のエリエヌはどうなっているのですか。ここ数年、エリエヌからの使者が私のところを訪れてきていないのですが。
ソフミシアはたちまち後退りして、後ろが壁で進めなくなってもなお後退りをやめようとしなかった。一向に体は動かないにもかかわらず、足だけが必死に地面を押していたのである。
エリエヌは消滅した、壊滅した。ソフミシアの足がついにあきらめたかと思えば、口から言葉が漏れ出た。途端にぐいぐいと精神的に迫ってきた老人が表情を変えた。今まで自分自身が何をしていたのか、全てを忘れ去ってしまったかのようだった。ややあって、いや、だとか、それはその、だとか、短くて細切れになった言葉を口にしてひどくうろたえた。右に体を向けたり、かと思えば上を見上げて何やらぼそぼそと口走ったりした。
ソフミシアは呆然とする男を横にふらふらと壁から離れた。おぼつかない足取りはいつ倒れてもおかしくない具合であって、けれどもどうしたらよいのか分からなくて手が出せなかった。老人並みの足の速さで外に出ようとしていても、ライラは声をかけるのも、ソフミシアのさまよいを止めるのも、肩なり腕なりにさわることもできなかった。
ソフミシアは雨の世界にさまよい出た。雨のカーテンはたちまちソフミシアの姿を覆い隠してしまった。雨は姿だけでなく音もさえぎってしまう、聞こえてくるのは轟音ばかりでソフミシアの足音はみじんも聞き取れなかった。
ライラの背後で老人は痴呆症にかかったように茫然自失としていた。顔はすっかりゆるみきって、ソフミシアと対峙していたときとはまるで別人だった。視点も定まっておらず、口もだらしなく開いている。体中から衰弱している感がにじみ出ており、指でつつきさえすればあっけなく倒れて、それでいて二度と立ち上がれなくなってしまうこと請け合いだった。
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