ドリアの味は
朝になって改めて晩の出来事について尋ねてみると、こともあろうかソフミシアは一切のことを覚えていなかった。魔法をライラに見せてやろうと思ったところまでは身に覚えがあるようだったけれども、それからは全く記憶になくて、気づけばベッドの上で仰向けとなっていたとのことだった。
ソフミシアにライラが聞いたことを伝えればひどく驚いた。どのような内容を口にしたのかを聞かされれば聞かされるほどに頭を抱えてため息をつく始末だった。やはりソフミシアにとっては漏らしてはならない事柄だったのか、忘れてくれ、とまるで壊れたおもちゃのように言葉を繰り返した。しかし一度聞いたものを意識的に忘れるというのはかえって難しいわけで、ソフミシアの要求にはとてもではないが応えられそうになかった。むしろ、ソフミシアのことについて知られたのだから得られたものを手放すだなんて考えられなかった。
申し合わせた通りに三倍の宿賃を払って外に出てみれば、辺りはまるで夜のようだった。見渡すところどこにも陽の光を浴びて白みを帯びている箇所はなくて、心なしか肌寒くもあった。温泉と火山の島であるファム諸島には全然ふさわしくない環境と成り果ててしまっていた。
ライラはソフミシアに今日の予定について尋ねてみたけれども、やることは単純、この島からの脱出のみだった。この島でやらなければならないことがあるわけでもなく、相手を殺したところで一銭にもならないから仕留める意味もない、と小声で口にした。
しかし船が出港するまではまだ時間がある。町から船の出る港までそれなりの距離があるとはいえ、それを加味しても十分すぎる余裕があった。めまぐるしい時間を過ごしてきたライラにとっては久々に訪れた休暇らしい休暇の時間だった。
考えてみれば、いかにも休み、といえる時間をこの島で過ごしていなかった。ファムまでやってくる旅路や二日目のハイキングはいかにも旅行といった趣だったけれども、ソフミシアと出会ってたちまち殺伐として忙しない隠密活動となったのだ。ソフミシアに危うく殺されそうになって、かと思えば国のよく分からない姿についてほのめかされて、しまいにはソフミシアと同業の別の人間に狙われる展開。旅行は非日常を体験するものとするならこの上なく旅行と言い張れるだろうけれども、ライラにとってそれは旅行という言葉が持つ意味ではなかった。
時間の余裕はあるね、とライラが口にすると、ソフミシアはそっと一言、そうなのか、とつぶやいた。
「船の時間を確認したのか」
「朝早く、宿の主人に尋ねたのです。そうしたら、入港する船はしょっちゅうだが人を乗せて出港する船は昼を過ぎてからでないと出ないと」
「そうなのか、そうであれば確かに時間はあるな。となると、その分狙われる可能性も高まるというわけか。てっきりすぐにでも出発できるものと思っていたが」
「その手の仕事であれば調査とか準備は周到にやるものではないのですか」
「国の要人を相手にするわけではないから。私があいつに狙われていて、それにあなたが巻き込まれているに過ぎない」
「この状況を何とかしようとは思わないのですか。その、逃げ続けるのも大変じゃないですか」
しかしソフミシアは首を横に振った。小刻みに顔を振るのではなくてゆったりとかつ大きく首ふり、どうやらソフミシアは否定の意味をより強めておきたいらしかった。態度だけではない、口からも同じような言葉が出た。
「大変なのは確かだけれども、でも、状況を何とかしようとするよりはだいぶ精神的には楽なのよ」
「死にたい死にたい言っている人が精神的な問題を持ち出すとは思いませんでした」
「残念だけれど、これはこれで根の深い問題。私が死んでしまえば全て解決できるものではあるけれども」
「やっぱりソフミシアさんの心の中はよく分からないです」
ソフミシアはするとにやりと口角を釣り上げて、ライラから目を逸らした。わざとらしく足を浮かせて、それからひざをまっすぐ伸ばすと、つま先の向く方へ体重を預けるような形で一歩踏み出す。ぎくしゃくした歩みを繰り返して道の中ほどに至れば、くるりとライラに振り返った。
「今の状況で私の心の中が分かるのかね?」
「そう尋ねられてしまうと、どちらにせよ分からないとなってしまうのですが」
「そりゃあそうだろう、私の近くに長くいた人だって私の心を理解できなかった」
「一緒に仕事をした、とかですか」
「ある意味ではそうだけれども、ある意味では全く違う。とにかく、私の心は理解できないものだってことだよ」
「またソフミシアさんはよく分からない言い方をする」
するとソフミシアは再びにやりと意味深なほほ笑みをその口にたたえて、再び歩き出した。真ん中を進みながらも辺りを見回しているのはいつものソフミシアと、周りを警戒しているソフミシアとさほど変わりはないけれども、どこかに潜んでいるかもしれない凶器を見つけ出そうと躍起になっている目ではなかった。緊張の糸が緩んでいるらしくて、どうもソフミシアらしくなかった。
周りに注意しなくてもよいのですか、と思わず尋ねてみたら、ソフミシアはぽかんして、ややあってから、すっかり気を抜いていた、と驚いていた。
「どうしたのですか、すっかり安心しきっているだなんて」
「そうだな、実は夢を見たのだよ。ものすごく幸せな夢だった」
「どのような夢だったのですか」
「母がいた。テーブルを挟んで向かい側に母がいて、一緒に同じ料理を食べた。母が作ってくれたドリアだった。私と母のほかに親友も一緒に食べていた」
「お母さんが作るドリアはおいしいのですか」
「非常にまずかった。とにかく味がなくて、素材の味まで殺してしまうのだから恐ろしい、むしろ感心してしまうほどの腕だった」
「それってよい夢にあまり思えないのですが」
「これがすごく幸せな夢なのだ。母と一緒に食事をしたのだから。親友も楽しそうだった」
ソフミシアはその場に立ち止って空を見上げた。空には雲がぼってり厚く塗りたくられていて、今にも一緒くたになって地面に落ちてきてもおかしくはなかった。地面のあらゆるものを押しつぶして、それから自らの衝撃で割れてしまいそうな、さながら巨大な一枚岩のようだった。
空を眺めるソフミシアがにやりとした。ライラはその姿を目にして、体じゅうに鳥肌が立つ思いがした。ソフミシアの微笑みはどこか自虐的である。それも徹底的に自分自身を責めて貫くような、静かにして強烈な一撃だ。以前にソフミシアはこのような空を見たことがあるのだろう。その時、自分にとってさげすむにふさわしい何かがあったのではなかろうか。
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