攻撃

 船が出発したのはちょうど辺り一帯が夕焼けの暁ですっかり燃えあがっている頃合いだった。最終の便というわけではなく、日が沈んでから五つほどの便が出向するらしかったけれども、乗り場に来てしまった以上、本当に向かわざるを得なかった。 

 ソフミシアは相変わらず辺りに注意深い視線を刺して回っていて、特に男には痛々しいほどの目力を以て姿を確かめた。どうやらソフミシアの知っている顔の人はいなかったらしく、ただただ見ず知らずの人々をにらみつけるにとどまった。 

 連絡船の座席に腰を落ち着けてからもソフミシアはそわそわしていた。船自体は並みで揺れてはいたものの目をつぶって体を休めるには適した時間ではあるけれども、ソフミシアのまぶたは力強さを失わず、落ち着かない様子で四方八方に目を利かせるのだった。まず左側に顔を向けて、それから右方向に顔を動かして正面に異常がないのを確かめれば、体をひねって後ろも同様に見る。左後ろ半分、反対方向に体をひねって右後ろ半分。全方位を確かめて彼女は大人しく背もたれに背中を預けるのだけれども、すぐに離して辺りを見回すのだった。 

 本島北端の町に降り立ったのは乗船してからおおむね一時間といった頃合いだった。その時間となればすっかり日は暮れて、町はひっそりと静まり返っていた。荷物を運ぶ船乗りが闊歩するような町であればもっと賑やかであろうけれども、そのような雰囲気は見られなかった。町の中で最もにぎやかに違いない、船から降りゆく人々でさえも物静かだった。 

 二人は人ごみの中に紛れるような形で町の地を踏みしめた。人の目を気にするのは愛から和図であったけれども、宿を探しているところはいつもとは異なった。宿に入って居場所を掴まれるよりも外にいて同業の男に仕留められることの方が危ないと考えたのだろう。とにかくソフミシアは何を考えているのか教えてくれないから困ったものである。 

 宿を一つ一つ探してゆくのだけれども、さすが観光地である、どこも満室の状態で部屋に逃れられなかった。船からあふれ出た人々はたちまち宿に消えてゆき、残っている人もどこかしらへ入って行った。飲食店、雑貨店、服飾店。民家に入る姿もあった。 

 人々の群れが薄くなってゆくことについてソフミシアはあからさまに焦っているようだった。ブツブツとつぶやく言葉は悪態と不安——田舎町のくせにどうして部屋が空いていないのだ、やら、早くしないとヤツに見つかってしまう、などといった類の言葉だった。人に鋭い視線を向けてばかりいるソフミシアも今回ばかりは建物にきょろきょろしていた。 

 決して大きくない大通りと一歩路地に入ったところの宿を手当たり次第に頼みこんでみたけれども、どこも満室だった。いよいよもっと奥に入った路地に宿を求めなければならなくなってしまった。ここまでくるとそもそも宿があるかどうかさえ怪しい。宿を探さなければ、しかしソフミシアの知人が殺しに来る可能性は十分にあるわけで、たとえその人が襲いに来ないとしても、ほかの同業がソフミシアを狙う恐れがあった。 

 泊まれる部屋が見つからない、という状況が、二本目の路地に入るとさらに悪くなった。人の姿はおろか、動物の姿さえ認められなかった。街灯や建物から漏れ出る明かりでなんとなく照らされている感はあるものの、人の目は一切なかった。つまりは二人の存在を埋没させる人間の隠れ蓑が期待できないのだ。 

 二本目の路地には宿さえもなかった。ライラはいよいよ夜を過ごす部屋を諦めなければならないかもしれないと思っていて、ソフミシアは自分に恐ろしくみじめな最期がやって来るかも知れないと思って髪の毛をぐちゃぐちゃにかきむしった。 

「ああもう、どうしてこんな時に限って!」 

「落ち着いてください、近所迷惑になりますから」 

「そのようなことを言っていられる場合か! ひょっとしたら連中がやってくるかもしれないのだぞ」 

「でもソフミシアさんなら乗り越えられるのではありませんか」 

「そうもいかない。この世界ではひょんなことで人が死ぬのだ。私の腕はこの国の度の同業よりも確か、見くびってもらいたくはない。けれどもそれはこの手の仕事をするのに重要な問題ではない。相手の隙をいかにつくか、これに限る」 

 そう殺し屋のノウハウを口にするソフミシアは見るからに隙だらけだった。どこに宿があるのか、これだけに注意が向いているようにしか思えなかった。右の建物に目をやって、それから左の建物に左を見る。周りの様子を冷静にとらえる余裕なんて微塵もなさそうだった。 

 にもかかわらず、ライラが気づくよりも早くソフミシアは状況の変化に対応した。ライラが気づいたのは二人の前にある十字路の左側からだれかがやってきたことだった。無人の通りに現れた姿は闇に紛れる漆黒の装いで、十字路に面する建物から光が漏れていなければそこに人がいるとは把握できないほどだった。ライラがその姿を認めた時には、ソフミシアはすでに腰からナイフを引き抜いて飛びかからんとしていた。黒服もまた何やら明かりに輝く細長いものを取り出して身構えた。それがソフミシアの手にしている小剣よりも倍以上の長さを持つ剣であると分かった時には二人は武器を交えていた。剣の切っ先が上を向いているところ、ソフミシアがけがをしてしまっているとは考えづらかったけれども、二人がぶつかったまま離れないでいるのが不安をかきたてた。まさか剣とは別の武器でソフミシアの体は貫かれてしまったのではないか? ライラの目に入らないところでとんでもないことが起きてしまっているのではなかろうか?  

 ソフミシアの心配ばかりしてはいられなかった。ライラはカノジョへの心配をするや否や、自分が狙われる可能性に気づいてしまった。まるで背後から声をかけられたかのように振り返って、人が隠れられそうな場所全てに視線を投げつけた。黒服剣士の仲間がどこかに身を潜めているのではないか。街灯と建物からの明かりとの間にある闇を注意深く観察したけれども、だれも飛び出してこなかった。 

 どうやらだれもいないらしいことが分かったところでライラが安心できるはずがなかった。この状況を打破できるのはただ一人ソフミシアだけで、けれども、ちょうど剣士に対して心もとないナイフを手にして間合いを取っているところで、ライラの身を守ってくれる雰囲気ではなかった。状況も読めない。絵を描き技法だとか著名な絵描きの名前ぐらいならライラでも理解できるけれども、武器の技術となれば全くのお手上げ、ましてや戦術やら戦略なんてものは考えにも及ばなかった。 

 目の前の二人がこう着状況にある中、ライラは背後の物音に心臓が縮みあがった。頭が考えるよりも体が反応して、自分自身でも信じられないような素早さで振り返った。ただ振り返っただけで心臓が激しくあえいだ。狙われている、殺される。狩られる。ライラは半ば抗うのを諦めたけれども、予想していた痛みは襲ってこなかった。代わりに、殺し屋が潜んでいるのではと思っていた陰から猫が現れて、真ん丸の目が見つめてきた。猫はひと鳴きするなり寝そべって、毛繕いを始めて、すぐそばで行われている生きるか死ぬかの瀬戸際が見えていないかのようだった。 

 ほのぼのした猫に気を緩めてしまったその瞬間、肩に触れるものがあった。優しく触れられる感触は、わずかばかりに開いた心の隙間に腕をねじ込まれるようなものだった。何もしていないのに心臓が暴れまわり、ついには体もが心臓に呼応した。肩のものを振り払って、それでは足らずに飛びのいた。絵描きらしからぬ動きだった。 

 ライラの目はすかさずソフミシアの姿を探した。十字路の隅に目を向けてもだれもいなかった。男と女が闘っているはずだった場所は何事もなかったかのようにひっそりとして、漏れ出る光が柔らかかった。ソフミシアは剣客との攻防でライラからは見えないところ消えてしまったのではなかろうか。そう、ライラはひとりぼっち、見慣れない観光地の路地に取り残されたのである。どこかに殺し屋が潜んでいるかもしれないというのに、全く不用心な状況だった。もはや殺してくれと言っているようなもの、ライラを恐怖のどん底に突き落とすには十二分すぎるものだった。 

 自分ではいよいよどうしようもなくなってしまった。ライラができるのは叫び声でソフミシアを呼び戻そうと、あるいは声で自分の身を守ろうとするぐらいだった。体の中に空気をめい一杯抱え込んで大音声の一撃を繰り出せば敵の一人や二人ぐらい逃げてゆくだろうし、ソフミシアなら飛んできてくれると思っていた。 

 ライラはしかし、声を出さずして体の中の息を吐き出してしまった。ソフミシアはライラのすぐそばにいた。 

「どうやら驚かせてしまったようね。あんなに強く手を払うなんて」 

「その、すみません。てっきり敵のだれかが肩に手を乗せたものだと思ってしまいまして」 

「警戒するのは悪いことではない。謝る必要はないよ」 

「ですが、助けていただいたのに」 

「いいや、助けてはいないさ。あいつは私を狙っていた。途中からあなたを狙いたそうな目はしていたのは確かだが」 

「で、どうなったのです? 相手はどうしたのですか」 

「逃げられた。けがを負わせるぐらいはできたのだが、ちょっとした切り傷程度、ヤツの動きを止められるほどのものではない」 

「じゃあ、また襲ってくる可能性はあるのですね」 

「当たり前だ。あの男は何年も私を追ってきているのだから、腕の傷ぐらいでは諦めるわけがない。それよりもあなたは大丈夫か? ひどい顔をしているぞ」 

 ライラの両肩をソフミシアに掴まれて、目の前に彼女の顔がぐいっと迫ってきた。近づければ近づくほどソフミシアの顔から光が失われていって、刺客とは異なる怖さというか、不気味さが増していった。しかしライラ自身は正反対の感情が増してゆくのだった。肩に重なっているソフミシアの手がほんのりと温かかった。かすかにソフミシアの息をする音が聞こえた。感じ取れるもの全てがそこにソフミシアがいると示してくるものばかりだった。 

 ソフミシアがすぐそばにいるという安心感に、ライラを抑えこんでいたあらゆる堰が破られた。目の奥の堰が壊れて、感情の堰が粉々になって、声帯の堰も真っ二つに分かれた。意識もしていないのに涙があふれて、迷子になった子供のように顔をゆがめて、ソフミシアの名前を呼ぶ。そうしてからソフミシアの小さい体に抱きついて、居もしない敵に対する慄きを吐露する。怖かったです、すぐそばにいるのではないかと思って、怖くて怖くてたまらなかったです——周りの家の迷惑を顧みない大声だった。 

 抱き着くライラを受け止めた小さいソフミシアはすっかりうろたえているようだった。ぎゅうと抱きしめてくるライラに対してどう振る舞ってよいのか分からず、両手をライラに触れないようにしていた。何かしらの言葉もかけられずにいて、ただライラがするのに任せていた。 

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