沁みだす
行きたくないと駄々をこねることもがいざその場に行くと夢中になって中々帰ろうとしない、というのは時たま遭遇するわけだけれども、遺跡とソフミシアの組み合わせはまさしくその類と同じだった。しまいのところ、ソフミシアは遺跡の隅から隅まで歩き回って残っている姿を目に収めていた。ただ子どもたちと異なるのは、ワクワクや楽しさではなく、懐かしさに始終浸っている点だった。
宿に戻ってもなお、ソフミシアの顔は見たこともないほどににこやかな表情をしていた。この瞬間だけを目にすればどこにでもいる女性にしか見えない。だが普通な様子でいることがライラにとっては驚くべきことだった。きわめて曖昧なところしか知らないけれども、それだけでもソフミシアは普通ではない。奇妙な陰を持つ人物がどこにでもありふれた顔をするのが異様に感じられたのだ。
かつてないほどに楽しんでいるらしいソフミシアだけれども、しかし部屋に戻って時間が経てばいつもの姿に戻ってしまった。通路側のベッドで静かにしていて、かと思えば時たま窓の方へ足を進めて外を眺めて、何も口にしないでベッドに戻る。口数は少なかった。
ライラの手は自然とスケッチブックを手にしてソフミシアを描いていた。描く場所は、しかし新しいページではなく、遺跡の中で夢中になっている姿の隣に今のソフミシアを描きこんだ。首長を務めたという人物の建物について紹介する立て看板を前にするソフミシアは看板の文章に食いついていたものの、その隣に現れたソフミシアはひどく緊張した目つきだった。
ライラにはソフミシアが女の子であるとしか思えなかった。周りが緊張してしまうぐらいにピリピリしているのがソフミシアの常ではあるけれども、その裏には女の子と表すにふさわしい無邪気さがある。遺跡に向けた感情はあどけなさとは程遠いとはいえ、周りに警戒するのを忘れてしまうほどだからよっぽどだ。
「ずいぶんと遺跡では楽しそうにしていましたよね」
「私としては楽しくしているつもりはなかったのだけれどもな。確かに注意力が欠けている感はあったけれど」
「何を言っているのですか。夢中になって見ていたじゃありませんか」
「それはただ懐かしさを感じてだな、いいやそのことはどうでもよい、今後のことを考えなければ」
ソフミシアはたちまち話題をすり替えようと試みたらしかった。ところがソフミシアが持ち出した事柄、今後の予定について考えるのは極めて重要な問題だった。なにせライラが考えていた計画——単なる旅行がとんでもない事態となっている上、ソフミシアとの旅路もほとんど決まっていない。確実なものは、最後の目的地はライラの住む街だということのみだった。
どういった予定で今後行動してゆきたいかを互いに話したのだけれども、その折に全く関係のない話がソフミシアの口から洩れた。どうして絵を描こうとしたのか、どうしてソフミシアについてこようとしたのか。はっきりとした答えを用意できない問題だった。
「どうして私なのかしら。たまたま山頂で身を投げようとしていたから?」
「それもありますけれど、なにより、後ろ姿が普通に感じられなかったんですよ」
「普通じゃなかったと」
「まあ、そう言っていることになりますね。ですが、今はもっといろんなものを感じていますし、だからこそ自分自身でもあまり分からなくなってしまっているのですが」
「それってどういうことさ」
「ソフミシアさんと同行するようになって、いろんなものが一気に押し寄せてきているのです。途惑わないわけがないでしょう」
「なら、怖い? 私のことを絵にしていて、私のことが怖いと感じる?」
「そういうわけじゃありません。そりゃあ確かにいつもはピリピリしていて怖いなとは思いますが、それだけじゃありません。どことなく苦しそうで、どことなく寂しそうです」
ソフミシアはすると視線をやや下にずらして、なるほど、とぽつりつぶやいて、それっきり押し黙ってしまった。険しい表情をしているわけでもなく、ただライラのしゃべっていることを耳にしている時の顔のまま、口をつぐんでしまったのである。
ライラは背中に嫌な汗がにじみ出るのを感じた。ソフミシアを閉口させてしまうことをしてしまったということは、怒りに任せて何か恐ろしい仕打ちを受けてしまうかもしれないということだ。少なくともライラはそう考えていたし、だからこそ押し黙るソフミシアの姿がこれまでになく恐ろしく見えたのだった。
ナイフに手をかけやしないかとソフミシアの動きを見つめていたのだけれども、ライラが思っていたようなことは一切起きなかった。その代わりにもっと不可解な振る舞いに直面することとなってしまった。ソフミシアが笑ったのである。
ゲラゲラ笑うようなあからさまなものではなかった。声もなくにやりと口角を釣り上げる程度の微笑みであって、注意深く見つめていなければ見落としてしまうほど小さなものだった。
山の上でソフミシアと出会ってからこのかた、彼女の笑みを見たことがあったろうか? 自らに問いかけても答えが返ってくるまでに時間はかからなかったし、答えに対するあいまいさもなかった。間違いない。出会ってからずっとソフミシアは笑っていない。常に人の目を気にして、警戒して、ビクビクしている。
ソフミシアが再びぽつりと、そんな怖い顔をしなくていいぞ、と言葉を漏らした。
「別にあなたの言ったことが不快に感じるわけじゃない。不思議だな、大抵の連中の言葉は何でもかんでもイライラするものだが、全くそのようには感じない」
「でも、今まで見たことのない表情をしていたものですから」
「ああ、そうだったのか。さすが絵描きだ、よく見ているのだな」
「いえ、それほどでもないです。たまたまですよ、絵描きだからよく見ているというわけではないでしょう」
「たまたま、か。それにしても私もうかつだったな。感情も自分で制御できないとなると、私もずいぶんと落ちぶれたな」
「ふっと思いもしないものが顔に出ることなんてよくあるでしょう」
「私は汚い仕事をしていた。あらゆる状況で冷静に振る舞えなければ殺しもろくにできなくなってしまう」
「でもいいじゃないですか。もうやめるのでしょう?」
「やりたくはない。でもね、私は意志でやめたいのだよ。自分の能力が衰えたからやめるだなんてくそくらえ」
ソフミシアはおもむろに立ち上がってライラの前を通り過ぎて、窓へと歩み寄った。近づいてゆくにつ容れて体を低くして、けれども壁際に体を張りつけると恐る恐る外を覗きこんだ。
被写体の変化にライラは新しいソフミシアの姿を収めようと体を向けたところ、たちまち奇妙な状況に気づいた。人の顔一つ一つににらみを利かせる目は見覚えのあるものだったけれども、視線を下ろしてみれば、握りこぶしが怯えていた。まるで巨大で血に染まった凶器を握りしめる男を前に、武器もなく逃げ道もなく追い込まれてしまったかのようだった。ソフミシアに限ってそのようなことはなかろうけれども。
握りこぶしに見られた震えが飛び火して口元に現れた。ついさっきまで笑みを浮かべていた口角がピクピク震えて不快感をあらわにした。不快感は眉間にしわを寄せて、眉がつりあがった。
「どうしたのですか、ソフミシアさん」
「外で遊びすぎたのかもしれない。どうやら私がどこにいるのか勘づかれたようだ」
「知り合いの人ですか」
「ああ、それも一番会いたくないやつだ」
「宿敵ってやつですか」
「いいや、単に心の底から嫌いなやつだ」
ソフミシアがふっと身を隠したところ、眼下にいる宿敵が何か動いたのかも知れなかった。けれどもライラの据わっているところからは全くその姿を確かめることは出来なかった。ただソフミシアがじりじりと外の様子をうかがう目の向きで推し量るほかなかった。
ややあってから、ソフミシアの目から緊張がいくらか和らいだようにライラの目には映った。壁に背中を預けて天井を仰ぎ見れば、口から漏れるのはため息の音だった。続いて、何か悪態らしきものをついた。らしき、というのはライラの聞いたことのない言葉だったからだった。ライラの知らない方言なのか、あるいは、この国では使われていない言語であるか。
次に何が起きるかはライラには大抵想像がついた。ソフミシアは常に同業の人間から逃れていた。自分の人生を終わらせてしまおうとしているソフミシアなわけだけれども、しかしだれかに命を消されてしまうのはくそくらえと考えている。彼女はだれかから常に逃げている。
いつでも外に出られるようにライラは描き途中のソフミシアを諦めてスケッチブックを閉じた。ベッドの上に並べていた鉛筆を指先で手繰り寄せて、一束にして握りしめた。両手のモノを赤いパーカの上に置いてカバンを閉じた。
ソフミシアはすぐにも部屋を出て、何とかして宿から脱出するものと思っていたけれども、予想とは全く異なる振る舞いをした。ソフミシアの足を進める先は木の扉ではなくベッドだった。落ちるように腰をマットレスに沈めるなり腕を組んで難しい顔をした。
ライラはカバンの取っ手を手にしたままソフミシアの動向を見つめた。ソフミシアはベッドの上ですっかり動かなくなっていて、逃げ出すそぶりは全くなかった。何かを考えているのか、時間が過ぎてゆくのをじっと待っているのか。とにかく彼女は一切の言葉を発さずに、ただ座っているのだった。
どうするのですか、ライラが尋ねてみても答えは返ってこない。すっかり心を閉ざしてしまっているかのような振る舞いは、ライラをひどく混乱させた。散々ソフミシアには振り回されてきたが、いざソフミシアが何もしないとなると戸惑ってしまうのだった。ひとまずカバンから離れてソフミシアのベッドに腰かけてみて、注意を引いてみようとしても、彼女は顔を向けさえもしなかった。
ライラはついに諦めて再びカバンを開けに立ちあがった。何もせずに時間をふいにしてしまうのはもったいないわけで、それならば考え込むソフミシアの姿を治めておこうと思いついたのだった。けれども、立ち上がると同時にソフミシアの声があった。
「ファムの本島に戻る船の最終便はいつごろだろうか」
「さあ、そこまで細かく見ているわけではなかったので」
「あの男のやり口は夜中に忍び込んで喉口をぱっくり。だから、できれば島から出られる最後の便で、最低でも夜になる前にこの島を脱出したい」
「あの男って、その、外にいたっていう人ですか」
「その通り。やり口はよく知っているから、それにはまず対処しなければ」
「そうでしたら私が時刻表を確かめに」
「それはだめ。顔が割れているかもしれないから単独で動くのはまずい」
ソフミシアは組んでいた腕をほどくなりもぞもぞして体の向きを変えた。背後にある枕を目で確かめてから、腕を天井めがけて掲げてて、倒れ込んだ。頭の下に枕、というちょうどよい具合にはならなくて、枕が受け止めたのは前腕だけだったけれども、枕の位置を改めるそぶりを見せず、頭の下に手を忍ばせるのみだった。はじめはぱっちりと目を開いて天井の木目を眺めているらしかったけれども、ややあってから、日が沈む前に連絡船に向かおう、と言葉した。
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