北島にて
見上げる女
部屋にこもってしばらくソフミシアの姿を描きとめていたわけだけれども、ライラは次第に満足できない自分が膨れ上がってゆくのを感じていた。ただ座っているだけの姿をただ描いているのはもったいない。ソフミシアの別の局面を紙の上にピン留めしたい。ベッドの上で静かにしている姿ではなくて、より動きのある姿を捉えたい。歩いてゆく姿の背中からしみ出してくるものや、髪の風になびく感じが欲しい。外で描きたい。
ソフミシアが強く拒むのははじめから予想できたことだし、実際にそうなったのだけれども、ライラとしてはどうしても外に出たかった。
とにかく描きたい。部屋の中で描けるものは限られているのだから、と言ってもソフミシアには身の安全しか考えていなかった。外は危険、隙を狙われたらたまったものじゃない、そう訴えた彼女だった。けれども、私たちが部屋の中にいたとしても相手はいつでも狙えるじゃないですか、と言葉を翻せば、ソフミシアはついに返す言葉を失ったのだった。
宿の受付にいた男がすぐ近くに遺跡があるから散策するにはちょうどよいと口にしていた。古の痕跡が残っている地の中というのはソフミシアを描くには格好の舞台であって、ライラにはそこしか行き先として考えられなくなった。想像するだけでぞくぞくしてしまうほどで、描けると思うだけで口元がほころぶ始末だった。対照的にソフミシアはいかにも不機嫌そうなへの字の口をしてライラの後ろをついてきていた。
ソフミシアの不機嫌は遺跡に近づくにつれて幾分か和らいだ。というのは人が多くいて、ソフミシアの言葉を借りれば紛れられるからだった。石で組まれた建造物の残骸や石材の痕跡の合間を進む人々の中にはファム島で二人が紛れ込んでいた人ごみにいた人も交じっていた。
人の群れに入ることで安心したのだろうか、ソフミシアは遺跡の有様に関心を示すようになっていた。特に中心部の、過去の痕跡が濃く残る一帯にさしかかったところでは声を漏らしてしまうほどだった。外に出ると身に危険がどうこうとばかり口にしているソフミシアが!
ソフミシアが立ち止まって石の建物に見入っている間こそ、ライラの手にあるスケッチブックに彼女の姿を捉える最善の時だった。ソフミシアが常に怯えている屋外にいながら、ずっと建物の白みを帯びた色合いに目を向け続けている様子は見るからに無防備だった。ライラの目に初めて収める姿。絵に残さないわけにはいかなかった。
自らの目線よりもやや高いところを見上げる。ライラはソフミシアの斜め後ろに陣取ってスケッチブックを広げた。まっさらなページを出して、中央部分に大まかで直線的な輪郭を捉えてゆく。ざっくりと彼女の形と構図を見定めてより細かい描写に入れば、鉛筆が紙を忙しなくひっかいた。鉛筆がひとかきすればうっすらと姿が浮かび上がり、繰り返されればされるほどに存在感を増してゆき、ついには紙の上に何かを見るソフミシアの姿が現れたのだった。
ライラは似たような姿は一枚だけではなかった。ライラはソフミシアのいるページをめくるやいなや、再びソフミシアを描きにかかった。立ち位置を一歩岳横にずらして、新しい視線でソフミシアを眺めた。最初の一枚を描いた時よりもソフミシアの顔がよく見えるようになったのだが、ライラはその時、絵を描きたいという衝動が一気にかき消されてしまったのである。
ソフミシアの目に涙が浮かんでいる。冷酷な目でライラを睨みつけた目が、常に警戒心を解かない目が、あたかもそこには自分以外に誰もいないと思いこんでしまっているかのように、古のものを前に涙しているのである。いつも周りを気にする警戒の目はどこへと行ってしまったのだ? とげとげしい雰囲気はどこに行ってしまったのだ? ソフミシアを守る威圧感が全くなくて、その気になりさえすれば素人のライラであっても手をかけられそうだった。
かき消された衝動はしかし、少しばかり首をもたげて、鉛筆を持つ手に力が戻ってきた。しかし一人目を描いた時の激しさには程遠く、優しい手つきで紙に輪郭を刻むばかりだった。
ソフミシアが見ているのは確かに遺跡の一部ではあるけれども、何か特別なもの、というわけでもない。いわれや解説を並べた看板がそれの前に立っているわけでもない。確かにあまり壊れているようには見えなくて、保存状態はよいのかもしれないけれども、この遺跡の中ではごくありふれたものだ。
どうしてそこらじゅうに転がっているものに感涙してしまっているのか。ぼんやりと考えるライラの手はいつしか二人目のソフミシアを破いてしまっていた。新しい紙にソフミシアを描くのだけれども、一人目や志半ばで消えた二人目に比べると中央から大分ずれたところにたたずんだ。視線の先には人の胴体ほどの太さである柱が一本と、すぐそばに配置された石の板が壁となっているだけだった。
大事なのはソフミシアではない。大事なのは石柱と石壁を見つめるソフミシアである。ライラには細かいところまでは分からないけれども、一人と二つの物体との間には何か物語がつながっている。ライラには分からない、ほかのだれも知らない、ただソフミシアだけが知っているお話。当人ではないライラには、ただただ普通ではないとだけ分かる様子。
鉛筆はぼんやりとソフミシアと過去の残骸を捉えた。目がなく、胸がない、それでいて決して長身ではない、そのような女が一本の棒と四角い板を見つめていた。そう、ぱっと見たところでソフミシアを描いたものとは分からないわけだが、ライラにとってはソフミシアにしか見えなかったし、自分ではよい感じに姿をとらえられていると思いこんでもいた。ライラには紙面に描かれていない線が見えたし、どこにペン先を入れればよいのかも分かっていた。一番描くのにワクワクするのが顔であって、だからこそ顔は最後に描く。まずは足元から、徐々に上がってゆき、しまいに目を描こう。ライラには全てが見通せていた。
しかし、ソフミシアのつぶやきは見通しを真っ新にしてしまうだけの爆発力があった。
なつかしい。言葉はソフミシアの固く守られているはずの口から漏れ出た。それも意識を持ってだれかに向けて発せられたものではなく、にゅるりとはみ出てしまったかのような言葉だった。一瞬の気の緩みに隙をついた言葉は、しかしひとり言とするにはやや大きくて、ライラの耳にも届くほどだった。
ソフミシアがファム諸島に来たのは今回が初めてだと聞いていた。はじめてやってきた場所の光景を前に『なつかしい』というのは話が通らない。目の前にあるのは見たことのない景色であるはずだから、真新しいものでなければならない。見覚えのない景色に対して懐かしむという感覚はおかしい。
ライラの手は一瞬、鉛筆を走らせようと紙に芯をつけたものの、ついには諦めて、長いこと立ち止まり続けているソフミシアに声をかけるのだった。
「あの、ここには来たことがあるのですか?」
「いや、初めてさ。言っただろう、この島に来るのが初めてだって」
「じゃあどうして懐かしいのですか」
「それはね、私の地元に似たような建物があったからなのよ。ずいぶんと昔に見たっきりだから、思わずね」
「そんな古い町があるのですか。地元はどこなのですか?」
「古い歴史のあった町なのは確かだけれど、あまり人に話したくないから、申し訳ないけれど」
「その、『仕事』に関わるのですか」
「まあ、元凶であるのは間違いない」
ソフミシアはついに柱から視線を逸らしてライラのスケッチブックを覗き込んだ。指先でスケッチブックの向きを動かしたところ、いくばくかの興味はあるらしかったけれども、ふうん、と声を漏らしたのみで感想らしい言葉はなかった。ただ、もうちょっと見て回りたい、と言葉を残して、奥の方へと脚を進めた。
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