逃避行

 ライラにとって宿から数時間はきわめて異常な体験だった。あそこまで慎重な移動は初めてだった。繊細なものを運ぶのに慎重になったのはあったけれども、人に勘づかれないように向かった北部への道はそれよりもひどく疲れた。 

 荷造りは素早くやらされるし、けれども宿から外に出るのには普段の十倍以上はかかった。ソフミシアは人ごみに紛れようとしていたらしく、長くドアの隣の窓から外の様子を伺ってばかりで、受付にいた男にはひどく不審がられた。そうしていざ人ごみに紛れたところで、行き先は全く知れず。ライラ本来の予定であれば、この小さい島の南にある遺跡を巡るつもりだった。人々の中に潜んで予定地に行けるかというと否だった。土地勘がないライラでも違う方面に足を進めているのは明らかで、ライラが考えを回すに、目的地を背にして道を歩いていた。 

 人の群れが行き着く先は町の郊外にあるバスターミナルだった。バスの行き先を確かめればよいものの、ソフミシアは一番近くにあったバスを見つけるなりそれに乗りこんでしまった。行き先の分からないバスに乗って知らない地名のアナウンスを聞きながら行き着く先は港町だった。下りたバス停はいくつかの路線が乗りこんでいるようであったけれども、ファムにあったような大きなターミナルではなかった。バス停には矢印とともに連絡船乗り場の案内がされていて、ソフミシアは矢印になすがまま小走りをして、ついには船に乗ってしまった。当然ながら、ソフミシアは常に警戒を怠っていなかった。常に人の集まっているところに身を置いて、決して人々の壁から離れなかった。 

 人の流れるままに乗った船はファムの北部にある島へ向かう連絡船だったらしい。個室が用意されているわけではなくて、シート席とボックス席とがあって、ソフミシアはボックス席に座った。ソフミシアと向き合うようにして席に着くと、頭越しに進む先の光景が目に入った。 

 海の中を進むことしばらくして船内アナウンスがあった。北島という面白みのかけらもない名前の島を耳にして、ライラは旅行前に読んだ観光雑誌を思い出した。人の手がほとんど入っていない北島は西半分が国定公園となっていて、雑誌には絶好のハイキングコースだと強調されていた。東側に広がるのは平坦な土地で、観光の拠点としての港町があり、ちょうど針路の先にその姿を認められるようになった。 

 いざ北島の出入り口となる町に降り立ったのは船の中から半分ほどの人が出てからだった。ソフミシアは船から町にあふれ出す人々の流れから外れるつもりは毛頭ないらしく、見通しを立てずに人が歩くに任せていた。もしかしたら見通しや企てがあったのかもしれない、とわずかばかり信じてみたけれども、通りにある宿を通り過ぎた瞬間、少なくとも彼女の頭の中には宿に入るつもりが毛頭ないと確信した。 

 だからライラはソフミシアの手を掴んで群れから道のはじに引きずりだした。行き先も知らないで殺し屋の後をただただついてゆくのは耐えられなかった。ソフミシアはライラの手を掴みなおして再び人々の間に潜りこもうとはしなかったけれども、しきりに人の流れに注意を向けていた。 

「立ち止まっては連中に勘づかれるかもしれない。早く人ごみに紛れないと」 

「そうじゃなくて、まさかこのまま人の流れになすがままでいくつもりですか」 

「うまい具合に人の流れを行き来すれば相手の目を紛らわせられるでしょう」 

「何を言っているのですか。わざわざ外を歩き続けるだなんて疲れるだけですよ。どうして宿があるのにそこを取らないのですか」 

「部屋を取ってしまえば相手に特定される可能性が高くなるのだよ。それも分からないのか」 

「見つからないようにして宿に入ってしまえば特定のされようがないでしょう。宿はいくらでもあるのだから見つけられるわけがないじゃないですか」 

「やつらを侮ってはいけないぞ。連中はどこでも見つけようと来るのだから」 

「だったら宿に泊まったって関係ないですよね」 

 ソフミシアの腕をぐいと引っ張ってみたけれどもびくともしなかった。どうやらよほど宿に部屋を取るのがいやなようだった。けれどもライラとしては一刻も早く荷物一式を部屋に置いて最低限の荷物にしたかった。お願いだから、ともう一度、画材を持ってばかりいる腕で思いっきり腕を引き寄せれば辛うじて動いた。ソフミシアは人ごみに一瞥を向けて、一刻も早く流れの中に溶け込みたかったようだったけれども、ため息とともにしぶしぶ、ライラの訴えを聞き入れた。 

 ついさっき通り過ぎた宿に部屋を取った。ようやく重い荷物を持ち運ばないで済むライラは床にバッグを置くなりベッドに体を預けた。ずっと人で混み合った中をもまれ続けてきたために、バスや船で移動している時間が多かったにもかかわらず、一日中歩き続けたようなだるさが体中にじんわりと蝕んでいた。一方でソフミシアはびくびくする小動物のように落ち着きを欠いた。中腰になった上に足音を立てないで部屋の隅々を調べて回った。足音を立てないようにして、何か不自然なものがないのかを確かめる。職業柄としては当然なのかもしれないけれども、ライラにとっては全く無意味なもののように思えた。だれが泊まるかも分からない宿の部屋に、ソフミシアを見つけ出すようなものがあるとは思えなかった。 

 ライラはカバンの中からスケッチ道具一式を探していて、見つけてはベッドに並べた。鉛筆とスケッチブックは開けたらすぐのところにあったからよかったけれども、水彩絵の具と筆がなかなか見つからなかった。かなり奥まったところに入っているらしかった。そこで上にある荷物を一つずつ取り払っていったところ、カバンの奥、タオルの下に絵具と筆入れとが身を寄せていた。 

 一式をベッドに逃してから再び荷物を戻していると、ソフミシアがベッドにちょこんと腰を下ろした。どうやら探し物は終わったらしかったけれども、顔が穏やかではなかった。何か不満があるのか、それとも、まだ恐れているのか。 

「何もなかったのですね」 

「まあ、探した限りでは何もなかった」 

「そう、なら安心ですね」 

「そうとは限らない。どこで同業の連中が見ているか分からないからな。ここも早いうちに出た方がいい」 

「急がなくたっていいじゃないですか。現にここに来たのも全く予定していないことですし。寄り道ですよ」 

「だがライラ、あなたを私の迷惑に巻き込んだ以上、責任を持ってその手から逃がさなければならない」 

 ソフミシアはふとライラを指さして、そういえば、と口にした。それから、いつまでにどこへ逃がせばよいのか、と問いかけてきた。ソフミシアに接触したがために命を狙われるかもしれない、とのことでソフミシアはライラと一緒にいるけれども、その終着駅がどこであるかはちゃんと取り決めていなかった。少なくとも、成功報酬がソフミシアの死への手助けだと決めただけだった。 

 ライラには確かに帰る場所があったけれども、別段この旅行に期間を決めてはいなかった。ファムの島々の西側にあるアラン島のさらに北東部、アランという町にライラの住む家があって、帰る場所としてはそこ以外にはありえなかったけれども、飽きたら帰ればいいや、といった気持ちでいた。だから、『いつまで』というのはなかなか答えづらかった。 

「アランに帰れればいいのだけれども、時期については」 

「アラン、それはどこにある?」 

「アラン島の都で、北アランの東部にあります。ここからだとちょうど西に行くとアラン島ですが、ご存じないですか?」 

「私はずっと東側にいる人間だったから、その方面には行ったことがない。ファム諸島に来たのも今回が初めてだ」 

「だったらちょうどいいじゃないですか」 

 ライラの中に一つひらめくものがあった。ソフミシアをアランまで連れて行ってしまおう。ファム島に戻って西側の港から船に乗ればアラン島の南に着く。それから鉄道なり飛行機なりで東西を横断する山脈を越えれば、ライラの住む都が見えてくる。どの手を使ったとしても時間はかかるわけで、その分ソフミシアの命は長らえる。そう、ソフミシアは死を望んでいる。 

「まあ、死に場所は山でなくともどこでもいい。あなたの提案を拒む理由が見当たらない」 

「ならそうしましょう。二人でアランに行く。その間ソフミシアさんは私を守る。それでいいですね」 

「ならば追加任務として新しい報酬を求めなければならないけれど、まあ、それも後でよかろう。今はとりあえず、一刻も早くこの場から立ち去りたい」 

「少しくらいゆっくりしてもいいのではないですか」 

「職業病ってやつだ。何もしないのにその場にとどまるのはこの上なく危険だし、怖い」 

「なら何かをしましょう。絵を描かせてください」 

 ライラの言葉にソフミシアは一瞬表情が固まったけれども、ため息を一つついたところ、ライラの発する熱気に負けてしまったらしかった。一度立ちあがって衣服を整えると、再び腰を下ろして脚を組んだ。 

 ライラは反対側のベッドにあぐらをかいてソフミシアのスケッチに取りかかった。ファム島でしたスケッチはいくらかあったものの、まだまだやり足らなかった。もっとソフミシアを描きたい、原始的な衝動につき動かされて、荒いタッチでとらえてゆく。ソフミシアの姿を、一見しただけでは自信に満ちているけれども、その裏では死を望んでいる姿。内側に潜むすっかり脆くなった心を黒い線の中に描き出したい。 

 紙の上に大まかな形が出来上がって、ついにソフミシアの抱える闇を描きだそうと素描に入った。滑らかな輪郭をなでたり体のところどころにある影を擦り込んだりして、描かれている姿に重みが生まれてきた。 

 より細かく、より正確に。紙の中のソフミシアをよりソフミシアらしくしようとしている中、どうしてソフミシアに生きていてほしいと思っているのか、不思議に思った。つい最近までは赤の他人だったにもかかわらず、自殺をしてほしくないと考えているのはライラ自身でも理由が分からなかった。とにかくソフミシアの絵が描きたい、その気持ちだけが先走っていた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る