ソフミシアの守り
女はソフミシアと言った。ライラにとっては耳になじみのない音の響きで、けれども尋ねたところで納得のいく答えは得られなかった。生まれた場所が違えば名前付けの文化も違うだろうというのがソフミシアの言い分だったけれども、国の中で複数の言語が使われているわけでもない以上、何かしらの形で音に覚えがあるものである。
ライラが寝る前に個人的な内容でやりとりしたのはそれぐらいで、絵のことについては一切触れてこなかったし、ライラもまた相手の残虐そうな経歴について尋ねもしなかった。ただし、自殺しようとしたのを止めた点についてはひどく不満を漏らしていた。あの時声をかけられてさえいなければ今頃市の安らぎに使っているところだったろうに、どうして現世の苦しみを私に与え続けるのか、とライラに向けられても困るような内容もあった。
ソフミシアの不機嫌な表情のせいで寝つきは決してよかったわけではないけれども、起きがけはもっと悪かった。外がやたらと騒がしかったのだ。騒音で叩き起こされた形のライラは視界がフラフラで、まだ寝たりない感がたんまりと体の中でよどんでいた。
だが、何気なく周りを見回した時になって、ライラを包みこんでいた眠気のモヤが一瞬にして散り散りとなり、体の中でくすぶっていた眠気の一切も消え去ってしまった。隣のベッドに寝ていたはずのソフミシアがいなかった。
今晩だけは守ってやる。ソフミシアの言葉が脳裏に顔を出した。彼女は本当に一晩だけ見張っていた。もしかしたら夜が明けると同時部屋を立ち去ってしまったかもしれない。彼女は身軽な装備だった。荷物ばかりのライラとは違ってすぐに出て行けよう、だとしれば急いで追いかけて連れ戻さなければ。ライラはごく当たり前のように、モデルを連れ戻すのを考えていた。
荷物をそのままにライラは飛び出した。それはもう脱兎のような勢いであったのだけれども、宿を出るや否や止まらざるを得なくなってしまった。人ごみで前に進めないのだった。通りの隅から隅まで人でごった返しているわけではない、宿の出入り口をふさぐようにして人だかりができているのである。
ソフミシアを探しに走り回りたい一心のライラにとって、行き先をふさぐ人ごみはただの邪魔ものに過ぎなかった。一刻も早く見つけなければ、ソフミシアはどこか見つけられないところへ行ってしまう! 人ごみのない方面に体を向けて走りだそうとしたところで、人ごみからの声を耳にした。
ごめんなさい、と男の声は何者かに乞い願っていた。声をあげる度にどこかしらで声がひっくり返ってしまうというところ、かなり動揺しているらしかった。なんども謝罪を口にする声を遮るように別の声もあった。お前が何をしたのかは分かっているのか、お前を殺してもいいのだぞ、という男への非難。男が情けない声で『分かっています』と答えたところで鈍い音が響いて、男の叫び声が続いた。
男を非難する声はソフミシアだった。とげとげしい言葉遣いではあるけれども、宿で耳にした低めの声色と同じものだった。ことのほかしっとりと耳に触れる感じは、まさしくソフミシアの声だった。
ライラは幾そうにも重なる人ごみをかき分けた。人と人との間に手を差し込むごとに、すみません、と呪文をつぶやきながら、手で入り込んだ場所をに体をねじ込んで、声の出所へと近づいていった。
一組の男たちの間を抜けて群がりの再前列に立ってライラが目にしたものは、顔に青あざを作っておびえた様子の若い男と、その真ん前で腰に手を当てているソフミシアだった。そしてソフミシアの向こう側、観衆よりも一歩か二歩ソフミシアの近くには中年の女が落ち着かない様子で二人を見たり、群衆に目を向けたりしていた。
ほかに盗んだものがないのだな、とソフミシアが尋ねた。もうないですからもう許してください、と男がビクビクしながらも言った。それは私に言うせりふじゃない、とソフミシアが言い、お前が盗みを働いた店の主にする言葉であろう、と続けた。
男はすると瞬く間に中年の女に向かって頭を下げた。本当に申し訳ないです、と口にする間、男は頭を地面にこすりつけた。それでは足りないと思ったのか、頭を少しばかり持ち上げて、それから石畳にうちつけて謝罪の言葉を述べた。ごめんなさいもうしません、有り金全部渡しますから、と言葉を並べる度に鈍い音が人ごみ中に響いた。
いたたまれなくなった中年が男をとがめてもなお、ソフミシアは厳しい視線を緩めはしなかった。それどころか腕を組んで胸を張って、威圧感をより強めてさえいた。ソフミシアの顔を見ただけで『許す』という言葉が消し去られてしまうのを感じるほどだった。
人々の目線は盗みを働いた側と働かれた側ではなく、ソフミシアに向けられていた。男の顔面や振る舞いを見ればソフミシアが何をしたのかおおむね察しがつく。盗みが悪くないとは言えないけれども、盗みに対してはあまりにも不釣り合いな仕打ちに違いなかった。あんなすげえ人初めて見た、という感心の声もあったけれども、なんなのあの人、善人気取って殺そうとしているじゃない、というのが大半だった。
男をなだめた女は続けて群衆をなだめにかかった。もう解決したから大丈夫よ、頭の上で手を振って散り散りになるのを促すけれども、群れはなかなか解消されなかった。見ず知らずの人たちがソフミシアの仕打ちに同じ感情を抱いて、それが徐々にまとまりをもつようになっていた。名前も知らない人同士でごにょごにょと非難の言葉を並べる。こういった折に現れる人間の団結力にはどこか変態じみた性質があって、非難の塊はあっと言う間に数珠つなぎとなって大きくなってゆく。
しかし力に対して無力になりがちなのもまた人の性質であって、ソフミシアが視線を周りの人々に向けるや否や、つながりかけていたものは一瞬のうちに断ち切られた。老若男女はソフミシアに背を向けて、あたかもそこには何事もなかったかのように立ち去ってしまった。数秒もすれば、宿の前のいるのは店主と盗人と殺し屋と、そしてライラだけになってしまっていた。中年の女も、あんたたちももう十分だから、と言い残してその場から逃げ出してしまって、男は店主を追った。
ついにソフミシアとライラが残るのみとなった。ソフミシアはその場から少しも動かないで逃げる人の後姿を眺めていた。目の奥に潜むものが昨日のライラに刃を向けた時のそれに近かったものだから思わず立ち尽くしてしまった。ここで逃げたら襲われる、と動物としての本能がライラに働きかけて足も動かなかった。
ソフミシアはしばらく当事者が消えていった方向を睨みつけていて、ややあってから恐ろしい目をライラに向けて腕組みをほどいた。反射的に一歩後ずさりしてしまったけれども、訳が分からないという手ぶりを目にした途端に緊張がとろけてなくなった。
何をしたのです、と歩み寄るソフミシアに尋ねた。
「あの女が若い男を追いかけていたのだ。泥棒と叫びながら追っかけていたからその男が盗みを働いたのはすぐに分かって、だから私が止めた」
「止めただけであんな傷だらけにならないと思います」
「抵抗したからそれに応えたまで、ヤツがごねなければそこまで痛めつけはしなかったさ」
「素人目でもやりすぎですよ」
「男のしたことは他人の財産を奪う行為にほかならないのだから、どんな仕打ちを受けようと文句は言えまい」
「世の中にはやりすぎってものがあるのですから」
「徹底的に潰す。私はそうやって悪を正してきたのだ」
見ず知らずの人にナイフを向けたり、おもむろに裏社会じみた話をしたりするソフミシアが悪を正してきたと口にするのはなんだか奇妙に思えた。ソフミシアはむしろその悪に関わってきた人物であるようにしか思えなかった。見慣れない大きさのナイフを常に持っていて、野生の生き物のような警戒心をずっと持っているし、人のことを殺し屋だと思いこんでしまうし——ライラが持っている情報では、ソフミシアはとてもじゃないが正義の味方ではなかった。
空を見上げれば雲一つない青い空が広がっていた。夜も更けたからソフミシアは行ってしまうのだろう、ライラは挙動不審な女に目を向けた。夜が更ければライラを守ってくれなくなる。どこかに消えて、それから死んでしまうのだろう。止めたところで効く耳を持たないに違いないし、ナイフを向けられれば黙り込むしかない。
ソフミシアはしかし、ライラに対して別れの言葉を口にしたり、ライラのもとから去ってしまったりしなかった。それどころか肩に手を乗せてきて、宿の中に押しやろうとした。しきりに辺りを気にしているところ、なんだかただならない雰囲気だった。
「一体どうしたのですか」
「状況が変わった。人ごみの中に知っている顔をいくつか見た」
「ソフミシアさんの友人ですか」
「私を殺したがっている連中たちだ。あそこまでの騒ぎの中では手出しは出来なかったようだが、この先いつ襲撃されるか分からない」
「確か死にたがってはいませんでしたか」
「自分で手を下したいのであって、同業に殺されてだれかの懐が温めるつもりは毛頭ない」
「だったらどうするつもりですか。別にソフミシアさん一人でもなんとかなるものでしょう」
「人質としては十分に役立つ」
「なんで人質なんですか。私の知り合いが殺し屋だとでも?」
「いいや、そうじゃない。私単体であれば同業は隙あらば狙ってくる。でもライラ、あなたがいれば手を出すのも難しくなる。やるとなれば二人同時だからな。二人を同時に殺すのは一人をやるのに比べてはるかに難しい」
ソフミシアは半ばライラを無理やり押すようにして宿の部屋へ急かした。部屋に入る手前では一転、中に入ろうとするライラを押しとどめて辺りを見回して、一人先に部屋の中に入ってしまった。戸口は開けっ放しにて、ソフミシアは部屋の隅々まで見て回って、そうしてからようやくライラを中に入れた。
心が落ち着く宿の一室であるはずだけれども、ソフミシアが醸し出すピリピリした雰囲気がライラの気持ちをすっかり落ち着かなくさせていた。ソフミシアは忙しなく部屋の中を行き来していた。閉ざした戸口に耳を当てて外の音を確かめたかと思えば、中腰で窓際に忍びよって外の様子をそっと覗く。止まることを知らないものだから、ソフミシアの重い足音がひっきりなしに耳を叩いてきて、それが余計にソフミシアのもつ雰囲気を意識させてしまうのだった。
窓際にむかった足音が扉に歩いて行かなくて、どうしたものかと顔をあげればソフミシアがライラに迫ってきた。いつか見た鋭い眼光に思わずか弱い声を漏らして飛び上がってしまったけれども、ソフミシアは微動だにしなかった。ソフミシアはすると荷物を指さして、今すぐ荷物とまとめろとささやいてきた。
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