志願者の狙い

 絵を描かせてください。女は微動だにしなくて、ライラの申し出は女の殺気にかき消されてしまったとしか思えなかった。なのでライラが立ち去ろうと一歩後ずさりをしたと同時にヒョイと飛び上がったのには腰を抜かした。目の前で飛び降りた! しかし手すりを掴む手は体を支えて、浮き上がった脚は手すりを越えてライラのそばに着地した。 

 下山する間、女が口にした言葉は、どこの人間なのか、のみだった。ライラはすぐにその意味を読み取れなかったけれども、出身地のことだと気づいたライラは北西の方にあるアランだと答えたけれども、女がその話を広げはしなかった。聞くだけ聞いておいて全く言葉を返さなかった。 

 ライラが宿をとっているファムに到着した時には、街並みに夜のとばりが下りていた。人々はみなどこかの宿に身を潜めてしまったようで、観光地はすっかり騒がしさを失っている。ライラと女との間にある微妙な空気に近いものがあった。 

 ライラは小さな宿の二階に泊まっていた。二人用の部屋ではあったけれども、二人で泊まるのを露骨に拒んでいるような狭さで、一人で泊まってちょうどいいというありさまだった。ベッドは二つあるけれども幅が狭くて、まるで一人用のベッドを半分にして二つだと言い張っているかのようだった。 

 ただでさえ狭い部屋なのに、ライラの荷物が部屋の空きを占領してしまっているがために歩き回るのも満足にできない状況だった。部屋に入った女が自分の場所を確保できずに立ち尽くしてしまうのも無理のないことだった。 

 ライラは行き場を失っている女を尻目に画材の詰まったカバンを引きずって部屋の隅っこへと追いやった。ひとまず人が通れるだけの道ができたところでライラはベッドに腰かけて女を呼び寄せるも、女は動かなかった。しょうがないからとスケッチブックと鉛筆とを準備する。 

 そろそろどこかに座っただろうと視線を向ければ、女がナイフを手にして身構えていた。ちょうど腰のところに携えていた、かなり大型の、男でも扱いこなせるか怪しいほどのナイフを左手に握りしめていた。 

 心臓が一瞬、ぴたりと止まった。息を吸うことも吐くこともできなくなって、目の前がチカチカした。視界がぐらりと揺らいだ。数時間前までは崖っぷちに立っていた女が目の前で切っ先を向けているなんて、だれが想像できようか。とりわけ、興味深い姿を絵にしたいとしか考えていないライラにとっては全く予想だにしない事態で、何をどうしたらこの場をつくろえるのか、アイディアの一つも出てこなかった。 

 手にしていた鉛筆が指の合間をすり抜けて、床に落ちた。 

「仲間はどこだ」 

「なにを、なにを言って」 

「お前の仲間はどこだ。私に対してたった一人ということはなかろう。違うか?」 

「いや、私だけ、です。どうか武器をしまって」 

「私を殺すつもりで声をかけたのではないのか」 

「絵を描かせてほしい、って言ったじゃありませんか」 

「ああ、そうか、そうなのか」 

 女はするとしまうそぶりを見せたけれども、すぐに手は止まって、ライラを睨みつけた。魔法の目はたちまちライラの鼓動を激しくさせるとともに窒息させた。姿や形を目にするだけで石にされてしまう魔物のような力が女の目にはあった。 

 ライラは自分の引き起こした事態に全くついていけなかった。ただ怖いという感情だけが心の中からあふれ出してくる。このまま帰ってもらって逃げれば収拾がつくと思ったけれども、絵を描こうとして武器を向けられた以上、絵を描かないと言ったら武器を突き刺されそうに思えて、余計に恐怖だった。 

 けれども女はナイフを背後の鞘に収めると、さも何事もなかったように、それが日常であるかのように振る舞った。手前のベッドに腰を下ろして脚を組んで、じっとライラの様子をうかがっていた。 

 ますます帰すわけにはいかなくなって、ライラは落とした鉛筆を拾って女と正対した。ベッドの上にあぐらをかいて、左手にスケッチブック、右手に鉛筆を携えた。これから絵を描くというのに、ライラの顔に楽しさが微塵もにじんでいなかった。 

 それじゃあ、描かせてもらいます。ライラはたった一息で済む言葉を何回も噛んで、その度に殺されるのではないかと思って女の様子を伏し目がちにうかがったけれども、女もまた伏し目がちにライラをチラチラと見ていた。それにはまるで気づかないで、何もされないと分かる度に安堵の息を漏らした。 

 絵を描くためには、被写体をよく観察しなければならないのは当たり前のことであるけれども、ライラは描く対象へ視線をろくに送らなかった。本来絵に向けられてしかるべきやる気が、女の癪に障らないよう立ち振る舞うことに振り分けられていた。 

 その時に女から声がかけられるのだから、ライラがひっくり返った声で返事をするのも無理はなかった。 

「なんでしょう」 

「そう素っ頓狂な声をあげなくてもいい。その、なんだ、先ほどの件は申し訳ない。あなたが私に危害を加えるつもりがないのなら私とて何もするつもりはない」 

「じゃあどうして、ナイフを、私に」 

「あなたの言葉がてっきり私を誘い出す言葉なのだと思いこんでしまっていたのだよ。今までそのようなやり口で来る連中はいなかったから、どれほどのバカなのか確かめようとあえてのっかることにしたわけ。まさか本当のことだとは思いもしなくて。申し訳ないことをした」 

「どうしてナイフを向けなければならないのですか」 

「私はそういう環境で生きてきた。命の危機にさらされて続けて、生きるか死ぬかの瀬戸際を潜り抜けてきた。信じられないとは思うが、この平穏で小さな島国にも、暗黒面があるのだよ」 

 ライラはスケッチブックに何やら描き込んでいたけれども、同じような線を同じところに幾重にも重ねるばかりで、一向に輪郭の形とならなかった。薄い線がただ太く濃くなってゆくばかりだった。ライラの頭の中に女の絵を描くなんて考えはもはやグズグズに破壊されてしまって修復できないほどになっていた。けれどもやっぱいいですから帰ってくださいと言いだす勇気も出なくて、相手がしびれを切らして帰ると言いだすのを期待していた。 

 女は思っていた通りに言葉をこぼした。けれども、ライラが望んでいたそれではなかった、むしろ状況を悪化させてしまうような言葉で、耳にしたライラはついに惰性で動かしていた鉛筆まで求めてしまったのである。 

「しかし、これがその手のことじゃないとなるとまずい状況になる。私を消す目的がないのに私と接触したとなると、どうみなされるものか」 

「それって、どういうことですか」 

「他の同業者が考えるのはこうだ。あなたは私と何かつながりを持つ人物である。あなたは何らかの情報を握っていて、私に何か依頼した。私が同業に依頼しなければならないほどの状況に陥っている」 

「ちょっと待ってください、私はただ」 

「事実がそうであっても、ただ声をかけただけだと考える人間はまずいない。同業は常に最悪のケースを考えて行動している。つまり、私が言ったような選択肢」 

「じゃあ私、だれかに殺されるのですか」 

 ようやくスケッチブックから顔をあげたライラは、女がベッドに上半身を預けているのを見た。もはや絵のモデルとして一切の役割を果たしていない、すっかり気が抜けたような姿にはどこにでもいる女のような雰囲気があって、しかしそれが異様に感じられた。すっかりくつろいでいるような女がどうしてナイフを人に向けて構えなければならなかったのか。恐ろしさを感じていたのがつかの間、山頂で抱いたあの感覚が戻ってきた。 

 ライラの手に力がみなぎってきた。スケッチブックを裏返すなり、力なく横に倒れる鉛筆がいきり立つ。顔をまっすぐ女の方へと向けて、輪郭と位置を捉える。目だけが女と紙面とを忙しなく行き来して、無地の上に女の姿を落としていった。 

 女が声を出してもライラの手は止まらなかった。 

「私と接触した以上、その可能性は否定できないよ。私を狙っている連中はどこにでもいる。何もないとすればよっぽどの強運の持ち主だ」 

「なら守ってくれませんか。しばらくの間、そうすれば私は素材に困らないですし」 

「それは私への依頼とみなしていいのか」 

「まさか、お金を取るのですか」 

「これから死のうって人間が報酬金をもらったって何の得にもならない。依頼を受けるつもりはないよ」 

「守ってくれないのですか」 

「今晩だけは守ってあげよう。そこから先は自分でなんとかすることだ」 

 女がむくりと体を起こしてしまうところ、本人は全くモデルの自覚がなかった。ライラが体勢をもとに戻すよう口にするよりも早くベッドを離れて、通りに面した窓に歩み寄った。そのまま窓越しの様子をうかがうのかと思いきや、一度壁に体をぴたりとつけて、それから恐る恐る窓の外を覗きこんだ。 

 知っている顔はいないな、女は壁に背を張りつけてつぶやいた。女からはちょうどスケッチブックが見えていて、まじまじと描かれているものを見つめているらしかった。ライラはライラで女が次に何をするのか注視していて、二人の間に言葉が飛び上がらなかった。外から迷いこんでくる知らない人の声が大声に感じてしまうほどだった。声が聞こえた瞬間、女は再び外の様子を覗き見た。 

 外の声が途絶えて静けさが戻ってくると、女は関心の目を屋内に向けた。スケッチブックを持つ絵描きを見下ろして動かなくなった。わずかな挙動一つ一つを漏らすことなく目に収めようとしているかのよう、観察の目はあまりにも鋭かった。しまいに耐えきれなくなったライラは、どうかしましたか、と尋ねずにはいられなくなった。 

 すると女が応じるのは、至極無難な言葉だった。 

「そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわね」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る