ソフミシア・フィルンと嵐の場合
衣谷一
ソフミシアという女
ハイキング
ちょっと見上げれば、雲一つない空が途切れることなく続いている。風は穏やかに中空を進み、肌に当たる時には陽の光と相まって言葉にしがたい心地よさとなる。まさしく絶好のハイキング日和であるけれども、しかしライラの周りに人っ子一人いないのは、ひとえになんら特別な出来事もないごく普通の平日であるからだった。
ファムの郊外から山の山頂へと至る登山道を歩いて三時間ほど経っていた。多く紹介されているのは二時間強という時間なので、標準よりやや時間がかかっているものの、ライラがそれを気にしている様子はなかった。頭上の空の清らかさを見上げたり、斜面のところどころに茂る草花に目を向けたりと、ファムの山が持つ自然を楽しんでいた。時折立ち止まって岩に腰かけては、スケッチを描いた。
ライラの描くものは全体を描いたものではなく、草だけや岩だけといった、一部分に光をあてたものばかりだった。大抵が数十秒、長くてもせいぜい五分程度で描いてしまう絵はどれもが姿の特徴をとらえており、それでいて大胆に影を描き込んでいた。実物はきわめて小さなものであっても、スケッチブックの上に描かれる姿は紙面をめい一杯に使って、気づかないような細かいところの描写も加えていた。
山の頂に到着するころには、スケッチブックのどのページもスケッチで使い果たしてしまっていた。それでも足りなくて大きく描いたスケッチの空きスペースに小さく描き込んでいるところもあった。ハイキングをした終わりに頂上からの景色をスケッチに収めておきたいと考えているライラには困った出来事で、どれかを消そうか、それとも景色を諦めてしまおうか、悩ましい現実に頭を抱えながら、予備のスケッチブックを携えてこなかったのを後悔した。
悶々と悩んでいても仕方がないからまずは景色を楽しもうと思って、ライラは小汚いベンチに腰かけて、目の前の雄大な光景を目の当たりにする。転落防止用の柵の向こうに浮かぶ雲の柔らかさに、白みがかって見える森や土、そして孤立しているように見える人の住んでいる形跡。子供が幼いころに遊ぶおもちゃの家のようで、身を以てして自然の大きさというものを感じとれる景色だった。
ライラの中ではますます描きたい欲求が積もってきて、いよいよ我慢ならなくなってしまった。どうにかして目の前に広がる姿を表現して形に残したい。画材さえそろっていれば、スケッチではなくちゃんとした絵に仕上げたい。水彩、油、パステル——水彩なら淡い色合いでのどかな印象を醸し出せるであろう。油であれば、より重厚感を強調した、自然の力強い有様を残せるに違いない。どうして画材を宿に置いたまま、スケッチ道具一式だけという軽装で登ってきてしまったのだろう、と後悔で心がいっぱいになった。
スケッチブックを改めて見直しても、当然とすべきか、広大な風景を捉えるに十分な場所はどこにもなかった。見つかったとしても、中途半端な大きさの隅っこだけである。万事休す、ライラには絵を残す場所がなかった。
背もたれに頭を預けて空を仰いだ。ああ、と声を漏らして澄んだ色合いを見上げたところでスケッチたちがその場所をずらして余白をつくろってくれるわけではない。ライラは欲を吐き捨てたのだった。
あきらめよう。ライラは手元のスケッチブックを畳んでベンチを立ち上がった。辺りを見下ろして落し物がないのを確かめる、鉛筆、消しゴム、スケッチブック。持ちものはそれぐらいなのだから忘れる方がおかしいのだけれども、入念に辺りを見回した。ない、ない、ない。あたかもなくしものを探しているかのようであった。
ありもしないものを探すのにも満足して、ライラは眼下の町に戻ろうと足を踏み出した。しかし、山道へと戻る歩みはたちまち滞ってしまった。目の前の有様に、ライラは立ちつくしてしまった。
人が、立っている。ライラはずっとその存在には気づかなかったし、だれかがいると感じるに足る物音はなかった。歩く時の音ぐらいするだろうに、それさえもなかった。気づいたら、そこに人が佇んでいた。一瞬人ならざるものではないかと息が止まる思いだったけれども、わずかに揺れる肩は生きている人間の姿に間違いなかった。
その人はただつっ立っているわけではなかった。よくよく見ていると、立ち入り禁止を示す柵の向こう側にいた。どうして佇んでいる場所の手すりが、体に隠れて見えなくなっているはずの手すりが見えてしまっているのだろうか? はじめは幽霊じみた振る舞いに対して驚いていたけれども、次第に異質な恐怖心にとってかわっていった。手すりの向こうに立っているということはつまり、手すりの先にある落差数十メートルの崖すれすれに立っているというのだ。ひざが笑ってろくに立てないような場所にまっすぐ脚を伸ばして直立しているところ、よっぽどの度胸の持ち主である。
けれど、度胸は裏返せば覚悟とも解釈できた。目の前の断崖絶壁に身を預けて自らの未来を破砕する覚悟を心に決めてしまったのかもしれない。柵を離れて、ふわりと空に浮かんだ体はたちまち高度を下げて、ついには硬い岩肌に体を削る。肉も骨も砕けて、むごたらしい姿に成り果ててしまう。
目の前で人が飛び降りるかもしれない。ライラの心は恐れおののいた。けれども反射的に動こうとする体を理性は押しとどめた。その人の目の前に足場はない、声をかけられたがためにちょっとでも身動きをとってしまえばその姿を見失ってしまうかもしれなかった。また、相手は武装していた。腰に備えた大型のナイフがライラを威嚇した。少しでも触れてしまえば爆発してナイフを片手に暴れてしまうかもしれない。ナイフはライラに牙を剥くかもしれないし、本人の足場を奪うかもしれないのだ。
ライラは驚かせて恐ろしい事態を引き起こさないよう当人の背後に忍びよって、かすかな声を投げかけた。あのう、すいません。聞こえるかどうか分からないほどの大きさで投げかけた声にはじめは全く反応を示さなかった。声が届かなかったと思ったライラは再び口を開いたけれども、その時になってその人がゆっくりと振り返った。動くに動けないのか、首をひねっただけだった。が、それだけだった。見るからにライラの姿を捉えられていないにもかかわらず、視線をまた正面の絶景に戻して、何か用か、と冷たい口調だった。
あのう、と声を出したものの、ライラの口はその人がにじませる殺気に言い淀んでしまった。声は女のそれだった。声は人間の温かみを失っていた。ライラの口と脚を止めるだけの抑止力があった。何もないのなら、関わらないでいただきたい。女が放つ言葉の節々にはとげと毒があった。
ライラはしかし立ち去らなかった。ライラは女の背中に見とれてしまっていた。決して見ていてうっとりしてしまうような要素はない。ごく普通の、やや小さい背中である。見どころなんてどこにもない。その背中から目を離せないでいるのはにじみ出る雰囲気が今までに感じたことがないほど創作欲を掻き立てるものだったからだ。女の背中は物寂しさを隠しきれないでいる。何も語らなくたって何かを抱え込んでいるのがなんとなく分かってしまう。自らを殺めてしまう一歩手前という状況がそうさせているのだろうか? いや、どこにいたとしても体から漏れ出る重苦しい雰囲気は隠しきれそうになかった。
見れば見るほど彼女のただならぬ感じに惹かれてゆく自分を感じていた。この人を描かないで見逃してしまったらこの先絶対に描けない。機を逃してはなるまい、ライラの絵描きとしての魂は強く訴えた。
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