3 タイムリミットまで、10分

「でもわたし気になるんですけど、月ってなんで昼間みえないんですか?」

「昼間に見えたら夜と勘違いするからだろ」

「たしかに」

 彼女は納得したようにうなずいている。だからバカだと言うのだ。


「おいバカ。もうすぐテストだが、少しは勉強してるんだろうな」

「してませんよ?」

 当然のように彼女は言った。

「ずいぶん余裕だな。今回は自信でもあるのか」

「え、だって先輩がまた勉強おしえてくれるんですよね?」

「いつまでもぼくが教えられるわけじゃない。ぼくは今年、受験だ。キミだって進学を考えてるんだろ? 一番勉強が必要になる受験シーズンにぼくはもういないんだ」


 彼女は頭も悪いし勉強もできない。彼女が演劇部に入った当初、渡した台本の漢字すべてが読めず、結局ぼくが振り仮名を振った。

 テストの時期になるといつもぼくに泣きついて来るから、頭の良いぼくは彼女のための勉強プランを考えて、一から教えている。

 この優秀なぼくがつきっきりで教えているにもかかわらず、彼女はいつも赤点ギリギリの点数を叩きだす。

 彼女は今までに出会った人間の中で最もバカだから、もしも彼女に恋人ができるなら人類史上で最も利口なぼくでなければ釣り合いが取れないだろう。

 だから、好きだと伝えなければ。


「わかってるんですけど、どうしても先輩に甘えちゃって……先輩、わたしと違って頭イイですし」

 彼女はニコニコと笑っている。

 まったく、ふざけた女だ。いつもニコニコしてどういうつもりだ。

 そうやって笑っていればタダで勉強を教えてもらえると思ってるのか? ふざけやがって。ぼくはこういう、いつもヘラヘラしているヤツは男女を問わず気に食わない。しかし例外は何事にもある。

 クソ。

 彼女のことが好きだ。


「でも、先輩も受験ですもんね。あんまり迷惑、かけないようにします」

「バカめ。ぼくがいつ迷惑だと言った。演劇部はぼくとキミの二人しかいないんだから、キミが赤点でも取って部活に集中できなくなる方が迷惑だ」

「じゃあ、また教えてもらってもいいんですか?」

「まあ……」

 言いよどんだ。彼女は言葉の続きを待って、ぼくをジッと見つめている。

 目が合った。

 心拍数が上がる。彼女は透き通るような茶色の目で、ぼくを見ている……。

 街を見下ろせる坂道の途中。晴れ渡った空。心地よい風。そして、ふたりきり。

 再び、告白のチャンスが来た。


 さあ言え。怖気づくな、勇気を出せ。躊躇しては敗北する。これは戦いと同じだ。彼女という標的をぼくが落とせるかどうかの戦い。今がその時だ! さあやれ。獲物を仕留める一瞬の好機に、ためらうヤツは生き残れない。世界の原則は弱肉強食。ここぞという瞬間に必殺の一撃を叩き込める者だけが、この地球上で勝者として生きる。そのために生き物は爪を磨き牙を研ぎ、自らの武器をいつでも抜けるように備えている。どんなに貧弱に見えたとしても、生き残る者は必ず武器を持っているのだ。

「たとえばカモノハシの後ろ爪には毒がある」

「え! あんなに可愛いのに?」

「街で見かけても撫でようなんて考えるなよ」

「出るんですか? 街に?」

「たまに多摩川のほとりから這い出るんだ。商店街とかを徘徊してるだろ」

「言われてみれば……」

「生き物はみんな、武器を持っているんだ。カモノハシなら爪、サバンナのガゼルは逃げ足、そしてぼくには類まれな知性と誰にも負けない知識がある。この武器をもってすればどんな難局だって切り抜けられる。最後に勝つのはぼくだ。失敗を恐れてチャンスを逃がすような男じゃないんだ」

「なんの話ですか?」

 知るか、クソ。いつからぼくは声に出して喋っていたんだ。

 彼女はニコニコと笑って、頭を抱えるぼくを見ている。


 混乱している場合か。今日こそ好意を伝えると決めたはずだ。くだらないことを考えるな。告白しろ! 誰がカモノハシの話などをした。ぼくだ。違う。ぼくだが違う。今のは極度の緊張が招いた妄言だ。一瞬の心の隙だ。好きだけに。ふざけるなよ。クソ!

「どうしたんですか? 頭なんか抱えて、頭痛ですか? わたし薬もってますよ」

「頭の体操だ。記憶力が増す」

「真似したらわたしも先輩みたいになれますか?」

「無理だな。キミはバカだし」

「先輩、ひどい」

「仕方がない。ぼくと比べれば誰だってバカだ。自分でもこの天才的頭脳が恐ろしくなる。何をさせても一流で、ぼくにできないことがあるのなら教えて欲しいくらいだ」

 言うと、彼女は少しきょとんとしてから、笑った。

 含み笑いだ。

「なんだ。不可解な笑い方をしやがって。言いたいことがあるなら言え」

「いいえー、別に」

 唇に手を当ててくすくす笑っている。かわいい。クソ、腹が立つ。腹が立つがかわいい。

「わたし、先輩のできそうにないこと、いっこだけ知ってます」

「ぼくの辞書に不可能の文字はないんだ。言ってみろ」

「ヒミツです」

「なんだと? 生意気だぞ、バカのクセに」

「先輩はそーやってわたしのこといつもバカって言うから、お返しです」

 からかうように彼女は言った。


 ぼくにできないことだと?

 そんなもの、有り得るはずが……まさか、何かあるのか? わからない。いくら考えてもわからない。他の誰かにできてぼくにできないことなど、この宇宙が始まってから何か一つでもあるだろうか? いや、ない。

 地位、名誉、富、成功。何をやらせても超一流、ぼくほどの天才なら全てを望むだけ手に入れることができる。


 しかし、ぼくに俗物的な野心はない。

 ぼくが欲しいのは彼女の感情、彼女の心、彼女の愛だ。

 彼女の唇から発せられる「好き」という言葉だけだ。

 日焼けした彼女の肌に触れ、細く柔らかい(たぶん)てのひらを重ね、恋人のように同じ時を過ごす。


 ただそれだけ手に入れば、他の全てを失っても惜しくはない。

 などと考えてるうちに坂道を下りきってしまった。


 バス停まで、あと10分。

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