彼岸花の夢
わたくしは本を抱えて、つい小走りの様相を呈しながら足を動かします。
目指すところは、お姉さまの臥せる病室です。
お姉さまが目を覚ましている、この二時間弱ほどの時間が、わたくしの毎日の中で唯一楽しめる瞬間でした。
「お姉さま!」
「あ、アリュー。今日も来てくれたんだね」
わたくしはドアを開くと同時に、叫ぶようにして呼びかけました。
お姉さまは体をだるそうに起こすと、青い顔に微笑みを浮かべてくださいました。
この時のお姉さまは、体を起こせるだけ、普段と比較すれば体調が良かったのでしょう。
しかし、そんな時こそお姉さまに無理をさせるわけにはいきません。
「もう、無理に体を起こされなくてもいいですのに」
「えへへ、ごめんって」
わたくしはお姉さまの体を寝台へ押し込み、また寝かせます。
調子の悪い時のお姉さまといったら、目も当てられぬ程に憔悴なさるのですから……。
糞尿は垂れ流し。食事が食事ですから、臭い、量共に大した量は出ません。しかし汚れは汚れ。その度にわたくしは衣服と寝台のシーツを取り換えます。この様子では入浴もままなりませんから、この際同時にお姉さまの体の汗を拭って差し上げます。
「アリューは小さいのに、人の世話がうまいんだね」
お姉さまは声を絞り出しました。
「それは、少しくらいは身に付きますわ。誰を見て学んだとお考えですか?」
意識ははっきりしているのに、体が言うことを聞かず、ぼけっとしているしかなかった頃。
わたくしはただ、お姉さまが身の回りの世話を焼いてくださっているのを、時間と共にお姉さまが次第に弱っていくのを眺めるしかできませんでした。
満足に動けるようになったころには、お姉さまはもう寝台から自らの足で出歩くことは出来なくなっていました。
わたくしが生まれたことで、お姉さまの時間を奪ってしまった。ですから、わたくしがお姉さまのお世話をするのは当然の流れというものです。
「今日は、何の本を持ってきてくれたの?」
「その前に、食事の時間ですわ。さあ、手を出してくださいまし」
布団の下からゆっくりと伸ばされた手を握り、背中の蕾で作った魔力を送り込みます。これが、お姉さまの食事代わりとなります。
これだけは意識がないころから行えていました。当時これさえもできていなければ、果たしてわたくしは、申し訳のなさの余り正気を保てていたかどうか……。
それはともかく、わたくしが生まれる以前のお姉さまの食事は、錠剤や注射やらの投薬が常だったそうです。それに比べれば、まだお役に立てているのでしょうか。
しかし、この役目も終わりを告げる時が来ました。
わたくしの、お姉さまに魔力を与えるためだけのそれとは違って、完成度の高い蕾が完成したのです。
蕾の移植手術は、つつがなく終了したそうです。
つつがなくというならば。完成度が高いというならば。
どうしてお姉さまの病室は、穴ぼこだらけになっているのですか?
蕾を得てからのお姉さまの行動は、粗暴極まりないものでした。
蕾から絶え間なく湧き続けるスズランが、辺りを破壊してしまうのです。
わたくしのお姉さまのお世話をし続ける日々は、お姉さまの部屋の瓦礫を取り除くだけの毎日にすっかり変わってしまいました。
生まれた時から身についていたこの人並外れた腕力。お着換えの際などに有用でしたが、まさか瓦礫掃除の為に振るうことになろうとは思ってもいませんでした。
お世話をする日々、瓦礫を取り除く日々。費やす労力としては、似たようなものでした。
しかしどうしてでしょうか?
遂にお姉さまが塔の壁に穴を開けてしまうまでに、どれだけわたくしの心が貧しくなっていったのかわかりません。
崩れた壁からお姉さまが飛び降りるのを見て、反射的にそれに倣ったわたくしの体。
塔のふもとへ両の足で着地したところ、近くにお姉さまの形を模ったような穴が開いているのを見て、そこをのぞき込みました。
……流石にいらっしゃらないようで。では、どこに向かわれたのでしょうか?
わたくしはお姉さまの気配を捜して、四方八方を彷徨い始めました。
それをまさか、何十年も先まで続けることになるとは思いもしませんでしたが。
―――
「……、はあ。手際が悪いんですのね。プロを名乗るなら、わたくしが眠っている間に済ませてお仕舞なさいな」
女の悪態に、先輩らは動じない。検体の言うことに一々反応していては務まらない仕事なのだろう、自分も学ばなくては。
検体の女は、アリューというらしい。このアリューという女、背中をばっくりと切り開かれているのにも関わらず、精々整った顔の額に脂汗を浮かべている程度で、声色にも揺らぎがない。それだけで精神力の次第が分かるというものだ。
もっとも、この女の場合はこの程度では命に関わらないという前提も大きいのだろうが。
自分も先輩達に倣い、女の言うことには反応しない。
しかし、女の発言はどうしても気にかかるものばかりが続いた。
「シアには逃げ仰せられたのでしょう? あの子は蕾以外非力でしたが、わたくしはそうではありませんわよ。くれぐれも、手抜かりなく」
どうやら、前に制御装置を取り付けていた
青龍の元へ派遣していた際、このアリューという女の存在は確認できなかったそうだが、どういうことか、この女はそれを理解している。
彼女ら蕾を持つ
それを意識した自分は気を引き締め、先輩らの執刀に注視する。
蕾と心臓を繋ぐ管に、制御装置を着け終えたところらしく、切り開いた背中を縫合に取り掛かっている。
「痛っ。へたくそ」
女は眉を少し歪める。心なしか、先輩らが縫合する手つきが優しくなったような気がする。普段はお面でもつけているように表情が変わらない先輩らにも、人間性らしきものが窺えたのが少し面白い。
背中の縫合は、三十分程もかからずに済んだ。
アリューの表情は強張っていた。どのみち麻酔なしでの縫合など、常人には耐えられたものではない。
「それで? わたくしをどのように扱うつもりなのですか? うーん、剣があれば届いたのですが」
拘束を解かれ、体の自由がどの程度聞くのか試している様子のアリュー。
とりあえず、主に縫合を担当していた先輩に対して手を伸ばそうとしているようだった。しかし、制御装置の甲斐あって、それは達成されずにいた。
「おそらく、検体の持ち逃げ犯の追討だろうな。ま、君の力なら容易いだろう。がんばってくれな」
「よくも抜け抜けとおっしゃいますわね」
先輩方の中でも気さくで、優しい方がアリューの疑問に答えていた。それに対し、アリューは悪態をついている。
「まあ、任せておきなさいな。どうせむしゃくしゃしていたところです、放っておけば次第に捕まえてくることでしょう。わたくし自身にその気がなくとも」
本人のやる気は随分高いようだが、彼女の蕾が、前に使役していた
これがいかなる成果を挙げてくると言うのだろうか。
とりあえず、帰ってきたら、蕾の整備くらいはしてやろうと思う。
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