第五話 ゴッデスセイドトゥルー

 それは、僕がゲームで世界大会に出た後、初めて登校した時である。

 いつも通り、途中で工事があったりして道を迂回することなく、遅刻することなく教室にたどり着いた。そこまでは特に何も変わらないいつも通り。

 しかし、教室に入った途端、教室中にいたすべてのクラスメイトたちの様子が、いつもと違かった。ある者は値踏みするように僕を見た。ある者は道端のネコの死骸を避けるようにした。ある者は井戸から外へ出た蛙のように好奇心に溢れ、ある者は賞賛のまなざしを注いだ。いろいろな違いがあったけれど、そのすべてに共通することは、そのどれもが僕にとってあまり好ましいものには感じられなかったことだ。

 そんないろいろな感情を向けられて居心地が悪い中、自分の席に座って、いつも通りホームルームまで居眠りでもしようと机に突っ伏していると、前の席のクラスメイトが話しかけてきた。

「よっ、細井。今日は遅刻しないんだな」

「…………?」

 僕がここで不思議そうに首をかしげたのは何もその言葉が理解できなかったわけではない。彼が僕に挨拶をしてきたことが不思議だったのだ。彼は野球部でエース、しかもイケメンで学力も決して低くはないスクールカースト上位の男。つまり、僕と住んでいる世界がまるで違う人種だった。彼とは一年生も同じクラスだったが、その時から通しても彼から僕に挨拶してくることはなかった。理由はわからないが、別にそれはどうでもよい。とにかく、これまで一度たりとも挨拶をしてこなかった彼から話しかけられたのだ。不思議に思わないわけがない。

 しかし、彼は挨拶しただけでそれ以上何も言ってこなかった。話しかけてきたのに挨拶だけかよ、とますます彼が僕に挨拶した理由がわからなくなった。何か用があって話しかけたのではないのか。

 そのあとも、これまで会話すらしたことのなかったクラスメイトたちに挨拶されたり話しかけられたりしたのだが、結局それもどういう意図でそんなことをされたのかわからず、ただただ困惑するのみであった。

 その謎が氷解したのは、昼休みになった時だった。

「あっ、細井だ。この間の大会見ていたぜ!」

「…………?」

 今日も中庭でぼっち飯をキメようと弁当箱を手に取ったとき、友人と飯を食うつもりで僕のクラスに来ていた別クラスの生徒に話しかけられた。

 この間の大会ってなんの話だよ、と思っていると僕のそんな心の声を察してかその生徒は続けて言う。

「ほら、この間ゲームの大会あっただろ? なんてゲームだったっけな……。格闘ゲームの大会だよ!」

「えっ」

「LINEで話題になってたぜ。お前が世界大会に出ているってな」

「嘘!? あー、その……えっと、そうなの?」

 僕はSNSはやってないし、LINEも家族と連絡を取るためだけに登録をしているので、クラスメイトが仲間内でやっていることはほとんど知らない。一年生の文化祭の打ち上げも、後日そのことを知ったくらいだ。

「そうだよ。誰かがその中継をLINEに貼ってな、そこからこう、爆発的に広まって。学校のみーんなお前の勇姿をバッチリ見てたぞ」

「…………マジ?」

「マジだって」

 そこまで言われて、ようやく周りのこれまでと違う態度のわけがわかった。彼らはインターネットで僕の活躍を見て、それで僕に奇異の目を向けてきたのだ。

 謎は氷解したものの、学校中に僕が大会に出ている姿を見られたという事実は僕をひどく混乱させた。それに、僕は優勝できず途中で敗れたのだ。醜態と言ってもいい。それを大勢にさらされた気がして、とても恥ずかしく思えた。

 そんな僕に、彼はまだ話しかけてくる。

「大会ってあれ世界大会だろ? すげーと思うわ。俺も好きでゲームはよくやるけどあんまりうまくないんだよなぁ。なあ、どうやったらあんなにうまくなるんだ? てか、他にどんなのやってんの? 色々教えてくれよ」

「えっ、いやっ、そのっ」

 本来、僕は会話が得意ではない。得意ではないから、言葉を介さずにすむテレビゲームに没頭するようになった。

 いきなり、彼のように一気に話しかけられてもなんと返したらいいのかまるでわからない。さらに言えば、混乱していていつもよりも思考能力が下がっている。そんな状態で会話しろと言うのが無理な話だ。

 そして、彼だけではない。彼の友人もまた僕に話しかけてくる。

「細井は色々やっているよな? お前のハンドルネームで検索してみたら、お前に負けた連中の怨嗟のツイートとかたくさん出てきたぞ。パズル・格闘・アクション・レース……本当にたくさんやっててすごいわ」

「ヤバくね? よくそんなにできんな……。やっぱり休みの日はずっとゲームしてんのか?」

「え、う、うん……」

「今度お前の家行っていい? いやー、見てみたいわー、細井ん家」

「何か持ってきて生で見せてくれよ」

「ちょ、ちょ……」

 続けざまに話しかけられて僕の混乱はピークに達する。二人を突き飛ばしてどこかへ行ってしまいたい気持ち。ずっと一人で黙っていたい気持ち。それらが混ざりに混ざってとうとう頭が真っ白になったとき……。


「やめなさいよ、二人とも」


 後ろから飛んでくる声。それは落ち着いていて、優しくて、正しい声だった。その声を聞いて、真っ白だった僕の頭の中が色を取り戻す。

 クラスメイトとその友人が、その声の主を見る。

絵幡えばた

「なんだよ、いきなり」

 絵幡……、絵幡彩音えばたあやねと言うのが声の主の名前だ。このクラスの委員長でもある。

 彼女は優しさと少しの苛立ちが混ざった声で言う。

「貴方たちね、彼は教室から出ようとしていたのよ。それを引き留めて長々と話すのはやめてあげなさい」

「そうだったのか?」

「うん……」

「それに、他クラスの……ごめんなさい、名前は知らないけど、貴方は細井くんと初対面でしょ。初対面なら初対面らしい距離感を持って接するべきだわ。細井くんの意志を無視しちゃダメじゃない」

「…………悪かったよ」

 他クラスの彼は誰に言うでもなくそう言った。結構不服そうな顔だ。自分が悪いと言われても、何が悪かったのかわかっていない、そういう風に感じられる。

 とはいえ、一応彼が謝ったことで満足したのか、彩音は「ならよし」と頷いて、僕に言う。

「ほら、細井くん。今日も中庭に行くんでしょう?」

「え、…………そうだけど」

「なら早く行くといいわ。お昼休みが無くなってしまう」

「あ、ありがとう……」

 僕は彼女に礼を言ってその場から立ち去ることにした。

 これは、大会の後の初めての登校日の話……。




「う、う……ん……」

 夢の中で教室から出た瞬間、僕はとうとう目を覚ました。

「ここは……」

「壮真!」

 手に柔らかい圧力を感じる。首を少し動かすと、そこには疲労からだろうか、少し元気のないパステルがいた。

「パステル……?」

「良かった、目を覚ましたのね……」

「…………何が?」

「何がって! 貴方海で溺れて……それで……」

 ああそうだ、思い出した。筋肉痛だからと海に連れて行かれて、そこでトレーニングして、離岸流か何かに流されて、力尽きて。

「ああ、うん……思い出したよ。溺れて……それでどうなったの?」

「え? えーっと……救助されたのよ、周りの人に。それで、『BAR CASEIN』に運ばれて、今ここにいるわ。あれからもう6時間よ」

「あー、なるほどね」

 どうりで見たことのある場所だと思ったら、ここは『BAR CASEIN』の客室だったのだ。

 自分がいる場所と状況がわかって、体を起こそうとするものの、

「だ、ダメよ壮真。まだ安静にしてなくちゃ」

 と無理矢理パステルに抑えつけられる。「もう大丈夫だよ」と言っても、頑として譲ろうとしない。

「安静にしてなさいってば! せっかく助けてもらったのに無茶はやめて」

「別に平気だよ」

 あまりにもぐいぐいと押し付けてくるものだから、僕は少し苛立つ。自分が平気だと言っているのだから放っておいてほしい。そういう気持ちが出てくる。

「いいから言うとおりにして! そんなんじゃまた……」

「うるさいな!」

 それでも尚、僕を抑えつけようとするから、僕はとうとう怒鳴ってしまった。

 いきなりの怒声に彼女はビクッと震える。しかし、そんなか弱く可愛らしい態度でも、僕の一度感じた怒りを抑えることは出来ない。

「本人が問題ないと言っているんだからそうさせてくれよ! そうやっていつまでも何度でも僕を自分の思うままに出来ると思うなよ! 自分のことは何一つ話さないくせに、なんでもかんでも言うことを聞け、あれをやれ、あれはやめろ、そんなことがまかり通るものか! なんの権利があって……僕を苦しめるんだ! ふざけるなよ!」

「そ、壮真……?」

「今日だって死にかけたんだ! この世界で死んだらもう二度とどうにもならない、それがわかっていたんじゃないのか!? これで僕が死んでいたらどうしていたんだ! どう責任を取っていたんだ! そういうのも含めて何も僕は知らないんだ! そういう僕に対して君は優しくない! そんな人間にどうして従えるんだ!」

「ちょ、ちょっと待って! 私の話を聞いて……」

「またそれだ。また自分のことを押し通そうとする。自分が偉いと、上であると思っているから、そうやって傲慢なんだ」

 一度吐き出した怒りは、嵐の中の土砂崩れのように止まらない。すべて吐き出さないと終わらない。

「僕は君の道具じゃない。もう君の指図は受けない。僕は僕のやりたいようにやるよ」

「なにそれ……。貴方、生き返りたくないの!? 死んだままでいいの!? 私の話を聞いて、私の言う通りにやって……そうすれば生き返れるはずよ!」

 対抗して怒りをぶつけてきたパステルに多少驚いたものの、怒りに怒ってむしろ冷えきった僕の心にその怒りが届くことはない。冷淡に言ってやる。

「別にもうどうでもいいかな」

「えっ……なに、なんて……?」

「どうでもいいって言ったんだ。こんな苦しい思いしてまで、無理に生き返る必要はない。毎日毎日体を痛めて、周りに振り回されて、心まですり減らして、それで生き返ってなんになるってのさ」

「壮真、貴方生き返りたくないの……?」

「ふっ……はははは」

 彼女の間抜けな唖然とした声に思わず笑ってしまう。

「現世に未練がないと言えば嘘になるよそりゃ。でも、生き返ったって現実は辛いだけさ。ゲーム好きというだけで見下したり汚物を見るような目で見る奴ら、脳の足りない会話を繰り返す奴ら、多様性を認めず画一の考えを押し付けてくる奴ら、世界大会に出ていたからとインターネットに個人情報を書き込んだ奴ら、そしてなによりステイタスのためだけに大して仲も良くないくせに友達面する奴ら! そんな連中しかいない世界に帰って何になるというんだ! そんな世界に帰るくらいだったら、この世界で永遠に心を閉ざしたままの方が幸せだ!」

「…………ッ!」

「なんだよ」

 僕の言葉を聞いて彼女は顔を伏せる。彼女のことだからきっと怒りに震えているのだろう。まあ、どれだけ怒ろうが僕の心に届きはしないだろうが一応聞いてやろうと思って彼女の顔を覗き込むと……、

「うっ……ううっ……」

「えっ」

 パステルは目から大粒の涙を流して、泣いていた。

「えっ……えっ?」

 困惑、ただただ困惑。あれだけ感じていた怒りも冷淡な気持ちも一気にしぼむ。どうして泣いているのか、それを考えることすらできず、ただ茫然とする。

 パステルは嗚咽交じりで、「ごめんなさい……。ごめんなさい……」と繰り返している。

 何に謝っているの? というかいきなりどうしたの? 早く泣き止んでくれないだろうか、僕が悪いみたいじゃないか。なんだか、僕も泣きたくなってきた。

 そうして呆けていると、彼女は立ち上がって止める間もなく部屋から走って出ていく。走ったときに目からこぼれた涙が、宝石のように輝いた。

「少年、食事を持ってきたぞ―――どうした、胸筋と腹筋が入れ替わってしまったような顔をして」

「どういう顔ですか」

 パステルが出て行った直後、マスターが部屋に入ってくる。手には食事が乗ったお盆。彼はさっきまでパステルが座っていた椅子に座る。

「なに、浮かない顔をしている、と言ったんだ。あの小娘と喧嘩でもしたか」

「喧嘩……喧嘩なんですかね」

「お互いの主張をぶつけ合えば、それは喧嘩と言えるのではないのか?」

「なら、喧嘩ではないですね」

「ほう……」

 興味深そうに目を細めるマスター。口には出していないが、僕の発言の続きを催促しているようだ。では、ご期待に応えて……。

「僕は僕の言いたいことを全部言いました。パステルに指図されたくないと、現世に戻っても嫌な連中に会うだけでくだらないと。

 でも、パステルはそうじゃない。彼女は僕に開示すべきことを何も言わない。何故僕を鍛えるのか、この世界で死んだらどうなるのか、彼女はどうして女神をやっているのか……。僕は彼女のことを何も知らない。自称女神であることしか。彼女は僕に何一つぶつけてきやしない。

 だから、あれは喧嘩じゃありません」

「そうか」

 笑うでも呆れるでもなく、マスターはそう言って僕にスープの器を差し出す。

「彼女も複雑なんだ。海でも言ったがね。まあ、これでも食べ給え」

「いただきます」

 じゃがいもと人参とベーコンのスープだ。器は熱いが手に持てないほどじゃない。フーフーと冷ましながらちょっとずつ飲む。うん、うまい。

 マスターも自分の分のスープを飲みながら言う。

「知りたいかね、彼女のことを」

「知りたいんじゃありません。ただ、納得したいだけです。彼女の態度に」

「納得か。若者らしくない物言いをする」

「無礼でしたか?」

「いや、気に入った。話そうではないか、小娘……パステルのことを」

「いいんですか?」

「本来なら本人の口から言うべきだがね、君には聞く資格がある」

 君には関係ない、そう言いそうだと思ったが、意外にも教えてくれるそうだ。

 マスターはとうとうその口からパステルのことを話し始める。

「さて、彼女が少々特殊なことはすでに説明したな」

「はい。本来ならこの世界にいないはずだったとか。それに、他の人たちを見ても、つきっきりで世話を焼く存在はいなかったので……」

 マスターはうなずく。

「その通り。他の人間はみな生き返るチャンスをもらってからはひとりだ。もちろん、誰かとつるんでトレーニングしてもいいのだが、基本的にはひとりのままだ。そういう意味では君にあれこれ世話を焼くパステルは特別だ」

「どうしてそんなことをするんでしょう?」

「簡単なことだ。君が体を鍛えるのと同じだよ」

「えっ」

 僕が体を鍛えるのと同じ……。僕は一応現世へ蘇るために体を鍛えている。つまり、パステルにとって僕を鍛えるのは……。

「想像の通りだ。彼女もまた、君と同じように非業の死を遂げ、現世へ帰るために天から使命を遣わされた者だ」

「………………」

「彼女の背負った使命は、君を鍛え上げ現世に帰すこと。そうすることで、彼女自身も現世へ帰れる。そういう契約を交わしたんだ」

 だからあれほど必死になって僕にいろいろとさせようとしたんだ。

 しかし、納得しないこともある。

「でも、どうしてあそこまで強硬に僕を鍛えようとしたんです? 無理にやらせても反感を育てるだけで、それなら時間をかけた方がいいのでは?」

「できるなら、そうしているだろうな」

「どういう意味です?」

「パステルはこの世界において異物だ。世界は安定を求め異物を排除する」

 マスターはスープの中に入っている具をフォークで刺す。具は切り身の魚。じゃがいもと人参とベーコンのスープの中に入る、異物。

「天才と呼ばれる者たちが若くして亡くなるように。過ぎたるもの、あるいは他とあまりにも違うものは周りの安定のために消される。それはどの世界でも変わらない」

「パステルが排除されかかっている、ということですか?」

「察しが良くて助かる。彼女にはタイムリミットがある。もちろん、明日すぐに消えるというわけではないが、そう遠くない未来にね。だから、君の反感を買おうが何をしようがとにかく体を鍛えようとした。今日一日君の体を回復させようとしたのも、きっと苦渋の決断だったのだろう」

 むしゃむしゃとおいしそうに切り身の魚を食べるマスター。

「さて、これまでの話で何かわからないことはないかね?」

「…………いえ、一応は理解しました。彼女が女神らしくないわけや、少し強引だったわけは、理解できました」

「そうか。それで、君はどうするんだ?」

「どうとは」

「君が怒りのまま言ったようにこのまま心を閉ざしてここで生きていくのか、それとも彼女に同情し力を尽くすのか。はたまたのんびりと現世へ帰るために頑張るのか。どれを選ぶのか、という話だ」

 なんだ、そういうことか。それなら、もう決まっている。心は一つだ。

「ここで生きていきますよ。いつか現世に戻りたくなるかもしれない。その時はその時で自分のできる範囲で自分の考えで頑張るだけです」

 そう言うと、マスターは少し顔を曇らせる。しかし、またいつもの顔に戻って言う。

「哀れだな、君は」

「哀れですか」

 哀れという言葉そのものは対象を蔑む言葉でもあるが、その言葉の意味とは裏腹にマスターの口調はどこまでも優しい。父が子に対して語りかけるような、そんな優しさ。

「哀れさ。今までもそうやって自分で考えて自分でやってきたのだろう。人の好意や親の愛を感じても心では信じられなかった。

 …………一つ教えよう。海で溺れて死にかけていた君を助けたのはパステルだ」

「…………彼女は、周りの人が助けたと言っていましたが」

 仮にその話が本当であるとすれば、彼女がそれを隠す必要はないはずだ。自分が助けたと言って恩を売ればいい。

「照れ隠しか、あるいは申し訳なさからか。どちらかだろう。私にはわからない」

「だったら……!」

「だから、この先は本人から聞きたまえ。ああ、食べ終えた食器はそのまま置いてもらって構わない」

「ちょ、ちょっと……!」

 ここまで来て後は本人に丸投げするつもりで、マスターは自分の分の食器を手に取ってそのまま出ていく。

 一人部屋に残され、僕は不貞腐れて食器を脇のテーブルに置いて横になる。

「なんなんだよ一体……」

 パステルが僕と同じで、そのために女神をやっていて、生き返るために僕が必要で……、話を頭の中で纏めても全部釈然としなかった。結局、彼女が僕を利用していたことに変わりはない。時折見せていた優しさも、僕を利用するためだと感じられて、ますます心がすれる。

 マスターの言うとおりだ。僕は根本的に人の愛情や好意を信じられないのかもしれない。彼女が純粋な好意で僕を助けてくれた、そう思えないのだ。

「………………」

 目を瞑って、僕はまた眠りにつこうとする。どうせ起きていても体が癒えるわけじゃない。早く寝て明日また起きて……。起きて? なにをすると言うのだろう。

「…………ばかばかしい」

 そうやって目を瞑っていると、意識がまどろんできた。

 すると、ドアが開く音がする。足音が聞こえて、ベッドの隣で止まった。

「壮真、起きてる?」

 パステルだ。でも、僕は反応しない。彼女と会話するのはおっくうだった。

「…………寝ちゃったの? ………………」

 反応しない僕が寝てしまったと思ったのか、パステルは黙り込んでベッド脇の椅子に座る。

 そして、僕の頭をなでて言う。

「ごめんなさい、壮真。…………貴方を助けたい一心だったのに、貴方の気持ちを何一つ考えもしないで、私の都合で振り回して」

「………………」

「それに、言うべきことも言わなくて。マスターから聞いたわ。マスターが私のことを話したって。マスターの言う通り私は貴方を鍛えて現世に帰すのが使命。でも、このことを言うと貴方は力尽きるまで努力をしてしまうから……。私を助けてくれた時のように」

 僕がパステルを助けた……。心当たりのない出来ごとだ。何のことだろうか。

 聞きたいものの、ここで起きだして聞いたら彼女は真実を話さないだろう。僕が寝ているからこそ、彼女はこうして本音を語っているのだから。

「貴方は私を助けてくれたわ。だから、今度は私がと思って溺れる貴方を助けた。でも、貴方はきっと利己的な理由……貴方を失ったら私が生き返れないから仕方なく助けたと思うでしょうね……」

 何この人。僕の思っていること寸分たがわず当ててきたんだけど。

「でも、違うの。私には貴方が必要よ。それは生き返りたいからとかそういうのだけじゃなくて、貴方が大事だから。貴方が好きだから」

 …………好き? 好きって言ったの今? 僕のことが? 聞き間違いじゃないとしたら、LIKEなのかLOVEなのか、そもそもなぜ今。

 彼女の独白は続く。

「クラスでは普通の善良な生徒だったのに、ゲームのこととなると本気になって、闘志をむき出しにして、負けた時も本気で悔しがって。世界大会を見て、ちょっとかっこいいなって思ったの」

 クラス? ゲーム? 世界大会? えっ、なんで君がそのことを?

「それでね、仲良くなりたくて話しかけようと思ったんだけど、休み時間も昼休みも一人でいる貴方を見て、きっとこの人は一人が好きなんだろうと思った。友達とか恋人とか必要としてないんだって。

 …………私が誰なんだろうって思ってる?」

 彼女はそう言うが、僕は彼女の正体がある程度推測できた。あの大会を知っているということは、君は同じクラスの―――

「絵幡よ。絵幡彩音。貴方のクラスメイトの。そして、あの日の朝、貴方が助けようとした女子生徒の……」

 そう言われて、あの日、すなわち圧死した日のことが鮮明に甦る。

 手すりが壊れて落ちてきた女子生徒。あの時はパンツに気を取られていて顔をよく見ていなかったけど、確かに絵幡彩音だった。美人で、真面目で、他のクラスの生徒に絡まれていた僕を助けてくれた優しい人。

「驚いたでしょう? 私は貴方と同じタイミングで死んで、貴方より先に神様に会って、貴方を助けることを命じられたのよ。パステルというのは、神様が私に与えた女神としての名前」

 彼女はそう言ってさびしそうに微笑んだ……気がした。なにしろ顔は見てないが、彼女はこういうとき微笑む気がする。

「でも、そんなこと言われても迷惑よね。貴方は一人が好きだから。嫌がっていたものね、友達のこと。友達と言っていいのかわからない人たちのこと。大して仲良くもなかったくせに、世界大会で有名になったからって突然友達面してきた人たちのこと。私だって……私だってそうよ」

 彼女の声がだんだん嗚咽交じりになっていく。

「私だって、大会を見て貴方のことを好意的に感じるようになったんですもの……。結局、貴方の嫌う人たちと、何一つ変わりないわ……! ごめんなさい、勝手に私の使命に付き合わせて。大会に出たからって貴方を愛して。私を受け止めたばかりに貴方を殺してしまって……!」

 そう言って、彼女は泣きじゃくる。涙が僕の頬に落ちて弾ける。

 どのくらいだろうか、彼女はずっと泣いていたがある時泣くのをやめて、また僕に話しかける。

「もう私は貴方に何も押し付けないわ。貴方が好きなようにやってほしい。私は私の運命を受け入れる。でも、一つだけお願いしてもいいなら、生き返って。ただそれだけ……。おやすみなさい、壮真」

 彼女が言い終わった後、僕の頬に柔らかいものが触れる。手ではない。きっと、これは彼女が今できる最大の好意の形だ。

 そして、彼女は部屋から出ていく。未練を断ち切ったように迷いなく。

「………………」

 残されたのはベッドに横になる僕。でも、今晩は眠ることができなさそうだ。

「パステル……いや、絵幡さん……。僕は……」

 彼女の告白は、僕に一晩これからどうするべきか考えさせるには十分だった。

                                  (続く)

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