第四話 スイムアンドスイープ

 次の日。僕は体の違和感を覚えて目を開ける。朝の陽ざしがとても眩しいために、今が朝であることはわかったが、違和感の正体はまだわからない。首を動かしてもっと視覚情報を探る。

 ベージュの壁と、小さい机とベッドが見える。ここは酒場の宿泊部屋だ。昨日、短髪とスキンヘッドとひたすら(プロテインを)飲み明かしてそのまま泊めてもらったのだ。しかし、そのことが体に違和感を与えているとは到底思えない。

 では、何が違和感の正体なのだろう。僕はベッドから出ようとする。

「…………ハッ!」

 そこで気が付く。違和感の正体に。

「足が……足が動かない!」

 布団を手ではがし、立ち上がろうとしたのだが、足がまったく動かない。まるで金縛りにあってしまったかのような、そんな感じ。

「クソッ……動け! 動けよ! 足の馬鹿! 足のいくじなし!」

 昨日まではちゃんと動いていたはずなんだ。だとしたら骨折といった理由ではないはずだ。

 そう思って僕は全身の力を振り絞る。

「動けよおおおおおおおおおお!!」

 僕の願いに応えてくれたのか、足はしっかりと大地を踏みしめ、細井壮真大地に立つ。

「よし! …………ん? んほおおおおおおおおおおお!!!」

 しかし、喜びもつかの間、痺れるような痛みが足の裏からももまで走る。

 そのまま、僕は後ろ向きにベッドへ倒れこむ。

「は、はは……。なるほど……」

 体を痙攣させながら、僕は笑う。違和感の正体に気が付いて、そして今の今まで気が付かなかったことがばかばかしかった。

 重しを何kgもつけられたかのような痛みを感じる。これは、学校の体育の時間の後に感じるそれと何も変わりはない。そう、これは……。

「やはり、筋肉痛だな」

 どうせ動けないからとベッドで横になっていると、僕を叩き起こしに来たパステルに事情を説明してマスターを呼んでもらう。すぐにやってきたマスターに足を見せると彼はそう言った。

「私もちょっと筋肉痛になっているけれど、それ以上ね」

「普段使わない筋肉をあれだけ行使すればああもなろう」

「そりゃそうでしょうけど。…………変に動くのもよくないし、今日は一日休みましょ」

 パステルはそう言って僕が寝ているベッドにちょこんと腰をかけた。

 僕もその意見に賛成だ。この状態では何もできそうがない。ゆっくり眠ってまた明日頑張りたい。

「いや、待て。ひとついい考えがある」

 僕の両足に湿布をぺたぺた貼りながらマスターが余計なことを言い出す。

「海へ行こう。泳ぎであれば、足に負担をかけず有酸素運動ができる」

「海? 海ですって?」

「そうだ。水中であればかかる負荷もそう多くはない。しかも上半身が鍛えられるオマケつきだ。炎症を起こしている筋肉にも優しい」

「なるほど……」

 パステルが素直に感心しているが、僕はそれどころじゃない。立ち上がることすらできないのにこれ以上運動させられるのだから、たまったものじゃない。

「僕は嫌ですよ。歩けすらしないのに」

「うーん、そうね。やっぱり今日は休みましょう」

 そうだよね、無理したって体壊すだけなんだ。ゆっくりしよう。昨晩もあんまり眠れなかったから、一日中惰眠をむさぼろう! ハハハハハハ!




「だというのになんで海に来ているんだ……!」

 照り付ける太陽。白い砂浜。青い海。景色はきれいだ。

 ここはチ・キン地方の最東端である海水浴場である。僕たちと同じようにトレーニング目的の人々が泳いでいる。

「絶好の海水浴日和だな、少年」

 僕たちがここにいる元凶であるマスターが僕に日焼け止めを塗りながらそう言う。

 どうして僕たちがここにいるのかと言うと、この男が惰眠をむさぼろうとする僕とパステルを縛り上げ無理矢理ここに連れてきたからという他ない。

「今日は休むって決めたのにどうして連れてきたんですか……」

「下半身が疲労していたら、その間に上半身を鍛える。上半身が疲労していたら下半身を鍛える。そういう風に鍛えないといつまでたっても望みどおりの肉体は得られないぞ」

「…………そういうマスターはどうなんですか? もちろん自分で鍛えてらっしゃるんでしょうけど、早く現世に戻りたいと思わないんですか?」

 ちょっと忘れていたが、この世界は本来死人しかいないのだ。そして、みんな理想の肉体を手に入れて現世に戻ることを目的としている。ならば、マスターとて例外ではないはずだ。しかし、なぜかマスターはずっと僕たちに協力している。その理由が知りたいと思った。

 すると、マスターは表情を変えずに言う。

「現世に戻りたいかどうか、か。私にはその必要がない。それならば、ここに留まり君たちのような若者を導く方がよほど素晴らしいことではないかね」

「帰りたくないんですか?」

「帰りたくないのではなく、必要がない。その意味は言えないがね」

「そうですか」

 この人のことだからたぶんこれ以上聞いても教えてくれないだろう、と思って僕は別のことを聞くことにする。

「ところで、昨日もそうでしたけどお店にいなくていいんですか?」

「私がいなくてもオートで注文取り接客給仕その他もろもろやってくれる機械があるからな」

「なんだその便利マシン」

 そんなもんあるならずっとそれでいいのでは。その割に夕方は自分が出ずっぱりで働いている。そのあたりもよくわからない人だ。

 しばらく黙って日焼け止めを塗られていると、遠くからパステルが歩いて来ているのが見えた。

「あ……」

「どうした少年」

「そう言えばパステルのことについても全然知らないなって思って」

 僕をこの世界に連れてきた張本人ではあるものの、この世界では普通に他の人と同じように生活している。世界に溶け込んでいるというべきか。仮にも女神なのだから、もうちょっと神秘性というか異物感出してもいいと思うのだが。

 意外にも、そのヒントはマスターが教えてくれた。

「彼女も君と同じさ。目的があってこの世界にいる。女神ということになっているのは、彼女が特殊な事情があるからにすぎない。本来なら、彼女はここにいないはずなのだがね」

「え、それってどういう……」

「お待たせ。もう終わった?」

「ああ、もう終わる」

 マスターの言葉が気になって聞き返すものの、パステルに話しかけられたことでマスターが質問に応えることはなかった。

 さて、そんなことはともかく、パステルは僕に合わせて水着姿である。シンプルなスポーツ用のセパレート水着……だと思う。その辺の知識に疎いのでよく知らない。ほら喜べ水着回だぞ。

 当然僕も水着姿。別に説明する必要のない普通の男性用のものだ。足が動かせない僕にマスターが履かせたのだ。この年になって誰かに水着を着させてもらうなんて恥辱に震えるしかない。

 それはともかくとして、パステルはその場でターンして僕にその水着姿を見せつけて言う。

「どう? 似合う?」

 似合う、似合わないかで言ったら当然似合うのだけれど、僕がそれを素直に言うことは出来なかった。マスターがさっき言った、彼女がここにいないはずだという言葉が頭から離れないためだ。そして、彼女の目的とは。それらについて考えることで精いっぱいで、今の僕には気の利いた言葉のひとつすら出すことができない。

「何よ、似合わないって言うならともかく黙るなんて失礼じゃない」

 と、彼女がちょっと不機嫌にそう言うのも、仕方のないことだ。

「なに、よく似合っているから言葉を失ったのだろう。許してやれ」

「あらそう? ならいいんだけど」

 マスターの出してくれた助け舟のお陰でそこまで機嫌を損なわせずに済んだ。が、よく考えればこの人が意味深なことを言ったことがそもそも悪いので、お礼は言わないでおく。

 パステルはそのまま海の方へ駆けていく。昨日もそうだったが、とても綺麗なフォームで彼女は走る。

「終わったぞ、少年」

「あ、ありがとうございます」

 日焼け止めを塗り終わったらしい。日焼け止めを鞄にしまって、マスターは言う。

「女性が服を変えたら、感想を言ってやるのがマナーというものだぞ」

「紳士なんですね」

「大人になるなら、そういうこともしないといけないということさ。君のものは粗末ではないのだから、あとは精神が伴えばすぐにそうなれる」

「なんてこと言わはるんですか」

 そりゃこの人に水着を着せてもらったんだからがっつり見えたんだろうけど、あんまり外で言わないでほしい。

「準備はできたのだから、行きたまえ。小娘を悲しませてはいけない」

「いや、行きたいですけど体がこうじゃ……」

 そもそも立つことすらできないから、こうして人に色々やってもらっているんじゃないか。

「それもそうだな」

「ちょ、何を!?」

 そう言って、マスターは僕を担ぐ。もう嫌な予感だけする。

 僕を担いだままダッシュ。余りの迫力に周りの客が道を開ける。場所が海だけにまるでモーゼのような道の開きっぷり。

 波打ち際を踏みしめ、マスターは思い切り―――

「飛んでいけ!」

「うわあああああああああああああああああああ!!!!!」

 僕を海へ向かって投げつけた!

 投げられたことと、海中に叩きこまれたことで、視界がグチャグチャになる。今僕はどこにいるの? 空はどっち? どこに行けばいい?

 腕をひたすら動かしてもがく。突然、海に放り込まれたショックでもはや冷静さはない。とりあえず、明るい方へとにかく泳ぐ。ひたすら泳いで、水面から顔を出す。

「ブハァッ! ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 落下の勢いは相当だったが、浮力のお陰で割と水面に近かったらしい。なんとか助かった……。

「大丈夫!?」

 近くで泳いでいたパステルが近づいてくる。心配してきてくれたのだろう。しかし、僕はそれに返事はできない。海水を飲んでしまったらしく、咳き込んでいたからである。コホッ、少し肺に入った。

「青き衣をなんたらのパロディが言えるなら大丈夫そうね」

「ゲホッ、ゴホッ、肺は大丈夫……」

 下半身の筋肉は大丈夫じゃない。今の泳ぎでまた一層疲れた気がする。

 でも、地上にいるよりはしんどくない。海水、つまり塩分があるために、浮力が働く。だから漂っているだけなら体にかかる負担が地上に比べ少ないのだ。しかも、炎症を起こしている体に冷たい水が心地よい。マスターの言うとおり、ここなら筋肉痛もあまり負担にならず運動ができるかもしれない。

「じゃあ、落ち着いたらちょっとずつ始めていきましょう。ただがむしゃらに泳いでもトレーニングにはならないから、ゆっくりね」

「う、うん」

 ゆっくりとは言うものの、どこか焦っている様子のパステル。マスターの言葉と合わせて、何やら不穏な感じがして、僕は天を仰いだ。




「はい、じゃあここまで泳いでみて」

「りょーかい」

 パステルが手を挙げているところまで、クロールでゆっくりと泳ぐ。クロールは上半身を鍛えるのに良いらしく、マスターの監修の元、正しい泳ぎ方で泳ぐと確かに上半身全て使って泳いでいる気がする。

 足は真っ直ぐのばしてバタ足なため、走るのに比べればそこまで大変ではない。とはいえ、ある程度筋肉痛が回復しているから言えるのであって、さっきまではバタ足すらできなかったけど。

「そうだ、その調子で泳げ! 青空に向かって泳げ!」

 3Dゲームのバグでありそうなこと言うなよ。

 平走ならぬ平泳しながらマスターが言う。

「大胸筋、上腕筋、三角筋、腹筋、腹斜筋、ふくらはぎを意識しろ! そこがギチギチに動いていれば、このトレーニングの意味がある! さあ、意識しろ! 夏になってちょっと薄着になった女子生徒の制服くらい意識しろ!」

 確かに見ちゃうけども! 思春期だからもしかしたら見えないかな、って希望を込めて見ちゃうけど! そういう意味の意識じゃないと思う。というか泳いでいるのに普通に喋ることができるとかこの人本当に人間か?

 そんなこんなで、パステルのところまでなんとかたどり着く。

「ちゃんと泳げるようになったわね」

「おかげでね」

「じゃあ、休憩しましょう。ちょうどお昼時だし」

「ふむ、私は先に戻って食事の準備でもしよう。君たちはゆっくりしたまえ」

 そう言ってマスターはジェットのような速度で陸の方へ泳いで行ってしまった。

「…………すごい人だ」

「まあ、あれだけのことができないとこんな世界のマスターはできないわ。私たちも行きましょう」

 パステルが泳いだのを見て、僕はその後ろをついていく。

 …………昨日もそうだけど、やはりどう見ても本当に普通の女の子だ。とても女神だなんて高尚な存在に見えない。しかし、マスターには彼女には事情があると言う。それはなんなのだろう。そう思った時、口は動いていた。

「…………あのさ、パステルはなんで僕を鍛えようとするの?」

「…………は?」

 その質問が意外だったらしく、間抜けな声を出した。

「だってそうじゃないか。ただ、僕が自分の体を鍛えないと現世に戻れないだけなら適当にこの世界放り込んでそこで勝手にやってもらえばいい。でも、君はなぜかつきっきりだ。それが普通なのかとも思ったけど、この世界の他の人々を見たらそうではなさそうだし。それを考えると、君が僕につきっきりなのは何か理由があるはずなんだ。僕を使って果たさないといけない何かがあるとか―――」

「そんなことはないわ」

 僕の言葉の途中で、パステルは強く言い切る。

「ただ、私がやりたいようにやっているだけよ。貴方は気にしないでトレーニングしていればいいの」

「飼われている動物だって、誰に飼われているか知る権利はあるよ」

「………………」

 彼女は何も言わない。黙り込んで、こちらに顔すら見せない。だから、どういう気持ちなのかも、うかがえない。

 しかし、その沈黙こそが、僕の考えを何よりも肯定しているということ他ならなかった。

 陸に上がった時には、マスターが食事の準備をし終わっていた。バーベキュー用のコンロで魚や肉やパンを焼いて、ボウルにはアボカドサラダ。非常にバランスのいい内容だ。

「タンパク質はもちろんのこと、水泳には脂質や炭水化物も必須だからな。バランスよくしっかり食べたまえ」

「なら、いただきます」

 短い間によくこれだけ用意したな、と思いながらパンを手に取る。炭水化物も必要とは意外に思ったが、別にダイエットしているわけではないから特に抵抗はない。

「炭水化物は体を動かすエネルギーだ。不足分は筋肉を分解してエネルギーを得る。筋肉が欲しいのであれば、炭水化物も取らねばならない」

「なるほど……」

「ダイエットで炭水化物を抜く、という行為をしている者もいる。確かに抜けば体重は一時的に減るだろう。しかし、それは筋肉が減っているために体重が減っているように思えているだけだ。筋肉が減れば代謝が悪くなり、その日に消費するエネルギーも減ってしまう。そうなれば、普段通りの食事をしていても太りやすくなってしまう。そのため、炭水化物を抜くというダイエットしている者は愚か者と言える。本当に痩せたいのであれば、むしろ筋肉をつけるべきなのだ。『ボディビルダーみたいになるの嫌だ~』とのたまう者がいるが、遅筋は肥大化しないため、鍛えても劇的に太く見えるようにはならない。だから、筋肉を信じたまえ」

「は、はあ……」

 いきなり長々と話をされたためによく聞き取れなかった。ようは、筋肉はダイエットにもいいということだろうか……?

 筋肉を鍛えることにはいろんな良い効果があるんだなぁ、と今更になって思っていると、マスターが言う。

「ところで少年、足はどうかね? 痛みは引いたか?」

「足ですか?」

 そう言えば筋肉痛のせいで海に来ていたのだ。今やっと思い出して、足の痛みがなくなっていることに気が付く。

「もうほとんど痛くないですね。ちょっと疲れている感じはありますが」

「ふむ、若いだけあって回復力が違うな。なら、もう私が海へ投げ込んでやる必要もないわけか」

「最初からやめてください。本当に死にかけたんですよ」

「もう死んでいるではないか」

「そうですけど!」

 でも苦しみは生前と何も変わらなかった。本当に死ぬかと思ったのだ。

「…………って、この世界で死ぬぐらいのダメージを受けたらどうなるんです?」

「死ぬさ」

「えっ」

「そう何度もチャンスは与えられない。本来人生は一度きりなのを、お情けあるいは気まぐれでどうにかしているだけだ。二度死ぬような間抜けは世界に必要ないのだよ」

「………………」

 この世界で死んだ人を突き放したその発言に、僕は何も言えない。かじりついていた魚をじっと見ることしかできない。

 いや、実際は人を溺死させかけていたのにどの口でそれを言うのかと呆れ果てただけかもしれない……。

 というか、筋肉不足で死んだ人が集まる世界とかいう、存在そのものがギャグみたいな世界なのになんでそんなところはシビアなんだろう……。

「………………」

 パステルは結局食事中に口をきくことはなかった。




 食後、しばらく休憩してから再びトレーニングへ。

「ふむ、いい泳ぎっぷりだ。少しペースをあげてみよう」

「はい」

 マスターの言うとおり、ペースを上げて泳ぐ。力の限り、体が動いていることを自覚しながら泳ぐ。

「いいペースだ。そのまましばらく泳いでいてくれ。私は少し席を外す」

 僕の泳ぎを見て満足そうにうなずくマスターはそう言って陸へ戻って行った。理由はわからないが、たぶんトイレか何かだろう。

 しかし、その状況をなんとなく嬉しく思う僕である。そのまましばらく泳いでいてくれということは、泳ぎ方もペースも任せられるぐらいよくなってきているということだと考え、マスターに認められたような気がするからだ。これまで生きてきて、ゲーム以外で褒められたことはあまりない。だから、こんな些細なことでも嬉しく思う。

「………………」

 一方で、心から嬉しいと思えないのは黙り込んで、ずっとこちらを見ているパステルが気になるからだろうか。僕が件の質問をしてからずっとこの調子だ。こんな調子だから、マスターが代わりにコーチをやっているのだ。

 あの質問はあれだけ不機嫌になるほど嫌な質問だったのだろうか。それならばこちらに非があったという考えもできるが、余計な反感や不信を残したまま黙って指示されたことをやれるほど、僕も大人ではない。こうして言われるがまま泳いではいるものの、心の中ではどこか納得していないところがあるのだ。

 まあ、いい。今日のトレーニングが終わった後にもう一度聞いてみよう。教えてくれないかもしれないが、それならそれでまた対策を考えよう。見ていろよ、自称女神! 女神かもしれないが、今の僕からしたらお前はちっぽけに見えるぞ! むしろ現在進行形でお前の姿が小さくなっていっているぞ! 立ち上がって何やら喚いているが、聞こえんな。

 そこまで考えて、僕はおや? と思う。確かにパステルが小さく見えているのは間違いないが、周りの木々も同じように縮んでいるように見えているのだ。つまり、彼女らが縮んでいるのではなく、自分が沖へと流されて岸から遠ざかっているということに気が付くのにそれほど時間はかからなかった。

 なんとか岸へと戻ろうとするが、適度に疲労した体と、強い海流によって岸に戻るどころかどんどん流されていく。

 あ、ヤバイ、力が入らない……。

 疲労に加え、無理に海流に逆らったことで残りの体力を完全に使い切る。力がもう入らない。ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。まるで体中が水を吸い取って重しになっているような、そんな感覚。もがけもせず、そのまま深く。

 脳に酸素が届かない。何もかも、何もかも暗黒へ沈んでいく。

 意識を失う直前、手を伸ばしている何者かを見た。周りには何もないはずなので、それは幻だと思った。でも、すがれるものがそれしかなかったので、僕は手を伸ばす。

 伸ばした手が、伸ばされた手に触れたと感じた瞬間、僕の意識はとうとう限界を迎えた―――。                            (続く)

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