第三話 ビルドユアチキン

 マスターに縄をほどいてもらってから向かったのは、体力づくりの名所とされるチ・キン地方であった。まだ足を踏み入れてはないが、なんだかおいしそうな名前の地方である。クリスマスでもないのに七面鳥が食べたくなってきた。

「いい心がけね。鶏肉の、特に胸肉は疲労回復にいいとされるわ」

「そうなの?」

「ええ。元々空を飛ぶのに強い筋力を使うのと、持続して飛ぶために疲労回復が効率的に行われる部位なのよ、鳥の胸筋って」

「なるほどねえ」

「へい、お客さん。チ・キン地方の鶏肉料理は絶品ですぜ。一度はご賞味あれ」

「ありがとう」

 唐突に話しかけてきたオッサンは、今僕らが乗っている人力車のあんちゃんだ。なんとこの世界、移動手段は徒歩か人力車しかない。移動中も大事なトレーニングということだろうか。

 とはいえ、僕が徒歩で移動しようものなら、疲労してしまいチ・キン地方で鍛えるどころではなくなってしまう。そういうわけで、人力車を利用しているわけだ。

 人力車というのは案外快適で、ついウトウトしてしまう。そんな微睡の中一時間ほど移動していると、パステルが耳元で叫ぶ。

「目的地についたわよ、起きなさい!」

「うわあっ! 耳元で怒鳴るな!」

 心臓がひっくり返るくらい驚いて正面を見ると、

「おお……」

 絵や写真でしか見たことない、アーチが連なる円形の広場……コロッセオが目の前に広がっていた。もちろんローマにある本物のコロッセオと同じものというわけではないが、それでもこの迫力はすさまじい。

「…………ってあれが目的地?」

「そうよ」

 もっと遠いものかと思って聞いてみたが、あっさりと肯定されてしまった。案外狭いのだろうか、この世界は。

「へい、お待ち。チ・キン地方のコロッセオですぜ」

「ありがとう。ほら、降りるわよ」

「あ、うん……」

 座席から降りると、人力車はすぐにどこかへ行ってしまった。忙しいのだろうか。

 そして、パステルもさっさとコロッセオの中に入っていく。

 また置いて行かれて時間を喰うのも馬鹿らしいので早歩きでついていく。ついでに質問。

「なんで目的地がコロッセオなの?」

「貴方に必要な運動をするのに適しているからよ」

 とパステルは言うものの、よくわからない。彼女は体力づくりから始める、と言っていたがコロッセオならそれができるというのだろうか。

「一般的に長く行動ができることを体力と呼ぶことも多いでしょうけど、実際体力って何のことかわかる?」

 藪から棒にパステルはそんなことを聞いてきた。どれだけ攻撃を耐えられるかとかそういう指標でしょ。

「ゲーマーらしい物言いね。そういう解釈も好きだけど、体力というのはどれだけ遅筋が鍛えられているかによると私は考えるわ」

「チキン? 鶏肉を鍛えるって?」

「もういいわその話は。

 遅筋というのは筋肉繊維の一つで、主に持久力を司るものだと思ってくれていいわ」

「ふーん」

 なんか講義が始まった。一応聞いておくか。

「強いパワーを出すことは苦手だけれど、疲労しにくく持続的にパワーを出すことが得意な筋肉で、長い間運動しようと思うとどうしてもこの遅筋が必要になるのよ」

「ほう」

「で、この遅筋が強ければ長く走り続けられたり、泳ぎ続けられたり、ようは疲れにくくなるわけね」

「なるほど」

 それで遅筋の強さが体力である、という考えに至るわけだ。長いこと運動ができるということは、それだけ体力があるということであり、そのためのものが遅筋であると。それはよくわかった。

「で、それがコロッセオに来たのと何の関係が?」

「遅筋を鍛えるためには、少ない負荷を長い間与え続けることが良いとされるの。それを踏まえてコロッセオがどうなっているか見なさい」

 なんだか釈然としないが、言われた通りにコロッセオの中を見る。一般的なコロッセオの内装と違い、陸上競技場のような作りになっており、中央にはサッカーができそうな芝生がある。その周りを囲うようにトラックが存在している。

 少ない負荷を長い間与え続ける運動。そして、陸上競技場のトラック。このことから導き出される答えはただ一つ。

 嫌な予感がしてパステルの方を見る。すると、彼女は満面の笑みで言い放つ。

「ええ、その通り。トラックをひたすら走りなさい、筋肉が割れるまで」

 パステルが下した試練、それは学生の多くが嫌う冬の体育の風物詩、長距離走だった。




「ハーッ……ハーッ……ハーッ……、もー無理」

 ガクガク震える足をなんとか引きずり芝生まで歩いて行き、とうとうぶっ倒れる。

大の字で空を仰ぎ見ると、地球となに一つ変わらない蒼さが僕に優しく語りかけてくるようだ―――。

「はい、15分休憩したらまた走ってもらうわよ」

「…………もうちょっと休ませて」

 青いキャンバスに無慈悲な異物パステルが注がれる。彼女の見てくれはだいぶ美人なため、これはこれで絵になる。態度が軟化してくれれば言うことなしなんだけどなぁ。

 視界にパステルの全身が映るように首だけを動かす。彼女はいつもの女神っぽい服ではなく、赤いジャージを着ていた。ついでに今の僕の恰好もジャージだ。こっちは青い。

 僕は今、パステルに言われてばかでかいトラックを走っている。

 一般的なグラウンドのトラックが400mぐらいらしいが、ここのトラックはその五倍は長い気がする。一周しただけでもう膝が高笑いだ。ワッハッハ。わろてる場合ちゃうぞ膝くん。立ち上がるのにも、生まれたての小鹿ばりのプルプル具合やぞ。

 今しがたトラックを一周して体の限界が来たので、芝生で休んでいる……とそういう状況だ。

 大の字になって息も荒くしている僕にパステルが呆れて言う。

「はぁ、しょうがないわね。無理しても意味ないし、しばらく休憩しましょ。はい、ドリンク」

「ああ、ありがとう……」

 パステルから差し出された青い容器に入ったスポーツドリンクを飲み干す。冷たくて火照った体にはちょうどよい。

「冷たいものを一気に飲み干すと体によくないわよ」

「でも体が求めている……! やめられない!」

「体が痙攣しているから余計それっぽいわね。やめなさい」

「はい」

 容器をパステルに返す。その様子は服装と相まって陸上部の選手と女子マネージャーといった感じだ。

「………………」

「なによ。人をジロジロといやらしい目で見て」

「いや……。ジャージ姿だと普通の女の子と何一つ変わらないなって……」

 元々女神っぽさ、神性にかけまくっている彼女だが、普通の恰好をしているとより一層普通の女子に見える。というか見た目は一般的なティーンエイジャーの女の子そのものだ。

 そんなことを指摘すると、彼女は授業中の居眠りを咎められた学生のような顔になる。しかし、それだけで何も言わない。

「………………」

「………………」

 うつむいて黙り込んでしまったパステルにかける言葉も見つからず、僕は再び芝生に大の字となって転がる。やはり、この蒼い空は地球と変わらず美しい。

 心が洗われるような気持ちになって、目を閉じる。心地よい疲労と、芝生の香り、解放感で眠くなる。

 ゆっくり、ゆっくりと意識が闇の中へ沈んでいき―――

「ふざけんな! 俺は何も盗んでねえ!」

「しかし、ここにいるのは君じゃないか!」

 野太い二つの怒声に叩き起こされた。

 ガバッと起き上がって僕は怒声の聞こえた方を見る。パステルも同じようにその方を向いた。

 そこには、ばかでかい声で言い争う二つの筋肉が!

「ただの言いがかりだ! 俺は潔白だ!」

「周りに聴けば私がトイレに行っている間、君がここにやってきたと言うじゃないか! そのあたりはどうなんだ!」

「は? 疲れたから休もうと思っただけだ! てめえの荷物なんて知ったことじゃねえ!」

「盗んだ奴ほどそう言うんだ! いいから返せ!」

 周りの迷惑を気にせず怒鳴り合う二人。どうやら、短髪の筋肉がスキンヘッドの筋肉の荷物を盗んだだの、盗んでないだので言い争っているらしい。どちらも顔を真っ赤にして冷静な議論になっているとは言えない。

「うるさいわね……」

「50mくらい離れているのに隣の席の会話くらいの大きさに聞こえるよ……」

 二人の声はまーとにかくでかい。近くで聞いたら鼓膜が破れるんじゃないかってぐらいでかい。周りの筋肉たちもうるさそうに耳をふさいでいる。しかし、どうにかしようという感じではなさそうだ。耳をふさぎながらもストレッチやランニングを続けている。

 じゃあ僕が仲裁してどうにかできるかと言ったらそんなことはない。どうせああいう怒鳴り合った人間というのは聞く耳を持たない。自分こそが正しいと思っているからだ。だから、僕も傍観に徹することにした。

「周りの迷惑になるから止めに行きましょ」

 しかし、そうもいかないのが、パステルという女である。

 ズンズンと歩いて行って、筋肉二人の間に割って入る。

「貴方たち、うるさいのよ。一体何があったって言うの?」

「あ? お前には関係ないだろ」

「そうとも。これは我々二人の問題だ」

 面倒そうに顔をしかめる筋肉二人。しかし、その程度ではパステルはひるまなかった。

「関係ないこたないわ。貴方たち二人のせいで周りが迷惑してるのよ。やるんだったら外でやるか、もっと小さな声でやってちょうだい」

 かなり強い語調で、強気にそう言ったパステル。年端もいかぬ小娘に強気に出られたことで怒りを感じたのか、筋肉二人は不機嫌そうに言う。

「なんでてめえの言うこと聞かなきゃいけねえんだよ。うるせえな」

「君は引っ込んでなさい」

「周りの迷惑を考えない体だけ大人になった馬鹿が大層な口を利くわね」

「んだと!」

「子供には子供なりの態度というものがあるだろう!」

 それは完全な失言であった。小娘にそう言われて、筋肉二人が怒り狂って拳を振り上げる。すごく危ない!

「きゃっ!」

 振り下ろされそうな拳にパステルが目をつぶる。彼女が筋肉二人から殴打を受けるのも時間の問題だった。僕が助けに行こうにも、遠いしまだ膝は笑っているしで無理そうだ。

 そして、とうとう拳が振り下ろされる!

「フン!」

「えっ……」

「なぬっ」

 ガシッ、と何者かが筋肉二人の腕をつかむ。拳はパステルに届くことなく止められた。

「あ、貴方は……」

 パステルを救ったもの、それは……

「「「「マスター!」」」」

 『BAR CASEIN』のマスターだった。マスターは筋肉二人の腕をねじりあげ言う。

「筋肉の使い方を間違えた者たちよ、筋肉は女性や子供を傷つけるために使うものではない!」

「ぐっ……」

「は、離してくださいマスター! この娘は私たちに……」

「フンッ!」

 マスターはさらに腕をねじる。

「確かにその小娘の物言いもよくない。しかし、真に筋肉を愛するものであれば、暴力という手段に訴えてはならん。決着はお互いの鍛え上げた体によってなしえるべきだ。そこでだ、勝負といこうではないか」

「しょ、勝負?」

「なによ、それ」

「ここはちょうど、陸上競技場だ。ならば、陸上競技で決着をつけよう」

 マスターは筋肉二人を解放し、堂々と宣言する。

「結束力と協力、そして何より筋肉が求められる陸上競技……リレー勝負だ!」

 リレー。もはや説明する必要もないだろうが、バトンをつないで複数人でゴールを目指す陸上競技では珍しいチーム競技だ。

「り、リレーですって?」

「マスター、詳しく話を聞かせてもらいたい」

 マスターは待ってましたと言わんばかりに言う。

「君たち二人が負けたら君たちは迷惑をかけたことを小娘と周りに謝罪する、逆に小娘が負けたら二人に謝罪する。ルールは一般的なものとそう変わりはない。しかし、小娘は女性であることを考え、ハンデはつけさせてもらう。それでいいか?」

「ああ、文句はないぜ。でも、俺たちは二人で走るとして、そっちはもう一人どうするんだ?」

「もちろん決まっている」

 何か嫌な予感がする。そう、対岸の火事だと思っていたら隣の家から火を放たれたような、そんな予感。遠いはずの出来事が身近に迫る恐怖。

 それから逃げ出そうとコソコソとしている僕の襟を、いつの間にか近くに来ていたマスターがむんずとつかみあげる。そして、パステルらの待つ場所へ。

「この少年だ。小娘の知り合いだから、ちょうどいいだろう」

「そんなヒョロイ奴が? こりゃ楽勝だな」

「いくらハンデがあっても負けはしなさそうだ」

 筋肉二人が僕を見て鼻で笑ってくるが何も否定できないのが悲しい。

 僕も筋肉二人にならって、マスターに対してわずかな反抗をしようとする。

「マスター、僕は見ての通り貧弱です。しかも、膝が笑っている。こんなんじゃ勝負はやる前から見えてますよ!」

「やる前から見えている……? そんなのはわからない。やってもみないのに諦めるのは筋肉に失礼だ! 謝りたまえ!」

 マスターがいきなりマジギレしてくる。

「鍛え上げた筋肉は決して裏切らない! いつだって裏切るのは自分自身なんだ! 君の心のない言葉に筋肉は傷ついてるぞ!」

「いや、今日鍛え始めたばかりですからね!? 裏切るもクソもないですよ!」

「そうだ、謝れガキ!」

「筋肉を裏切って何が貧弱ですだ、恥を知りたまえ!」

「てめーら仲いいな畜生!」

 そんなに仲がいいならもう和解してくれ。事の発端はあんたらにあるんだから。

 しかし、勝負はやっぱりやるみたいで、マスターが言う。

「勝負は今から十五分後! それまでに準備しておけ! 私も準備をしておく!」

 こうして、なぜか……本当になぜか僕とパステルVS筋肉二人のリレー勝負が行われることになった。いや、もういいじゃんやんなくても……。




「あー、ごめんね、巻きこんじゃって」

「………………」

 準備運動をしていると、パステルが謝ってきた。彼女にしては珍しくしおらしい態度だ。さすがにそんな態度の相手に怒るわけにもいかず、怒ってないことを伝える。

「でも、私が止めにいかなきゃこんなことにならなかったわけだし……。本当にごめん」

「いいよ別に……。考えてみれば負けたからって何か取られるわけじゃないし」

 勝てばよし、負けてもパステルが謝ればいいだけの話だ。それに僕は直接関わっているわけじゃない。

 だけど、問題があるとしたら。

「最初から負けることがわかっていることなんだよなぁ……」

 こんなものは、かの有名モンスター育成ゲームにおいて、草タイプがドラゴンタイプに挑むようなもので、最初から負けることが前提の勝負なのである。そんな勝負は最初からやる気が出ないし、やりたくもない。そういうわけで、僕のモチベーションは地よりも低くなっていた。

 慰めるようにパステルが言う。

「で、でもハンデあるって言うじゃない! それによってはもしかしたらってこともあるわ!」

「…………どうだかね」

 そのハンデにしたって、いくらあろうが結局は自力の差だ。いくら飛車角落ちでもプロ棋士が小学生を蹂躙できるように、絶対的な力の差というものは存在する。僕の力では、いくらハンデがあろうがほぼ誤差でしかないだろう。

 そういう僕の考えがわかっているのだろう、パステルは再度申し訳なさそうに言う。

「…………本当にごめん。こんなつまらないことに……」

 彼女は頭を下げる。かなり申し訳なさそうだ。

「まあいいよ。早く終わらせて休もう」

 人とかかわるのがあまり得意ではない僕には、そういうのが精いっぱいだった。

 待っていると、マスターがやってきた。

「こちらは準備できたぞ。お前たちも準備はいいか?」

「OKよ」

「膝が笑ってます」

「よし、問題ないな。来たまえ」

 膝笑ってるって言ってんじゃねーかよ。

 マスターの後ろにくっついて行くと、すでに筋肉二人は定位置についていた。

「あの二人にはもう一度ルールを説明した。今度は君たちだ。

 このトラックは一周2kmとなっている。あの二人には半周……つまり1kmを走ってもらう。しかし、君たちは四分の一、500mだ。どっちが先でも構わない、とにかく二人で500m走り切りたまえ」

「あいつらの半分だけ走ればいいということね。わかったわ」

 500mを二人で、つまりそれぞれ250m走ればいいことになる。一般的なリレーが400mを四人(一人100m)ぐらいの配分であることを考えると結構過酷ではないだろうか。

 なんだかやる前から帰りたくなってきたが、一度決めたことに背くのもなんだか嫌なので、僕はしぶしぶ了承する。

「じゃあ、壮真が後で私が先ね。大丈夫、こう見えても私足は速いから!」

 一方的にそう決められてしまったので、とぼとぼと250m地点につく。

 ところで、さっきまでここのトラックを走っていた人たちはどこに行ったんだろうと見回すと、観客席にたくさんの人が集まっていた。どうやら、僕たちの勝負を見るつもりらしい。わざわざマスターが彼らを誘導したのだろうか。

 沸き立つ観客をボケーと見つめていると、マスターが拡声器を使って言う。

「これからリレー勝負を開始する! 準備はいいか!」

 第一走者のスキンヘッドが頷く。パステルがええ、と言う。第二走者の短髪が手を挙げる。僕は帰りたい。

「いちについて、よーい!」

 パァン! マスターの手元のピストルが音を立てた。

 良スタートを切ったのはパステル。弾丸のような勢いでスタートから飛び出す。一方のスキンヘッドはスロースターターなのか、あまり速度が出ていない。

 しかし、このリレーは普通のリレーより長い中距離を走らないといけない。ペース配分を考えれば、スキンヘッドのように一定のペースで走るということも大事だろう。

 その考えは正しく、100m過ぎた時点でパステルの勢いが衰える。最初の半分くらいの速度になってしまった。その数秒後にスキンヘッドは100m地点を超えたがペースは変わらず……どころかより速くなっていた。

 とはいえ、ハンデがある。僕たちは筋肉二人の半分の距離でいいのだ。このぐらいの差ならこちらにも分がある。

 しかし、その考えが覆されたのは200mを超えた時であった。パステルの勢いが尋常ではなく衰えて、歩いているような速度になってしまった。それでも、後の50m必死に走る。

 スキンヘッドは余裕綽々だ。すでに400m地点を過ぎ、さらに加速しながら短髪へのバトンを渡そうとしている。

 その結果、僕がパステルのバトンを受け取ったのと、短髪がスキンヘッドのバトンを受け取ったのは同じタイミングだった。

 ゴールは同じラインにあるため、僕と短髪の間の距離は250mとなる。しかし、猛烈な勢いで走り出した短髪がみるみるその距離を縮めてくる。

 僕も負けじと走る。膝が高笑いどころか、抱腹絶倒しているような感じになる。

 全速力で走っているので酸素が欲しい。肺が酸素を求めて、痛む。

 僕が100m走るころには、短髪は250m走り切っていた。間の距離は150m未満。

しかも、短髪はさらにスピードをあげる。僕はもう限界速度だ。

「ふっ、遅いぜ」

 距離はどんどん縮まり、残り50mとなった地点でとうとう抜かされてしまった。そのまま彼はゴールへ向けて再度加速。僕はそれを見送ることしかできない。

 最初から負けが見えていた勝負だ、それに負けても僕に不利益はない。だから、もういっそ歩こうかな……とも思った。

 しかし、その瞬間脳裏に浮かんだのはマスターの言葉。

「鍛え上げた筋肉は決して裏切らない! いつだって裏切るのは自分自身なんだ!」

 どうしてその言葉が浮かんだのだろう。そう思った時、僕が参加したあの世界大会のことを思い出した。決勝ラウンドで僕は敗れたものの、僕はどこかすがすがしい気持ちだった。それは敗北が決定するまで、最後まで本気で戦ったからだろうと思う。僕は昔から友達が少なく、ずっと一人でゲームをしていた。だから、ゲームでだけは人に負けたくなかった。負けるのだとしても、すべてを振り絞って負けたかった。友達がいない中、ひとりで鍛え上げたゲームの腕を自分自身で否定したくなかった。

 その理屈は、筋肉だって同じなんだ。鍛え上げた筋肉を自分自身で否定してはいけない。

「なに!?」

「壮真!?」

「ほう……」

 そう思った時、僕はそれまで以上に大地を強く蹴って走ることにした。筋肉がいくら軋もうが、もっと速く走りたいと思ったのだ。

 これまでにない速さで残り50mを僕は走る。限界を超えて走る。勝敗はすでにどうでもよかった。すでに短髪はゴールしたようだ。でもどうでもいい。

 一度走り出したら最後まで。その気持ちでゴール地点を走り抜けた時、形容しがたい爽快感と共に、僕の意識がブラックアウトした。




 その夜、『BAR CASEIN』のカウンターに座って僕はミルクを飲んでいた。隣には短髪がいる。

「いやー、最後のダッシュは見事だったぜ。そんなヒョロイ体でよくあそこまで頑張ったもんだ」

 彼もまたミルクを飲みながら今日の勝負を振り返っていた。

 今日の勝負は当然、僕たちの負けだった。しかし、筋肉二人は高圧的な態度をとることなく、逆にパステルや観客に迷惑をかけたことを謝罪したらしい。その後、気を失った僕をマスターと一緒にここ『BAR CASEIN』まで運んで来てくれたそうだ。

「気を失うまで走るなんてそうそうできることじゃない。誇っていいぜ」

「はあ」

 そんなことがあって、僕が目覚めたのはさっき。パステルはもう寝ちゃったらしい。

 それで、今は短髪に妙に気に入られて絡まれている最中というわけだ。

「観客たちもお前をほめてたぜ。ほら、笑えよ!」

 バンバンと僕の肩を叩く。やめて、筋肉痛が全身に回って痛いの!

 助けを求めてマスターの方を見ると、マスターは白濁した液体の入ったグラスを僕に差し出す。

「あちらのお客様からだ」

「あちら」

 マスターがさした方を見ると、そこにはスキンヘッドが。自分の足をマッサージしている。

「ありがとうございます」

「いいってことさ。それを飲んで明日も頑張ろう」

 そう言ってサムズアップ。この人も根はいい人みたいだ。

「じゃあいただきます」

「うむ、しっかり飲んでくれたまえ」

 グラスを手に持って一気に飲む。すると大豆を潰してジュースにしたような味が広がる。

「ウエッ! なんですかこれ!」

「プロテインだ」

 マスターがなんともないように言う。

「まあ、頑張って飲みたまえ。筋肉のためだ」

「…………はい」

 こんなたいしておいしくないものをよく飲めるな、と思いながら飲み続ける。

「…………やっぱりおいしくないですね」

「そうか? だったらもっと飲みやすいのもあるぞ」

「ほれ、プロテイン以外にも肉を喰え肉を」

「後はしっかりと睡眠をとるんだぞ」

「あーもう、一度に言わないでくださいよ」

 筋肉に囲まれて筋肉に良いことを散々聞かされる。そんなふうにしてその夜が更けていくのだった。

                                  (続く)

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