第3話 誰だって立つべきときがある


 胸にぽっかりと穴が開いたような――という表現を聞いたことがあるけれど、今の僕が正にそうだった。

 当然、授業なんかに集中することなどできず、視線の大半は陰鬱いんうつな僕をあざ笑うような快晴の空へと向けられていたような気がする。

 

 そう、気がする。

 まるで海馬の機能が低下しているかのように、ついさっきの出来事すらぼんやりとしていて、自分の記憶に確信が持てなかった。


 ……そうだ。僕の記憶は曖昧あいまいだ。

 だから、もしかしたらあんなことはなかったのかもしれない。

 昨日、秋葉原に行ってあの芳森公園で『まるちぃ』に会ったなんてことは――。


 

 ――近寄らないでよ、このキモオタッ!!――



 鮮明過ぎるあの光景が、あれは紛れもない事実だと頭の中を支配する。


 く――ッ!

 

 受け入れたくない、でも受け入れざるを得ない現実を前にして、僕は机に突っ伏して嗚咽おえつを漏らす。

 ――そして、心にある程度の平穏が戻ってきたのち顔を上げた。

 

 伸之のぶゆきが眼前にいた。

 あわれむようなその視線は、僕が事の顛末てんまつを話したからだろう。

 伸之は一瞬、僕から目を逸らしたけど、すぐに普段の調子でこう言った。


「帰るべ。オタ充は家に帰ってからが本領発揮よ。待ってろよ、二次元。キリッ――だろ?」


「ふん、お前ほど僕は二次元寄りじゃないって。……でも、ありがとう。なんというか、お前がお前でいてくれて」


「それイミフだから。俺は俺だし2年前から萌え豚街道まっしぐらだし」


「自分で言うなよ。その通りだけどさ。はは」


「笑え、笑え、――2番目の愛人セカンド・ミストレスじゃダメなんでしょうか? By、レンホー議員」


「いや、それはつまんない」


 変わらない伸之の存在が、僅かながらに僕の心を癒す。

 周囲に親友と思われるのに抵抗があったけど、今日を境に壁を取っ払ってもいいかな、と僕は改めて伸之に感謝した。



 ~~~~



 僕と伸之は自転車を漕いで正門へと向かう。

 正門を出てあとはひたすら右に進んでいけば、5分程で伸之の家が見えてくる。

 オタ充第一の伸之は家にいる時間を長くするために、最も近い高校である東山西高校を選んだという。


 感心すべきなのか呆れるべきなのか分からないけど、家が近いに越したことはない。

 今日もちょっとだけ寄ってマンガでも読ませてもらおうかな、と『今日が最初の類人猿だとしても』のヒロイン3人を脳裏によぎらせたとき――、


「あ、あのっ、待ってッ!」


 と横から女性に声を掛けられた。

 

 そう、女性。

 そして声はなんとなく聞き覚えがある。

 僕はあり得ない可能性に一縷いちるの希望を乗せて振り返る。



「えっ? なんで……うそ」


 

 

 ピンクのニット、白いミニスカート、そして太ももまで伸びるサイハイソックスという、私服姿の『まるちぃ』が――。


 瞳を揺動させる『まるちぃ』は、何か逡巡しゅんじゅんするような仕草を見せている。

 やがて意を決したかのように、僕を見据えると、


「あのっ、昨日はごめんなさいっ!」


 と、お手本のようなお辞儀をしたのだった。



 ~~~~



「あなたが東山西高校の生徒だってことは、あなたがお店に来たときに話したのを覚えていたんです。でも良かった。ちゃんと謝ることができて――」


 その後『まるちぃ』は、私服であるのは今日が創立記念日で休みだからというところまで話すと、机に頬杖をついてココアに口を付ける。

 そして一息つくかのように、外を眺めだした。

 

 すぐ近くのコンビニの休憩スペース。

 路上で話すよりかは落ち着いた場所でと思い、そこに移動したのだ。


『まるちぃ』の謝罪とは、[僕をキモオタと呼んだこと]。そして[押して倒したこと]の2点だった。


 ――とても嬉しい。嬉しいに決まってる。

 もう会えないと思っていたのに、わざわざその2点のために『まるちぃ』のほうから僕に会いに来てくれているのだから。

 

 大抵の男だったら、ちょっとした勘違いの気持ちが発露するかもしれない。

 かく言う僕もその“大抵の男”だったりするわけで、本名を聞いた上で通っている高校の名前、そしてあわよくば電話番号も手に入れたいな、という下心が腹の内でモゾモゾとうごめいていたのだった。


 よし――。


 僕は、緊張から乾く喉をコーラでうるおすと、そして、


「あ、あの『まるちぃ』――」


「『まるちぃ』は止めてください。もうお店辞めていますし。黄瀬きせでいいです。あ、“黄瀬まどか”が私の本名だから」


 聞くまでもなく本名を教えてくれる『まるちぃ』。

 その先を慌てずに、まずは名前について話を膨らませたほうがいいかもしれないな――。

 なんてことを考えていたら、トイレに行っていた伸之が戻っていた。


 そういえば、こいつがいたっけ。

 

 帰ってネトゲでもしていればいいものを、『まるちぃ』が僕がご執心だったメイドで、しかも可愛いということもあり付いてきていたのだ。

 その『まるちぃ』が、眉間にしわを寄せて嫌悪感を示していたのにも関わらず。

 

「あっぶね。まだ『まるちぃ』たん、いたおっ。……黄金比率の絶対領域視認中。やべっ、マジであれはやべっ」


「普通、それ声に出しますっ? 本当にやだ、この人」と、伸之を睨みつける『まるちぃ』が次に僕を見る。「やっぱりあなたはキモオタじゃないです。この人と比べるとそれがよく分かります」


「え? そ、それはどうも」


 感謝は違うよな――と思う僕の前で『まるちぃ』は立ち上がると、バッグを肩にかける。

 そして「もう帰ります。さようなら」と口にして、足早に去ろうするのだった。

 どうやら伸之のせいで、『まるちぃ』の帰宅のフラグが立つや否や即回収の運びとなったらしい。

 

 唐突過ぎて、分かれを惜しむ暇すらない。

 掛ける言葉も見つからないまま、「あ……」と蚊の鳴くような声だけを出して『まるちぃ』を見送る僕。

 

 ――と、『まるちぃ』が休憩スペースの入り口で歩みを止めた。


「私、私ね……」


「え?」


 小さな背中を見せたまま『まるちぃ』は続ける。


「メイド辞めたくなかった。もっとたくさんお客様……ううん、ご主人様にお給仕したかった。……だって、だって私あの仕事が好きだったから、大好きだったから。あなたのことだって大事なご主人様だって思っていたよ? 毎回、お給仕係に選んでくれて本当に嬉しかった。――感謝してます」


『まるちぃ』の背中に悲しみが溢れる。

 でもそんなことを気にする気持ちの余裕もなくて――、


「だ、だったら続ければいいじゃないですかっ! 感謝なんていいからっ、感謝しているのならっ、猫耳メイドを続けてくださいよっ!!」


 僕は人目もはばからずに叫んでいた。

 

 なんだか無性に腹が立ったのだ。

 感謝をしているという僕の気持ちを一切考えないで勝手に辞めておきながら、今になって辞めたくなかったと悲痛な一面を見せつけてくる『まるちぃ』に。


「ごめん、なさい……」


「ごめんじゃないですよ。僕の気持ちもてあそばないで下さいよっ。辞めた理由も教えてくれないで、そんなこと言われてどうしろって言うんですかっ。ひどいですよ、本当にっ」


「ごめんなさい……ッ」


 僕は感情を抑えることができない。

 だからなのだろう、これだけは聞かずにいようと決めていたことを僕はすんなりと口にしていた。


「“メイドなんてエッチなお世話も平気でするって思ってるくせに”――。昨日、こう言いましたよね? もしかして黄瀬さんって? だとしたら最低ですし軽蔑します。それが辞めた原因に繋がるのなら僕はもう――」


『まるちぃ』が振り向く。

 同時に、パンッと甲高い音が鳴る。

 その音の発生源は『まるちぃ』に平手打ちされた僕の頬だった。


「するわけないじゃないっ、するわけないじゃんっ、そんなことっ! したくないよ、したくないから……だから私はっ……私は――ッ!」


 両の目から落涙させる『まるちぃ』は、そして「さよならッ」とコンビニから出ていく。

 

 その涙で僕は確信した。

 間違いない。おそらく『まるちぃ』は――。

 僕は自動ドアを飛び出すと、信号を渡ったさきにいる『まるちぃ』に叫ぶ。


「僕が、僕が『まるちぃ』の辞める原因を作った奴を叩きのめしたら――そしたら、またお店に戻ってきてくれますかッ!?」


『まるちぃ』が立ち止まる。

でもそれは僅かの時間で、すぐに走り去ってしまった。


「……いっちゃん言ったの、多分合ってる」


 伸之がとなりに並ぶ。


「何がだよ?」


 僕は、今頃痛みだしてきた頬をさすりながら聞く。


「辞める原因を作った奴が本当にいるってこと。『まるちぃ』たん、今日が創立記念日って言ったべ? それ『あやめ』たんも辞める前に言ってた。つまり二人共、聖鈴高校。ここまではOK?」


「ああ。それで?」


「でもって『あやめ』たんが辞めた理由だけど、“メイドカフェの女の子を性の対象にしか見ていない同じ学校のDQNヤンキー達による乱暴”で確定済み」


「――っ!」


 聞くまでもないだろう。

『まるちぃ』も、


「どうする、いっちゃん? いっちゃんやるなら俺もやるぜ。オタクがキレるとやべーってとこ、いっちょDQNヤンキーに見せてやんよ。邪気眼なしのマジモードでな」


 頬の痛みは『まるちぃ』の心の痛み。

 握った両の拳が震えだす。


「ああ、……やってやる」


 

 僕はこの17年間でこれほど怒りを覚えたことはなかった。

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