第2話 そのオアシスは突然に


「行ってらっしゃいお兄ちゃん。あんまりオタク臭出さないようにするんだよー。あと、『アホとポテトと召喚銃』のクリアファイルと下敷きあったら買っといて」


 玄関を出ると、二階の窓からこのみがそんなことを言う。

 僕が無言で睨み付けて追い払うように手を振ると、好はニヤケ面を浮かべたまま、窓を閉めた。


「……ったく、あいつはもう」


 中学一年生の妹である好。

 僕が休日を使って秋葉原に行くとき、必ずお土産を要求してくる困った妹だ。

 でも、オタクな兄貴を避けることなく普通に接してきてくれる、できた妹でもある。


 ――だからって妹萌えとかないけどな。


 僕は心中で独り言ちると、今日も今日とて『まるちぃ』に会うために秋葉原へと向かう。

 


 ~~~~



 世界的な電気街から、世界に誇れるオタク文化の発信地へ―—。


 それはどうやら、10数年というとても短い期間のできごとらしい。

 僕はそれをネットで知ったとき、パラダイムシフトや『収穫加速の法則』みたいなものかな、と思った。

 多分違うけれど、劇的な変化であることは確かであり、僕は中央通りを歩くたびに、いい時代に生まれたものだと実感するのだった。


 よし、もうそろそろ行こうかな。


 時刻は11時。ぺちゃんこだったリュックサックも大きく膨れ上がり、今日の戦果が背中を刺激しては、僕の散財ぶりを主張する。

 その中には好に頼まれたアイテムも入っていて、僕は妹の喜ぶ顔を想像して口角を上げたところで、


 ――だからって妹萌えとかないけどな。


 と、誰かに言い聞かせるかのように再び呟いたのだった。

 

 そして通り慣れた道をひたすら歩き、見慣れたショップの横を何度も通り過ぎ、やがて某アドベンチャーゲームの聖地でもある芳森よしりん公園へと着く。

 この公園は『にくきゅーフレンズ』への経由地であり、僕はいつも通り横切るだけのつもりだった。


 珍しく誰もいない公園。

 だと思ったのだけど、公園の滑り台の上に誰かが座っていた。


 制服を着た女の子。

 洗練された着こなしから、多分女子高校生だろう。

 彼女は、小さな体を更に縮込ませるように体育座りをしている。

 そしてその物憂ものういな表情にある円らな瞳は、どこか虚空こくうを見つめていて――。


 

「――『』?」



 僕は思わず、そう口に出していた。

 ハッとしたような『まるちぃ』似の女学生が、顔を横に向けて僕を見る。


「あなたは……確か『にくきゅー萌えにゃんセット』ばっかり頼む人」


 真正面で見た顔からもそうだけど、今の反応で彼女が『まるちぃ』だと判明した。

  僕の心臓が早鐘はやがねくように高鳴る。

 

 まさかの『まるちぃ』との公園での遭遇。

 しかも見慣れたメイド服ではなく、お目に掛かったことのない学校の制服姿。

 もちろん猫耳はない。だけど代わりに大きなリボンが胸元に付いていて、『まるちぃ』のキュートさを純粋に引き立てていた。


 緊張から言葉を発っせない僕を怪訝けげんに思ったのか、『まるちぃ』が首を傾げる。

 

 まずい、何か言わないと―—。


「こ、こんなところで何やってるんですか? お店には行かないんですか?」


 果たして、口から出たその言葉が正しいのかは分からないけれど、聞くべきことであるのは確かだ。

 だって僕は今から、『にくきゅーフレンズ』で働く猫耳メイドの『まるちぃ』に会いにいこうとしているのだから――。


 なのに、学校制服の『まるちぃ』はあまりにもあっけらかんとこう言い放った。

 

「行かないですよ。だってもう辞めましたから。だからもうあなたにはお給仕できないのラ、ニッキュ、ニッキュ」


「は? はへえぇっ!?」


 こんなに驚いたことはない。

 多分、17年の人生で一番仰天しただろうし、付随ふずいする所作もアメリカ人のそれさえも超えた、オーバーアクションだったはずだ。


「うわぁ、驚き方がなんかオタクっぽいです。ずっとオタクだとは思っていたけど、やっぱりオタクなんですね」


「ぼ、僕はオタクだけどリュックサックからポスターを出したりはしな――あ、いや……あの、ほ、本当に辞めたんですか……?」


「うん、さっき。だからさっきのニッキュ、ニッキュはサービスです。……さてと、もう帰ろうかな。日曜も制服で外出できるのが女子高生の強みですけど、なんか虚しくな――」


「なんで辞めちゃったんですかっ!」


 僕は彼女の言葉を遮って声を荒げる。

 砂漠の中のオアシスが蜃気楼しんきろうだったと確定したような、そんな絶望感に包まれて、とてもじゃないけど冷静じゃいられなかった。


 なぜか表情にかげりを見せる『まるちぃ』は、視線を僕から外すと述べた。

 

「……ごめんなさい、それは言えないです」


「なんで?」


「なんでもです」


「……」


 僕はそれ以上、聞けなかった。

『まるちぃ』の明るさを失った顔が、聞きたい気持ちに制御をかけたのだ。


「辞めた理由は言えないです。でもかわりに何か1つだけ質問に答えてあげます。私に関することでも何でもいいですよ。あなたはお得意様でしたから」


 お得意様という言葉をどこか空虚に感じながら、僕は質問を喉元に通す。

 多分それはこの場での質問に相応しくなくて、とても馬鹿らしいもの。だけど、ずっと気になっていたことも確かで――当たり前のように口から零れ出た。


「……ケチャップ萌え描きって、なんでいつもシオパンマンの絵なんですか?」


「え? そんなことですか? まあ、いいですけど……」そして『まるちぃ』は続ける。「質問の答え――それは“簡単に描けるから”。以上です」


 そんな理由かよ……。

 

 何か意味でもあるのかと思って聞いたのに、どうやら質問を間違えたらしい。

 今頃になって、『まるちぃ』の本名でも聞いておけば良かったかと後悔の念が過りだしたとき、その『まるちぃ』が滑り台を滑って降りる。

 そして「じゃあね、さよならなのラ」と背中を見せた。


 ……え? これで終わり?

『まるちぃ』とはもう会えない?

 僕はこんなにキミのことを想っているのに、キミはそんな簡単に僕の前からいなくなってしまうのか――。


「待って、『まるちぃ』っ!」


 僕は思わず『まるちぃ』のことを呼び止めていた。


「……なに?」


 振り向く『まるちぃ』。

 その態度はそっけなくて、僕への興味がなくなっているのが有り有りと見て取れた。

 でも僕は構わずに胸の内を吐き出す。


「辞めるなんてそんなの信じられないっ。だってホームページで、ランク『ミケ』間近だって喜んでいるコメントだってあったし、それに給仕をしているキミは本当に楽しそうで、仕事に誇りを持っているように見えたし……だ、だから信じられないよっ、キミが辞めるなんてそんな――ッ。 

 ……辞めないでよ、『まるちぃ』。僕はキミの笑顔が好きで『にくきゅーフレンズ』に通っている。キミの笑顔はランク『ペルシャ』にだって負けていないっ。だから辞めないで。キミのいない『にくきゅーフレンズ』なんて行ったって意味はないんだよッ!」


 油紙に火が付いたかのように、僕は言葉を垂れ流し――そして気づいたときには

 『まるちぃ』のそばにいた。


「うるさいなっ。質問にも答えたし、もうあなたなんかと話すことんなんて何もないの! 辞めたのに関わってこないでっ! どうせあなただって、! 近寄らないでよ、このキモオタッ!!」


『まるちぃ』が僕を勢いよく押す。

 たたらを踏む僕は、そのまま背後に倒れた。

 閉めていなかったのか、リュックサックの中身が飛び出して周囲に散乱する。


 でもそんなことはどうでもよくて、僕は彼女の剣幕の中のある一言に胸を痛めた。

 ただひたすらにその言葉は僕を打ちのめして、立つことすら許さない。なんとかできたのは、たった一言を喉から絞り出すだけだった。


「キモオタでごめん」


「あ……」

 

『まるちぃ』の狼狽うろたえたような声が聞こえ、そしてすぐに走り去る足音が耳に入ってきた。

 

 僕のはかない夢が散った瞬間だった。

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