第99話 懺悔室
空は晴れていた。空気は爽やかで、どこまでも涼しい風が心地よく吹いていく。
街を見下ろせる丘。そこには机があった。せいぜい1人がけ用の小さな学習用机。表面はボロボロで、傷や落書きが持ち主だった子供がどんな人物かを語る。ノル国で教育を受けられるような待遇の子供ということは市民であり、もう今は死んでいるだろうが。
「がぼぼ!!」
机の上には洗面器があり、水がある。
そこに顔をつける少年がひとり。それを押さえつける中年がひとり。
「やめて! やめて!」
そして、中年を必死に止める女がひとり。
「あぼぼぼぼ!! がばばば!!」
キースがもがく。必死に頭を上げようとするが、それを阻止するハザル。
「ごぼぼぼ!!」
「やめてしんじゃう、キースがしんじゃう!」
アイネが半泣きでハザルを止めている。ハザルは無言で無視。
じたばたと動くキースの脚。やがて動きが止まる。明らかな限界である。
「……この程度か」
手を離す。洗面器を跳ね除けながら少年が頭を上げた。
「水をこぼすな。ここでは井戸から組み直すのも面倒なんだぞ」
「がはあ、がはぁ……こ、殺す気か! 俺を殺す気だろあんた!?」
「キース、キース、大丈夫……?」
「肺活量は特に吹奏楽では大きな土台となる。テクニックがあっても息継ぎの間にやれることが少なければ無意味だからな」
キースを見下ろし、淡々と解説をする中年。目はいつもの通り暗く澱んでいた。
「だからって頭を押さえ付けるのはおかしいだろ死ぬぞ!!頭おかしいんじゃないかあんた!?」
まずはどのくらい息を止められるかをみたいと言われ洗面器の水に頭をつけたらこうなった。
「だからどうした。呼吸が止まる程度の多少の仮死なら私の曲で即座に復活させられるから問題ない。遠慮なくやれ」
「ふざけんな!!」
「キレる余裕があるなら問題なかろう。次はランニングだ。走って基礎体力と心肺機能を高める。まずは体力だ。街の周りを10週走れ」
無慈悲に告げる。ハザルにはキースがまだ子供だからという遠慮は全く無い。最初から無かったが。
「ちょ、ちょっと休ませろ!」
「そうか。疲労感を消す音楽を聞かせてやろう丸一日起きていられるやつをな」
構えられるバイオリン。蠢く指。ハイテンポな曲調に鼓動が高まり、疲れが一瞬で消える。
「う、うおお!?」
「さあ走れ小僧。時間は有限だ。走ってきたら次は楽器を作るぞ」
「……やればいいんだろ!」
走り出すキースを見送りながら、ハザルはアイネに向き直る。
「ひっ」
アイネの目に怯えがあった。逃げ出そうと構える。
「待て、そこに座れ」
女の動きが止まる。恐怖と混乱が頭の中を埋めつくそうとする。弟からは「ハザルの曲を大人しく聴いてくれ」と約束しているがどうにも怖いものは怖い。
「なにも酷いことはしない。そこに黙って座っていればいい。昨日と同じ曲をまた聴かせるだけだ」
震えながら座る。キョロキョロと泳ぐ視線。ハザルを正面から見れない。
不意にハザルはしゃがむ。手には足元に生えていた白く小さな花。名前は知らない。それをアイネに向かって突き出した。
「持て」
「え、え……?」
意図が分からず、ほおけた声をだして彼女はそれを持つ。
「私が怖くて落ち着かないなら、その花を見ておけ。花びらをゆっくり数えている間に曲は終わる」
そう言うとハザルは再びバイオリンを構え、昨夜アイネに聞かせたものと同じ鎮静の音楽を奏でる。
わざわざ丘の上に来たのは、周りの生活音など雑音を少なくして効果的に曲を聴かせるためだ。
「う。あぁ」
優しげな音色に、アイネの震えが治まっていく。こうして何度も聴かせて脳に条件反射を起こす回路を作らせる。いずれは、キースの奏でる音楽でも同じ効果を得られるように。
「……怯えさせてすまなかったな。追い詰めるつもりは無かった」
奏でながら、ハザルが初めて本心を呟いた。
「う。あ、あの」
アイネが、声を絞り出した。
「あな、たは、まだ少し怖いけど、あなたのば、バイオリン?ていうの? は、やさ、優しくて好き、です」
少しだけ、アイネに笑みが戻っていた。
その様を見て、ハザルの陰鬱さはより濃くなっていく。
「そうか……それなら、良かった」
「あ、あの、なんで、なんで、あなたはここに来たんですか……? お、おばあちゃんのこと、知ってるんですか?」
ハザルは無言で音楽を奏でる。戸惑いを浮かべたままのアイネの顔を見ながら、音色にどこか悲しみが混じっていた。
やがて演奏が終わる。バイオリンをしまいながら、彼女に背を向けて男は呟いた。
「……ただの野暮用だ」
△ △ △
「……これで少しは楽になりましたか?」
ソウジは少年の脚から手を離す。粗末な台の上で寝転んでいた少年は、恐る恐る降りて立つ。
「……大丈夫、大丈夫だ! 痛くない!」
「一応治療魔術により解放骨折は完全に治っていると思いますが、念の為しばらく無理をしないように。それから高い場所に登るのもやめましょう。いくら木に美味しそうな実がなっていても、ですよ?」
「ありがとうソウジ!」
「どういたしまして。では次の方」
手を振って去っていく少年を背に、勇者は次の者を呼んだ。
見上げる天井には穴。破壊された教会の中で、カゲイ・ソウジは奴隷達の怪我人の診断と治療を行っていた。
特になにもやることはなくても、不意に怪我をするものはやはりいる。ソウジの治癒魔術の出番となるわけだ。
「今朝から気分が悪いし頭が酷く痛いんだ。治らないかい?」
中年の女を診察する。だがやれることは当然限られる。
「すいません、外傷ではないようなので僕にはどうにもできません。シスターデンスクリー、痛み止め等の薬はまだありますか?」
「ソウジ様、そういう薬は手持ちの物はもう切らしていて……」
申し訳なさそうにグラマラスなシスターが頭を下げる。謝罪を手で止めて、ソウジは対策を考える。
「すこし時間をおいて観察しましょう。また頭痛が酷くなったり他に強い症状が現れたらすぐに来てください。その時は深夜でもかまいません」
薬を渡されないことに不満ながらも去ってゆく中年女。見送るソウジに青髪のシスター、クリアムが囁く。
「あのおばさん、多分仮病だよ? 前に貰った痛み止めを他の奴隷の持ち物と物々交換してたし」
「……でしょうね。頭痛以外にクモ膜下出血や脳内出血、および心筋梗塞などに関わりそうな初期症状もない。そもそも家族の方の前で痛がっていなかったようですし」
「ソウジ様、もうあのおばさんとか並ばせるの止めさせたら? 他にも仮病で手伝いを怠けたりする奴隷もいるよ? そういうのまで助けるの?」
「助けますよ」
クリアムの質問に、ソウジは即答した。
「嘘をつくことも怠けたいと思うことも人間なら仕方ないことです。そのくらいで彼らを助けない理由にはなりませんよ。それに、それで阻害してそういう人達が本当に病気になったらそれこそ危ない。まあ、僕は医者ではないので出来ることは非常に限られていますが」
「……私は、もうちょっと考えたほうがいいと思うなあ。いくらなんでも良い人すぎだし」
修道服に隠された健康的な肢体で伸びをしながら呆れたような声を出す彼女。ソウジの答えに、クリアムは不服そうだ。
「クリアム、ソウジ様は人の過ちを許す方なのです。誰にでもできることではありません。私達も応援していきましょう」
「デンス姉もお人好しすぎだよ……」
「ありがとうございます。後で街の店を漁って使えそうな薬品があるか探してみましょう。……ところでシスターデンスクリー。人も途切れたようですので、少しお話があるのですが」
「まあなんでしょうソウジ様? わたくしに出来ることならばなんでも」
淑やかな笑顔で答える修道女。無表情のままソウジは言葉を続ける。
「例の話なのですがそろそろ……」
「ソウジ様、あちらの懺悔室なのですが、実は奴隷の方々にも使用を願っている方がいるのですよ。ですが損壊が激しいので、すこし修理をお願いしたいのですがよろしいですか?」
「……? はい、それは別にかまいませんが」
「ありがとうございますソウジ様。ではこちらへ」
ソウジの手を取り、デンスクリーは引っ張っていく。
△ △ △
「それで、例のお話なのですが。ソウジ様」
「はぁ、ところでシスターデンスクリー。少々狭すぎませんか?」
懺悔室の中に全く損傷はなかった。それでもデンスクリーとソウジは司祭側の部屋にわざわざ二人で入っている。デンスクリーに無理やり押し込められた。
普通は1人で入る薄暗い小部屋に二人。それも身長はそこそこある男女なので、当然密度が高い。
「秘密の話は、こういうところのほうがいいものなのですよ。ソウジ様?」
ソウジにひたりと体を押し付けながら、銀髪のシスターは耳元で囁く。豊満な乳房が、男の胸板に挟まれて形を変えた。呼吸の熱をソウジは感じた。
小さな窓からの僅かな光が、修道帽から零れる金髪を妖しく輝かせる。狭い部屋を女の体臭が埋め尽くす。
「そういうものですか。……ノル国内に留まる奴隷への抹殺命令が国境際の兵士たちに近いうちに下される話はいつみなさんに伝えるべきでしょうか? 僕としてはできればすぐにでも言ったほうがいいと思うのですが」
ソウジがこの国境際に来た目的は、
弱者を救うため、勇者は再び自らが滅ぼしたこの始まりの国を訪れたのだ。
「お待ちくださいソウジ様。今の人々にそれを伝えてもパニックになるだけです。もう少しだけ状況を安定させてから伝えて避難を促したほうが余計な犠牲を出さなくて済みます」
「……猶予は、あまりと無いと思います。もしかしたらもうすでに指令は下されているかも」
デンスクリーの手が、ソウジの手を強く握る。
「私達を信じてくださいソウジ様。我々偉神教の教主国は3カ国に多数の教徒を持つ独立国家でもあるのです。つまり私達まで巻き込んで攻撃をすれば教主国パウルスとの外交問題に発展する可能性があります」
回されたもう片方の手が、ソウジを抱き寄せる。黒の修道服からピッチリと張るボディライン。彼女の高い体温を塗り込むように、熱情を注ぐように、デンスクリーは彼に強く体を押し付ける。
息継ぎをして、ほうと吐息を吐く。
「いざとなれば、私が交渉に出向きなんとか攻撃を抑えましょう。その間に避難させます。正しきことのためならば、きっと神は私達をお助けくださいます」
「シスターデンスクリー。ありがたい話ですが、あなたにまで危険なことをさせたいとは僕は思いません。まずご自分の安全を考えて行動を」
「苦難こそが信仰。痛みこそが神への愛なのです。私達が必ずソウジ様の助けとなります。どうか信じてください」
デンスクリーの深緑の瞳がソウジを見つめる。宿るは殉教者の熱。
「それから……ソウジ様、入信のこと、お考えいただきましたでしょうか?」
そういえば前々からデンスクリーには偉神教への入会を勧められていた。
「いや、そういうものは入る気には」
悪いが特定の神というものを信仰する気はない。
「わたくしは、ソウジ様がわたくし達と同じ神を信じてくれるなら……とても嬉しいんです。恥ずかしながら今まで、修道会の中の方ばかりで外の殿方というものをほとんど知らなかったのですけれど、世の殿方がみなソウジ様のような穏やかで優しい方ばかりなら……私は」
デンスクリーの頬に僅かに赤が見える。
「シスターデンスクリー……今は、どうやって人々を救えるかだけ考えましょう」
「あ、あ……す、すいません、私……神に仕える身でなんて破廉恥なことを……!」
「いえ別に謝ることは」
「あ、頭を冷やしてきます!」
「あ、危険ですよ」
外に出ようとデンスクリーが立ち上がった瞬間、狭い部屋の天井を頭が直撃する。
「あいたっ!?」
「シスターデンスクリー?」
そのまま板をへし折って天井に穴が空く。ふらついたデンスクリーがドアに倒れ込み、そのまま安普請なドアを破壊。部屋の外へ。
「きゃああああ!!?」
「おっと」
彼女を助けようとしたソウジも投げ出された彼女の脚につまづき、彼女に覆い被さるように倒れる。
「そ、ソウジ様!?」
「すいません。すぐ退きますので」
「い、いえ別にしばらくこのままでも……」
デンスクリーの顔に影。しばらく彼女の時間が止まる。そしてゆっくりと視線を真上に向けた。
「デンス姉、なにやってんの?」
「……お姉様、なにをしてるの?」
二人を見下ろすクリアムとリバイア。表情は明らかなドン引き。
「え、えーと」
引きつりながら、やっとデンスクリーは二人の質問に答えた。
「……懺悔、です」
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