第64話 小舟

 アシュリー市は大河の中にある巨大な中洲が発展してできた都市である

 周囲を川に囲まれた地形と気候の条件により、濃く深い霧が発生しやすい。

 昼になってからも霧が晴れないことは珍しくはなく、今日もアシュリー市中央およびその周囲を濃霧が覆っていた。

 街を訪れる者は、この霧を美女のベールと呼ぶ。霧に覆い隠された秘密の中に、美しくも怪しい街の顔がある。


 少女が立っていた。

 曇り空の濃霧の中で日傘をさしている。服は黒一色の喪服のドレス。大きく伸びた蕾のようなスカートは足先までも覆い隠している。

 シンプルな婦人帽、ベールの奥の顔立ちは十代後半ほど。深い黒の瞳は暗く、アシュリー市の街並みを外から・・・観察していた。

 彼女が直立している場所は、静かに流れるカナギナ大河の水面だ。

 水面の上に、まるで生えるように喪服の少女は立ち尽くしている。


「また街を見ていたのか、ルーウィン」


 不意に男の声が聞こえる。

 少女の傍らに小舟があった。小舟には背広の紳士が腰をかけている。

 薄い灰のスーツ。丸い遮光眼鏡サングラス。顎髭の男が紙袋を下げていた。


「これ、街の名物の川エビのサンドイッチだ。食べてみろなかなかうまいぞ」


「それはもうやめろ」


 差し出された紙袋を一瞥もせず、少女は街を見つめたままだ。


「ルーウィンと呼ぶな。私はアルにじゅうパーはちだ、焼却者イレイザー


「そうかね。俺はイレイザーという名がどうにも好きではないのだが、お前も似たようなものかと思ったがね。素っ気もないアルパーなんぞより可愛らしいだろ」


「私はこの名に誇りをもっている。あなたとは違う。ならばイレイザー以外の名前で呼んだほうがいいのか」


「それが、もうイレイザーという名前以外は忘れてしまってね……なぜ、街を見ていたアルパー?」


「……この手で壊すものが一体どんなものなのか、自分の目で見てみたかった。私にはあの街の中へはいることはできないからな」 


 少女の目に、遠い街の景色がある。うっすらと霧がかった建物の群。アシュリー市中央を貫くように高層の古式建築様式の時計台が屹立し、その周囲を囲むレンガによるビルディングの数々。

 様々な店がある。様々な人々がいる。人が集まって生きているという熱があった。その全てが、彼女にはもう触れることのできない物だ。


「街の中を見物してみたが、なかなかいい所だ。あの大きい時計台なんか観光客が結構いてな。街並みもキレイで活気があって、食い物も悪くない。旅行者だといったらサンドイッチ屋の主人がフィッシュアンドチップスまでおまけしてくれた。いらんといったんだがなあ」


「――そんな街をあなたは焼き尽くすのか?」


「――そんな街をお前は消し流すのだろう?」


 男の顔に、静かな硬質の微笑。少女もまた、自嘲するように薄く笑う。どんな感傷があろうと、どんな疑問があろうと、彼らは役割を全うする。


「それが任務だ」


「だろうな」


 大河の流れの中で、言葉は消えていった。




▽ ▽ ▽



 N&R新聞社は昼をすぎてもなお喧騒が絶えない。急に入る速報、事件、事故。あらゆる情報を紙面へと載せるために今日も記者達は狂奔に駆られる。

 だが、この資料室の中だけは不思議な静寂に満ちていた。

 狂奔から壁一つ隔てただけでこうも静かになるものなのか。

あるいは熱にかられた場から引き離されれば、素の人間など案外こんな冷めたものなのかもしれない。


――ここで吸うタバコはなぜかマズくてなあ。空気が悪いせいか。


 そんな思考を巡らせながら、ロエルゴ・ブーンは椅子に腰をかける。

 資料室にある申し訳程度の大きさの椅子二脚と一台のテーブル。

 もう片方の椅子に対面する形で腰掛けるは、長身の青年。変化の乏しい、というか無い表情。


「で、おまえさんが話したいことってのはなんだい?」


 青年=カゲイ・ソウジへと語りかける。


「まあ、短刀直入にいうとですね」


 ロエルゴを見据えた眼。感情の光は無い。


「その前に、タバコ一本いいですか?」


「――へえ、吸うのか、ほらよ」


 渡した一本を受け取り、ついでに渡されたマッチをテーブルでこする。灯火ともしび紫煙しえんを産む。


「――ふぅ」


 ゆっくりと吹いた煙。されど青年にリラックスした様子はなく、やはり変わらず。


「先日、この辺で殺人があったじゃないですか。あれ、たしか、警官殺し」


「ああ、あれか。あれは別に俺が担当ではないからな。大したことは知らんぞ?」


「そうですかね。殺された警官、ロエルゴさん知ってるんじゃないですか?」


「そりゃまあ被害者の身元や名前くらいは目を通してるぞ」


「そうじゃなくてですね、殺された警官、――たしかゼントリー・ダナとあなたは昔からの知り合いじゃないかって話ですよ」


「――どこでそれを知った?」


 声色が変わる。いつもの気安い中年から、暗く重い何かが混じる。


「殺人現場に煙草が供えられてました。恐らくゼントリー・ダナの身内。しかしゼントリー・ダナの身内はこの街におらず、ゼントリー本人も警察署内では孤立気味でした」


「なるほど、下調べはきちんとしてるな」


「相棒だった警官もこの煙草は知らないと言った。では誰が供えたのか。簡単でしたよ。近くの煙草屋であなたが買ったと教えてくれましたから」


「そうかい、あの婆さんにはチップでも渡して口止めしときゃ良かったなあ」


 ゆっくりと首をふりながらロエルゴが呟く。


「なぜ彼を知らないふりなんてしたんですか? 知り合いだとしたら、彼の事件を追うつもりは無いんですか」


「仇を取ってやるとか、そんなことを考えるほど俺も若くはない。知らないふりをしたのは、そもそもこの二年は奴と疎遠だったからだ」


「疎遠だった?」


「二年前までは……そうだな、相棒とでも呼べたかもな。あいつが捜査をして、俺がそれを助けて記事にする。そういう関係だった。商人街の殺人鬼を追ってるなら、吊し切りケリーストレンジ・フルーツの件もついでにエクセルと調べて知ってるだろ? あの事件の被害者にアイツの姪がいた。名前はアリシア」


「アリ、シア……」


「俺もゼントリーも事件を解決するために全力を尽くした。それでも犯人を捕まえることはできず、吊し切りケリーストレンジ・フルーツは野放しのままになった。それきり俺とゼントリーは会わなくなったよ。俺はもう事件を思い出したくなかったんだ」


 二年前の敗北。黒く澱んだものが胸を埋め尽くす。


「だが、ゼントリー本人は諦めてはいなかったようですね」


「知ってるよ。権威失墜を恐れて事件収束の判断をした署長をゼントリーが批判したことぐらいな。それであいつが孤立したことも……だがそれでも俺はアイツに会わなかった」


「なぜ?」


「わかってるだろ、背を向けたんだよ。失敗したこと、後悔からな。それに息子の病状も悪化して他人に関わる暇も無くなった」


 苦く笑うロエルゴ。かつて食卓の前でソウジに見せた、世界とさえ戦おうとした力に溢れる男の顔ではなく、年相応の挫折と苦汁を知った男の顔になっていた。


「やつとはそれきりだ。死んだのを知って、手向けに煙草を供えた、それだけだよ。それが知りたかったのかソウジ? 中年の愚痴と後悔と醜態なんぞ聞いても、お前みたいな若いのには肥やしにもならんぞ」


「……なるほど、わかりました。エクセルさんと警官殺しも調べていたんですが、ロエルゴさんからなにか聞けるかもしれないと思ったんですがね。お話をありがとうございました。

それで、要件がもう一つあるんですが、――情報、買いませんか?」


 突然の提案に、後悔を吐き出しきったロエルゴの顔が曇る。


「情報? なんの情報だ?」


「あの小娘・・の集めてる商人街の殺人鬼の情報ですよ」


 取り出したのは、背表紙から二つに裂かれたノート。


「それを俺に売るのか? エクセルはなんと……」


「もう飽きたんだよ、子守には」


 言葉を吐き捨てる。初めて青年の顔に表情が現れた。端正な無表情から、鬱屈と苛立ちが浮かぶ。


「少しばかり丁寧な性格のふりしてたら雇ってもらえたけどさ、やっぱああいうのに偉そうに使われるのはオレに合わねえわ。いくら金の払いがよくてもな」


「……まあ、猫を被るくらいは世渡りの初歩だな」


「田舎のお嬢の道楽に付き合って金貰えるなら安いもんだと思ったが、どうにもこの街はきな臭せぇ。それにどうせあの女じゃいくら情報入っても役に立たねぇだろ? でもあんたには有用になる。じゃあ高値で買ってくれる所に売って、あとは別の街にいくさ」


 手渡されたノートの半分。目を通しながらロエルゴが訪ねる。


「……で、いくら欲しい?」


「内容は気に入ってくれたようだな。まあ次の街への旅費として……このくらいかな」


 ソウジが紙片にペンを走らせる。わずかにロエルゴが眉根を上げた。


「なかなか要求してくれるな……だがエクセルも同じ情報を知っているんだろ? エクセルが先に記事を上げるなんてことはないよな」


「無理だね。あの女には情報から話を推測する頭がねーよ。この情報だけじゃ無理だ。なによりそろそろ田舎帰ろうかなんて泣きいれてんだぜ?

だがあんたなら、推測からさらに調査するなりして記事を書ける。だからあんたなら必ずこの情報を買う」


「――今は手持ちがあまり無いな。待てるか? 二時間ほどで用意できる」


「話が早いな。じゃあ俺は時計台の近くの公園ででも時間を潰すよ。金貰ったらとっとと街を出て行く。お嬢さんが騒いだら適当に相手してやってくれや。じゃあ、これは金と引き換えだ」


 もう片方の手帳をしまい、ソウジが席を立つ。顔には僅かに見える晴れやかさ=子供の遊びから解き放たれる喜び。


「次はどの街に行く気だ、ソウジ」


 背中越しに投げられた言葉。振り返らずに返す。


「さあ、特に決めてないね。まあ、血なまぐさくなくて、退屈もしなくて、ついでにうるさいガキが指図してこない所ならどこでもいいよ」



 ▽ ▽ ▽


――と、こうきましたか。


 ロエルゴに捨て台詞を吐きながら、ドアを開けたその前には小柄の人影があった。それが誰か気づいた時、ソウジは内心でため息をつく。

 男装の記者、ソウジの雇い主。エクセルドーハ。


「――あんた、今ロエルゴさんと話してたこと……」


「どこまで聞いてましたか?」


「全部よ!」


 弾けるような叫びが廊下に反響する。

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