第12話 それが幸福だとは、勇者は知ることができない

 舞い散る紅、砕く骨の感触、切り裂かれる肉。大切な何かを、自らの手で打ち砕く感覚。

 二度と戻らない喪失と、胸を抉る、衝動。

 ただそれさえも、魂の虚無に呑まれていく。


  ◇◇◇


「――――あああぁぁっ!」


 叫びながら覚醒する。体を軋ませ、跳ね起きた。喉の渇きに声が張り付く。


「――ハァッ、ハァッ、ハァッ、……」


 呼吸が落ち着かない、心臓が早鐘を打つ。心の動揺――ソウジにとって、生まれて初めての感覚。

 そう、それは生まれて初めての体験、自分に明確な『感情』があるという自覚。

 周りを見渡す、古びた壁、最小限の家具、あの山小屋の中だ。窓からは盛大に朝日が入る。


「……ミ、トス」


 呆然としながら名前を呟く、忘れてはいけない、少女の名を。


「――ミトスッ! ミトスは……ッ!」


 必死に姿を探す。あの命を奪う手応えを、少女の血の溢れる光景を、事実だと思いたくない。信じたくはない。あれは夢だったはずだ。


――嘘だ、嘘だろ……嘘だ嘘だ嘘だウソだっ!


 あのいたいけな少女を、殺したことは。


「――大丈夫、ソウジ?」


 傍らから届く声に振り向く。気が抜けたように、ソウジは声の方向を向いた。


 燃える赤髪、脂肪の薄い華奢な体、幼いが意志のこもった顔立ち。窓から刺す朝日に照らされながら、勇者の探す少女はそこにいた。


「うなされてたよ、ソウジ。大丈夫? どこか具合が……」


「……ミトス」


 無意識に両手が伸びる。少女の体を引き寄せた。


「ソウジ……」


 少女を優しく、そして強く抱き締めた。頬に当たるミトスの髪は、太陽の香りがする。


「――ミトス、ごめん、ごめんな……」


 それは勇者にとって初めての衝動だった。少女が生きていることを感じたい。この手で、胸で、生命を感じたかった。


 あの少女の運命を決める時、石は左に落ちた。

 ソウジは、左に落ちた場合、彼女を永遠にこの場に置き去りにする事――――即ち、殺してこの場所に永久に止まらせる事を決めていた。

 眼を閉じたままの少女へ剣を振りかぶる。無慈悲に命を断つため、振り下ろす。その直前にソウジの脳髄に雷のような衝撃が走った。

 今なお理由は解らない。だが昏倒したソウジの意識には変化が――つまり、感情が芽生えていた。


――なぜなのかは解らない、だけど、感謝したい……


 重ね続けた罪のせいなのか、少女と過ごした日々の効果か、だが確実にソウジは人の感情を得た。

 それ故に、少女を殺さずに済んだ。この腕の中の温もりを、自らの手で消す事を免れた。

「……ごめんな、ミトス、もう二度とあんなことはしない」


 安堵の嗚咽と共に呟く。ソウジは生まれて初めて、感情に胸を突かれ、泣いていた。もう二度と戻りたくはない。あの冷たささえ感じない、感情の無い自分には。


「――大丈夫、だよ、ソウジ。あたし、ずっとソウジと一緒にいるから……」


 抱き締められたまま、少女が言葉を続ける。


「さぁ、ソウジ、行こう。あたしをソウジの旅に連れていって」


「……ああ、わかってる」


 ゆっくりとベッドから立ち上がる。

 世界は、何もかもが違って見えた。心があることは、これほどに違うことだったのかとソウジは嘆息する。

 悪も善も、清も濁も、生きる事も死ぬ事も、それまでのソウジには全て同じ価値に見えた。全てが同じ価値ならば、それは全てが無価値だという事だ。

 だが今は違う、はっきりと命の価値がわかる。世界は美しいと言える。


 贖いきれない罪を重ね続けた、だが今ならば、きっと世界を救える勇者になれる。そうソウジは思った。


「――それは都合が良すぎやしないか、虚ろの勇者よ?」


 聞き覚えのある低い男の声。さっき見渡した際には誰もいなかったはずの古びたテーブル。その椅子に、腰掛ける人影がいた。


「わかってるんだろ? こりゃ都合が良すぎだとさ」


 ソウジと同じくらいの長身、鍛えられた体を包む軽装の鎧、茶の髪とニヒルな印象を抱かせる口元に生える無精ヒゲ。

 そして、腰には長剣を差す。


――っ!?


 その剣を見た瞬間、ソウジは反射的にベッド脇に立てかけてある自分の剣を確認した。

 剣はそこにあった。男と全く同じデザインの自分の剣、そう――柄に刻まれた名前、『オウタ・イセジン』の文字まで同じ。


「かつて、お前を診察した脳専門の医者が言ってたな、お前の脳には器質的変化がある、と」


 男、勇者がこの手で惨殺したはずの剣士、オウタが話を続ける。


「そしてこう言っていたはずだ。

『脳の重量が常人より一割ほど多く、感情を司る部位が他の部位のバックアップに回っているようだ』とな」


 オウタの喋る内容は、本来この世界の人間が知らないはずの知識。


「『本来感情を生み出す部位が感情を生まず、基礎的な脳力のバックアップに回っている。さらにニューロンネットワークの発達や構造も常人を遥かに越えている可能性がある、許されるなら開頭手術で脳細胞のサンプルが取りたい』

なんともロクな医者じゃなかったな、ソウジ?」


 どこかおかしいあの医者は、それでも見解は正しかったのだろう。


「お前さんの脳は、感情を切り捨てる発達をしたことで異常な記憶力、演算力、パターン認識力、論理的思考力を得た。

本来感情は、人間が群で生き残り発展していくための進化により手に入れた『武器』だ。

そのために倫理などの文明が発生し、人間らしさというものを認識し、作り上げることが出来た。

だがお前には感情が無い。感情を生むことも感じることも出来ない。それに対応した脳の部位が無いからだ」


「違う! 僕には、僕にはもう感情が……」


 破裂するように叫ぶ。オウタの声を、これ以上聞きたくない。


「お前の脳は怪物なんだ、ソウジ。お前の脳はすでに人の規格じゃないんだ。

覚えているだろう? 俺はお前が殺したはずの存在だ、それがなぜここにいるか解るか?」


「……う、あぁ、あ」


 言葉が出ない。死したはずの男の問いに、答えられない。


「簡単だ、この小屋の中の世界自体が、お前の怪物の脳の演算能力で作り上げた仮想空間に過ぎないからだよ」


 静かに、淡々とオウタが呟く。その目はソウジを通り過ぎた遥か彼方を見ている。


「そして俺はお前が見聞きした『オウタ・イセジン』の情報から組み上げたシミュレーション上の仮想人格、つまりただの情報の張りぼてにしか過ぎないってことだ」


 ゆるやかに上げられた右手、その指先がソウジを指す。


「そしてお前も、怪物の脳が作り上げた『感情があるカゲイ・ソウジ』の仮想人格に過ぎない。

お前の脳は、感情を理解できなくても、行動に対するリアクションから感情があるように見える行動を学習したんだ。

仮想実験に置ける『中国人の箱』というやつさ。

お前が感情に悶えているように感じていても、実際は特定の行動にプログラミングされた特定の感情反応を自動的に返しているに過ぎない。

お前には感情なんかはなから無いのさ。有るように錯覚しているだけだ」


「――――違う、違う、違う! 違うんだっ! 僕には……」


「そして、お前の横にいるその少女も、俺やお前と同じだ」


 オウタの声には、どこか諦めが混じっていた。


「……ミ、ミトス?」


 探しても、少女の姿はどこにも無い。狭い小屋の中、彼女の姿は消えていた。


「もうこの世界の終わりが近いのさ、ソウジ。

難儀なもんだ。こうして夢を見ている間だけ、感情を持つカゲイ・ソウジでいられるとはな。殺された分際だが、つくづくお前には同情するよ」


 小屋の壁がひび割れていく。亀裂から、光が染み込む。世界が閉じる。


「俺がここにいるのは、別にお前を断罪するためでも、憐れむためでも、救うためでもない。

ただ、いつも通りのことを言いに来ただけだ」


 やがて、オウタの背後も光に包まれていく。男の影が、光に溶ける。


「――目覚めろ、ソウジ。そしてお前の作った地獄を見てこい」



  ◇◇◇


 ソウジが目覚めた時、そこはやはりあの小屋の中だった。

 部屋の気温は低い。ミトスがいないため、気温調節の魔術を使う必要がないからだ。ソウジの体に恒常的に働く体温維持調節魔術は暖房さえ必要としない。

 ソウジの胸の中に、もうあの夢の中のような感情の熱は無かった。世界は再び灰の色へ戻り、無価値へと還った。

 暗い部屋で、窓からの月明かりを頼りに荷物をまとめる。オウタとの約束を守るため、まだ旅を続けなければならない。


 軋むドアを開け、外に出る。

 暗い外は、一面を薄く積もった雪が覆っていた。歩く度に吐き出される息が白く染まる。

 小屋のそばには、折り重なった巨獣の死体があった。まだ解体の途中だが、もう必要は無い。


 歩く道の先に、紅が見えた。

 雪により薄まった紅が道に広がる。その付近にある雪を被った二つの何か。

 ソウジは歩みを止める。そのうちの一つの元へしゃがみこむ。

 そっと、雪を拭う。その下から、ミトスの顔が現れた。

 穏やかな、祈るままの表情のミトス。その胴体は左肩から斜めに心臓を横断するように切断されていた。そばにあるのは、少女の下半身だ。


 あの時、石は左に落ちた。

 そして、勇者はミトスを永久に置き去りにするために、少女を殺した。

 何も感じなかった。今までと変わらない。ただ少し、疲れた気がする。


 不意に、勇者は手を伸ばす。雪も払わず、少女の上半身を持ち上げる。

 そして、強く抱き締めた。

 少女を生き返らせたかったわけではない、少女に謝りたかったからでもない。

 ただもう一度、あの夢の中のように少女を抱き締めれば、感情を知ることが出来るのではと考えたからだ。


 だが何も無い。胸の中には、悲しみも懊悩もなく、ただ以前虚無しか無い。


 もし、少女が勇者と出会わなければ、

 もし、少女が奴隷のままだったなら、

 もし、少女が勇者を愛さなければ、

 今とは違った未来があっただろう。だが、もう変えることは出来ない。


 その思いを恋と呼ぶことを、少女はまだ知らなかった。

 自らが壊したものを幸福と呼ぶことを、勇者は知ることが出来ない。

 人になりたいと願った少女の、初めての恋は、彼女の命を奪う無惨な未来へと繋がってしまった。


「……ミトス」


 雪の上、闇の中で勇者は自らが殺した少女の名を呟く。すでに死んだ人間の名を呼ぶことに意味は無いことはわかっている。だがそうしなければいけない気がした。


「――ぐ、あ、」


 突如、背中にズンという衝撃、声が呻きに変わる。腹部に熱を感じる。視線を下ろすと、腹部より剣が突き出していた。

 二本の剣が背中より腹部を貫通。串刺しにされている。激痛がソウジの脊椎を駆け抜ける。

 背後に人影、白の全身甲冑、その表面に薔薇の花びらのレリーフが刻まれていた。


「――――この、腐れ外道がッッ!!」

 

 白の甲冑を纏う騎士――ウェイルー・ガルズは激情が漲る怒声を叫んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る