《第23話》雨の日に思い出が落ちてくる
__今日は雨。
白い点が上から下へと繋がっていく。
入り口前に溜まった水溜りに、丸い波紋が絶えずに描かれ続けている。
薄手のコートの襟は高く立てられ、透明な傘が行ったり来たり。
オフィス街が近いことが理由かもしれない。
皆、手頃な傘を手元に置いて動いているのだ。
会社の傘なのかもしれないし、そのあたりのコンビニで買ったのかもしれない。
いずれにしろ、色味がなく、ただ寒空を薄く透かしている。
こんな雨の日は11時にオープンしても誰もこないことが多い。
ランチの時間帯の雨脚にもよるが、それほど見込めないだろう。
雨のなか歩いてここまで来ようと、いや、わざわざ外に出て食事をしようと思う人は少ない。
実際、自分もこんな日にお出かけなんてしたくはない。
足元に気を配らなければならないし、着るものだって濡れてもいいものや厚手のものなど、気温を考えて動かなければならないのだから。
それなりの支度は整えたが客は見込めないと、莉子はカウンターの椅子に腰掛け寝そべったところで、カランと扉が鳴った。
「やってるかい?」
ひょっこりと顔を出したのは、常連のおじいちゃんだ。
「居酒屋じゃないんだから。
オープンの看板出てればやってますよ、おじいちゃん」
そうかいそうかい、呟きながらカウンターに腰をかけ、小さな巾着から文庫本を取り出した。
「こういう日はお客が少ないからね。
このお店で本を読むのが一番なんだ」
「いつもそうだったね」
「最近老眼がヒドくて本も遠慮がちだったんだが、
眼鏡を変えたら、そらまぁ読みやすいのなんの」
「それは良かった。コーヒーでいい?」
「ああ、いつもの頼むよ」
そう言うと、眼鏡ケースから眼鏡を取り出し、ツルを伸ばすと耳にかけた。
そして、ゆっくりと本をめくり始める。
すべてカバーがかかっているためどんな本かはわからないが、大抵はミステリーだったはずだ。
おじいちゃんは酸味の強いコーヒーが好きだ。
これは両親が経営していた時から変わらない。
両親の時はモーニングタイムも開けていた。
朝7時〜9時までがモーニングタイム。
私はここで朝食を食べ、常連のおじさまたちに「いってらっしゃい」と言われたものだ。
その頃のおじいちゃんはまだ会社員。
朝、新聞と一緒にここでコーヒーを飲んでから、会社に向かうのが日課だった。
両親が亡くなってから一度閉めた店だが、戻ってきてくれたのはおじいちゃんぐらいだろうか。
近所というのもあるけれど、他にもモーニングをしている喫茶店は山ほどあるのに帰ってきてくれたおじいちゃん。
母がコーヒーの担当だった。
似たように淹れられているか聞いたことはないが、まだ聞くのは怖い気がする。
雨の日は、思い出が落ちてくる。
忘れた苦い思い出が、ぽつりぽつりと降ってくるのだ。
両親の笑顔が、ぽつりぽつり、降ってくる____
「コーヒー、入ったよ」
両親の顔を振り払うように声を出した。
思ったより声が大きくなる。
少し驚きながらおじいちゃんは、「ありがとう」一口すすった。
「うん、美味しいな」
コーヒーの湯気と同じぐらい、柔らかい笑顔が浮かぶ。
自分でオープンした時も、こんな顔で飲んでくれたっけ___
「なんか懐かしくなっちゃう」
莉子がこぼすと、
「そうだね。
よくこうやってJAZZを聞きながらコーヒー飲んで、
本を読んで、マスターと雑談して……
もう、莉子ちゃんだけで始めて結構経つよね」
「あっという間だね」
「莉子ちゃんがあっという間だったら、
俺は瞬き一つってところかね」
二人で笑い合ったとき、不意に本から顔を上げて、
「莉子ちゃん、できたらでいいんだけど、
ナポリタンなんて、お昼に頼めるかな?」
___ナポリタン。
父の得意料理だった。
いや、あの頃の喫茶店といったらナポリタンと言っていいほどだ。
父のナポリタンはナポリタン用のパスタとケチャップソースが特別に用意されていて、黒い鉄のフライパンで焼き焦がしてあおることで、独特の風味が出されていた。
何度か再現しようとしたが、技術もさることながらレシピがわからず断念したのだった___
「できるけど、父と同じにはならないかな……」
「構わないよ。
莉子ちゃんのナポリタンが食べたいんだ」
「わかったよ」
おじいちゃんは一つ肩をさすり、本の続きに目を走らせた。
今日は嫌に冷え込んでいる。
「ね、おじいちゃん、ナポリタンできるまで、ホットワイン飲んで待っててくれない?
私も飲もうと思って」
いいね。そう声が聞こえたので、まずはナポリタンの準備を兼ねて大鍋にお湯を沸かし始める。
その隣に小鍋を置いた。
そこに昨日残った赤ワインを700ccほど注ぎ入れ、グローブは7粒ほど、カルダモンは粉なので3振りほど、スティックシナモンを1本浮かべる。隠し味に100%オレンジジュースを50ccと皮を外したオレンジを輪切りで4枚入れて、弱火にかける。じっくりじっくり温めていくのがコツだ。
ふつふつと泡が立つ度にワインの香りとスパイシーな香りが鼻をくすぐっていく。
注ぐカップの下にオレンジジャムをひとさじ落とし、蜂蜜もひとさじ。
10分は過ぎただろうか。カップに注ぎ入れて、小さなスプーンを添えて差し出した。
「よく混ぜて飲んでね。
甘めなの大丈夫だもんね?」
しおりを挟み閉じてから、ホットワインのカップを持ち、ゆっくりと香りを嗅いだ。
パッと顔に花が咲いていく。
「一度、オーナーに作ってもらった記憶があるよ。
懐かしいな……
こんな寒い日だった」
「これ、母の得意料理?
じゃない、ドリンクか。
私も風邪ひきそうな時、よく飲まされたんだ」
二人で、懐かしいね。そんな声が上がる。
懐かしいのだ。
懐かしい、というのは、過去だということ。
雨の日は思い出が重い気がする。
莉子は大きく息を吐くと、料理に気持ちを入れ替えた。
大鍋にパスタを放り込み、隣でフライパンにケチャップを入れる。
このケチャップを『これでもか!』といじめ抜くと美味しくなるのだ。
お玉一杯分のケチャップが半分ほど煮詰まったところでパスタが茹で上がった。
茹で汁を別ボウルに取っておいてから、パスタをザルに取り、オリーブ油をかけておく。
ケチャップをそのままおいて、玉ねぎをスライス、薄切りベーコンは5mm幅、ピーマンは細切りに。人参は嫌いだから入れないでおこう。
赤色が深い色味に変化したケチャップの中に、切った食材を投入していく。
玉ねぎに火が通ってきたところで、塩胡椒とコンソメを少々、隠し味に中濃ソースをスプーン1杯と蜂蜜を1杯垂らしてさらに煮詰める。
しっかり食材に火が通ったところで、先ほどのパスタだ。
茹で上がり少し時間が経ったことでふやけてしまっているが、それがいい。
味が馴染みやすくなる、気がするのだ。
気がするだけかもしれないけど。
おしゃれではない、昔風ナポリタン。
少しでも父に近づけたら___
ナポリタンをあおっていく。
若干固く感じた時は茹で汁をほんの少し足して麺の加減を見る。
そして最後の隠し味に醤油をひと垂らし。
味をみてみた。
「うま……」
裏の厨房で少し大きく声が出てしまう。
それを皿に盛り付け、
「おじいちゃん、できたよぅ」
声をかけると、「おーう」返ってきた。
トレイにサラダとナポリタン、スープにタバスコと粉チーズを乗せると、本の隣に滑らせる。
「おお、いい香りだ!」
すぐに本を閉じ、スープを一口すすると、パスタへと箸が向かっていく。
一口すすり、また一口。
噛みしめるほどに、顔がほころんでいく。
「莉子ちゃん、
お父さんのパスタが、ちょっぴり顔を出してくるよ」
思わず笑ってしまう。
ちょっぴり顔が出てくるとは。
まだまだかぁ……
ちょっぴり肩が落ちてしまう。
「やっぱり、マスターとオーナーの娘さんだね」
思わず振り返ったが、おじいちゃんはにやけた顔でナポリタンを啜っている。
美味しいならいっか___
残りのホットワインを飲み干した時、時計がピッと鳴る。
「もう12時か」頬張ったまま時計を見やり、
「もうすぐ、あいつら来るんじゃないのか?」
あいつらとは連藤を始めとする4名のことである。
「今日は雨だから来ないんじゃないかな?」
食後に飲むであろうコーヒーの準備に取り掛かったとき、嫌にアグレッシブな運転さばきで駐車場の止まった高級車がある。
二人で目が点になるが、こういう輩は店には入れてはいけない。
いくら、おじいちゃんの貸切であろうと__!
「めっちゃ雨ひでぇ! 巧、早く入ってってば」
「うっせぇな」
ドアと一緒に入ってきたのは、瑞樹と巧である。
少し遅れて傘を差しながら連藤のサポートをしつつ、三井もドアをくぐってくる。
呆気にとられながら、4人を見つめていると、
「莉子、奥の席使うぞ」慣れた動きで連藤を連れて行くが、
「運転してたの、あんた?」莉子が低めの声で言うと、
「そうだけど、なんだ、文句あんのか?」三井も凄んでくる。
真下に見下ろされるが、莉子も引かない。
莉子の背は三井の胸板に届くかぐらいだろうか。
そこから垂直に顔を上げ、睨みつけた。
「あんな危ない運転の仕方しないでくれる?
ここ壊れたらどーすんのよ!」
「いいじゃねぇか。
じいさんとお前だけだろが!」
「よくないね!
どこのDQNが来たかと身構えたんだぞ、こっちは!」
連藤が二人の間を割ると、
「莉子さん、席まで案内してくれるか?」
そっと手を掴んで、優しく見つめてくる。
___反則ですよ!!!
これはとても苦手なシチュエーションだ。
微笑みを浮かべて見つめられると、まともに顔が見れなくなるのだ。
莉子は小さくうんとだけ言い、もじもじと席へ案内していく。
苛立つ三井に連藤はまぁまぁと言いたげな表情だ。
連藤の隣に三井が腰かけたとき、若手二人はカウンターで騒いでいる。
「これ、めっちゃウマそー!」
見つかった___
「これ、ナポリタンじゃね?」巧が言うと、
「ここのナポリタンはうまいぞぉ」
その声に瑞樹が押された。
「したらおれ、ナポリタン!」
「じゃ、オレもナポリタンー」巧が続く。
「したら私もナポリタンにしようか。
それは食べたことがないメニューだ」
「裏メニューって奴か?
したら俺もそれにするわ」
連藤と三井も奥のテーブルから声を上げた。
「わーったから!
時間かかるからね!」
そういうが何故か笑いがこみ上げてしまう。
昼時の両親のカフェもこうだった。
ナポリタン、この5文字は飽きるほど聞いたものだ。
「常連が変わっても、
変わらないこともあるな」
おしゃれなカフェになってもスープを音を立てて飲むおじいちゃんも変わらないと、莉子は思う。
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