《第5話》悩みはまだ、手元に残り
「なぁ、三井、」
熱いコーヒーに入れ替えてはみたが、手の中で湯気が上がり続けている。
今日は仕事をする気がないようだ。
「なんだぁ?」
三井もコーヒーを継ぎ足しながら振り返った。
「なぁ、嬉しくない特別な日ってあるのかな」
意味がわからない。
連藤のデスクに腰を寄せると、ふぃとコーヒーを吹き、口をつける。
「珍しく主語が抜けてるぞ。
どういうことだ?」
連藤を見下ろすが、彼は遠くを眺めたままだ。
目が見えないからではない。
いつもであれば、声のする方に視線を結んでいる。
目が見えない分、聞いているぞというアピールをそれで表現している。
が、彼は、天井に視界を置いている。
何かを思い出しているのだろうか__
「昨日、彼女とワインを飲んだんだ。
結構いいものだったから、高いんだろ、と聞いたんだが。
そしたら彼女が、今日は特別な日だからと。
誕生日かと尋ねたら、違うという。
声音から見て、嬉しい日ではなかったんだ。
だが、何かの日でいいお酒を飲みたかった。
どういう意味だと思う」
訊ねているのか、考えているのか、目に表情がない分、彼の雰囲気で判断するしかない。
思いつめているのだけはわかる。
「さぁな。なんだろうな。
辛い記憶の日だから、うまい酒でごまかしたいのか、
あとは思い出の酒だったのか」
「思い出の酒か……」
確かにあのワインは年代ものだった。
自分の目が見えないのが悔やまれる。
せめてエチケットがわかればまた違うのかもしれない。
いや、なんにせよ、何かの記憶に寄り添う酒だったことには違いない。
何故、自分がそこにいたのだろう。
自分だったのだろう。
「誘ってよかったのかな……」
またコーヒーが冷めてしまった。
冷めたコーヒーが手元にあるのは彼だけではない。
「誘われてよかったのかな……」
莉子の手元のコーヒーもまた、冷めきっていた。
こんなに悩むくらいなら断ればいいのかもしれない。
こんなに悩むことも久しぶりな気がする。
お客が少ないからか___
忙しければ悩む時間もないだろう。
だが、
「こんな日もあるか!」
無心にガス台を磨いてみたが思いの外捗ったし、良しとしよう。
こういう時は掃除に限るのだ。
夢中で何かをする時間は大切であり、何よりも、結果、綺麗になる!
何て素晴らしいことだろう!
が、
一つため息が落ちる。
きっと友達にこの悩みを言ったら、
『あんた、バカァ?』アスカ並みに罵倒されるだろう。
あんなイケメンに誘われといて、行かないのなんてありえない!
そう言うに違いない。
スリムな彼は180㎝は超えているだろうか。
切れ長の目に、薄い色が入った眼鏡が年齢より落ち着きと貫禄、さらに厳しさも見せるが、何より、料理を頬張ったときの驚いた表情と、美味しそうに微笑む彼の顔は、本当に素敵なのだ。
あの料理を置いた時の彼の表情!
これは私だけの特権ではあるが、香りが届いて、さらに料理の熱が頬を掠る。
今まで無表情より険しいとうほうが的確な気がする。
それほどに固く結ばれた表情が、湯気で一気にほぐれるのだ。
木漏れ日に身体を預け、ゆったりとワインを楽しむような、そんな光景が浮かび上がってくる。
だから、彼が食事をする光景は誰にも見せたくないので、奥の席に背を向けて座るように仕向けている。
それでもちらりと覗く横顔や身なりのよさ、仕草のスマートさに見惚れる女性は少なくない。
いつか友人に話したっけ。
手を持って、皿と料理の場所を教えてあげるんだ、と。
『なにそのセクハラ!!
私に替わりなさいよ!』
怒鳴られたなぁ__
少し視線が遠くなる。
一度友人が来店した時に、彼も来店していて彼女の琴線に触れたらしい。
いや、女性なら、どれかの琴線には触れるんじゃないだろうか。
だいたい三井も漢らしい雰囲気で女性慣れしてそうな物腰と気遣いがあり、華麗なエスコートを期待できるだろう。
そんな二人で来ている時など、女性客の目の色が変わるのがわかる。
どうにかお近づきになりたいそうだ。
実際、どこで働いてるのか、名前はなんていうのか、
そんなこと、しょっちゅう聞かれている。
そしてそんな彼らと楽しく会話できているのも羨ましいらしい。
たまに嫌味も聞こえてくるがそんな人は来なければいい。
__でも、お客が減るのは困るんだよね!
あの4人組だけ、料理の単価、あげようかな。
だけど、
そんな人に、「食事に行かないか」なんて言われたんだもの。
行かなきゃ損するよ、損!
私の悪魔か天使かわからない分身が言ってくる。
もし断ろうか、なんて友人に言ったら、私が替わりに行くとかいってきかないだろうし……
って、何が怖いって、
急に目が見えるようになって、
『なんだこのブサイク!』
って言われたら、どうしたらいいんだろう___
そんなこと、ありえないって巧くんは言っていたけど、奇跡は急に起こるから、奇跡という。
私は、そんな悲劇の奇跡を信じる。
何故なら、私の悲劇の奇跡は起こったから___
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