忘却

 記憶力には自信があった…でも、最近は何も覚えられない。

 何も覚えていない…。

 眠っているのかも、よく解らない。


 様々な事柄に興味を持てなくなっている。

 人の名前、顔、色々な記憶が、スーッと透ける様に消えていくような感覚。


 人間は誰しも過去を忘れていく、あるいは都合よく書き換えていくそうだ。

 でも、誰しも、その経過において自覚はないはずだ。

 私が感じているのは、その消えていく感覚の過程を感じられるような不思議な、まどろみ。

 少しづつ…ゆっくりと、でも確実に失われていく不安、よどんだ沼に沈み込むような。


 忘れていくというより、失われていく感覚を止められない虚無感、残るのは喪失感だけ…。

 それも、何を失ったのか解らない不安感。

 でも、確実に何かが失われているという確信は残っている。


 それが恐ろしく、そして悲しい。


 ホームから乗り込んだ男、明らかに堅気ではないと解る風貌、なにより独特の空気を放つ男。

 関わりたくはないタイプの人種。

 なにより、今までと違い、話しかけてこない。

 自分以外の他に誰もいないかのような感じだ。

 きっと解っているのだ。

 自分に近寄ってくる人間などいないことを。

 近寄ってくるのは、自分に仇なすということも…。

 毒ヘビが、あからさまにケバケバしい色彩を、その身に纏うように、この種の人間はそうした雰囲気を身に付けていく。

 ある意味では、彼らの優しさ。

 それは優しさが進化した証。

 臆病だから『毒』を持ち…優しいから『奇』を纏う…それは悲しい優しさ。


 痛いほどの優しさ…。


 傷つけたくないから、傍に来ないで…。

 傷つきたくないから、関わらないで…。


 この男からは、そんな印象を受ける。

 30手前だろうか…見た目は、まだ若そうだが、目だけは老獪な老人のように、人を品定めするように…値踏みするように…見ている。


 毒ヘビのような男。

 きっと嫌われている男。

 でも…便利な男。


 きっと誰かの懐刀ふところがたな、いや…そんな大切にされていない。

 カッターの刃、程度か…。

 折れたら替えがきく、斬れているうちは便利だ、斬れなくなればパキッと折られる。

 摩耗し、その身をすり減らし…取り換えられる。


 それを自分で解っている。


 だから、誰にも心を開かない。

 だから、誰も愛さない…。

 いや愛すればこそ、遠ざける。

 それが、唯一の愛情表現。


 悲しい男。

 寂しい男。

 きっと、本当は…もっと普通に、皆と話して笑って、それをやるには遅すぎて…必要なのは、そんな自分じゃないと理解してるから。

 嫌われて…妬まれて…蔑まされて…でもおそれられて。


 孤立して…孤独で…寂しくて…強がって…嫌われて…妬まれて…蔑まされて…でも…でも…。

 エンドレスループ…断ち切る術は?

 簡単だ。

 輪から外れればいい。

 組織から…社会から…外れてしまえば、孤独なだけ。


「泣くほどツラかったなら…なんで演じきったんだオマエ?」


 涙で歪んだ視界。

 私は泣いていた…。

 男は私の胸ぐらを左手で掴んだままで私に凄む。


「僕だ…」


 電車が停車した。

 ドアの向こうのホームに、皆が立って僕を見ている。

 小学生の僕…中学生の僕…高校生の僕…社会に出た僕…。

 男がホームへ歩いて行く。

「俺はもう…手遅れだ…どこかで、変われていたら…お前にはならなかったんだろうな…」

 閉まるドアに遮られて、車内に独り取り残される私。

 床に両手をついて、声を出していた…。


 もう止まれないんだ…。

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