哀感

 その電車には誰も乗っていなかった。

 見覚えのない街を走る電車の中は私以外の人の気配を感じない。

 しばらく窓に流れる街並みを眺め、コトトンコトーン…コトトンコトーンという電車独特のリズムに心も体も預け、まどろむ。

 速度が落ちて、寂れた無人駅に停車すると、プシューとドアが開き、10歳くらいの小学生がランドセルを背負って乗り込む。

 駅の名前は『哀感あいかん

 小学生は私の正面に座ると、ランドセルを自分の膝の上に置き直し、アルミのペンケースを取り出した。

 随分と、ひしゃげて、マジックで落書きされている。

 あきらかにイジメにあっている…それは、そのペンケースを見ただけで解る。


「これね…クラスの奴にやられたんだ…家に帰って、シンナーで拭かないと…落ちるかな?」

 顔は下を向いたままだが、私に話かけているようだ。

 私の返事など待たずに小学生は話し続ける。

「このペンケース…流行ってるんだ、だからお母さんが買ってきてしまったんだ…僕は…これを持ってはいけないんだなんて知らないから…」

「こういうのを持っていいのは、クラスでもアイツラだけさ…僕は持ってちゃいけないんだ…だから隠してたのに…バレちゃって…だから、こうされても仕方ないんだ…」

「でも…お母さんにバレないようにしなきゃ…悲しむからね…でも…直るかな?」


 小学生が手にしているペンケース…グチャグチャに曲げられていた。


「黙って見ているしかできないんだ…アイツラが飽きるまで…ただずっと…ずっと…」

(イジメってやつか…)


「なんで…だろう…小学校に入って5年間で、なんでこうなったんだろう…」

「僕は勉強もできないし…足も遅い…ピアノも弾けないし…家は貧乏だし…」

「だからイジメられるんだ、学年が上がる度に、少しずつ…ひとつずつ…皆にバレていく度に…僕が悪いんだね、何も出来ないから…何も無いから…」


「走り高跳び! クラスで2番目に高く飛べたんだ! もうイジメられないって思ったよ…でもさ、遅かったんだ…もう…体操服に絵の具で書かれたんだ…2番…脳みそが少なくて軽いから飛べるんだって言われた…もう人前では飛ばないよ…誰も望んでないんだ…僕が飛ぶことなんてさ」


 この子の気持ちが解る。


 私もそうだから…たまたま取り組まされた仕事で成果が上がった。

 それは偶然だったんだ。

 たまたま上手く転がっただけ…だけど、それまで他人に褒められて事が無い私が、表彰されて浮かれた…そして嫌われた。

 誰も認めてくれないんだ。

 私じゃなかったんだ…私がやっちゃいけなかったんだ。


 私は、小学生の隣に移動した。

 ペンケースにそっと手を伸ばして、ペンケースに触れ、指先でひしゃげた凹凸をなぞる。

 アルミの冷たい感触、私は自分の過去に触れたような気がした。


 華奢な体つき、喧嘩なんてしたこともないのだろう。

 きっと、誰かに叩かれても平気なフリして笑っていることしかできない。

 そんな子供。


「かっこよくしといてやった…そう言われたんだ…皆、笑ってた…だからかな、僕、ありがとうって言ったんだ…なんでだろう…悔しいのに…悲しいのに…ありがとうって言ったんだ」


 私は、小学生に話しかけた。

「なんで…怒らないんだ?嫌なんだろ?止めてほしいんだろ?怖いのか?」

 小学生は、しばらく黙っていたが、

「なんで?ありがとうなんて言ったの?」

 私の顔を見て涙を溜めてそう聞いてきた。

「えっ?」


 コトトンコトーン…コトトンコトーン…電車の揺れだけが空間を支配する。

 ほどなく、電車は停車して小学生は降りて行った。

 代わりに中学生が乗ってきた。

 真面目そうだが、顔に締まりがなくヘラヘラと笑っている小柄な中学生。


 停車した駅の名前は『虚偽』

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