決戦に備えて

 時間だけが費やされ、何も収穫が無かった、那須村での書き込みは、夕方で一旦終わりとする事にした。

 というよりも、その時間帯になると、陽炎達の噂が村中に広まり、話しかけても無視される事が増えたからである。


「結局、犬神様という名前くらいしか得れなかった」

 那須村から少し離れた町にある旅館に、陽炎達はいた。村の中にも宿泊所は有るのだが、陽炎は、仮に今夜襲われた場合、今後村で活動しにくくなると思っていた。

 いや、もう既に大分活動はし難くなっているのだが、これ以上し難くしてどうしようとゆうのだ。仮に知恵を借りれるとすれば、現在の陽炎には、アリス以外には村民しか居ないのが現状である。


 いや、もう一人いる。

「煌さん、犬神様の話を詳しく聞かせて貰えませんか?」

 しかし、煌は首を振る。

「そうしたいのは、山々なのですが、実は私自身あまり知らないのです。私と万作の関心は主に祭り自体に有りましたから。もう少し詳しく言えば、あの島で何が行われているか、なのですけれど。従って、村で話した以上のことはどうしても……」


 煌の言葉に陽炎は短く息を吐く。彼はそれが煌に負の感情を持った様に聞こえられない様に注意しなければいけなかった。


 彼らは部屋へと移動したが、直ぐにロビーへと戻って来ていた。既に彼らは犬神様の攻撃目標と化しているので、この様に第三者の目のある所にいないと、何時又襲われるか分からない。

「明日は、犬神島へと行きます」

「だ、大丈夫なんですか?」

 煌の言葉に陽炎は頷く。

「少なくとも、こういうのは根元から断たないといけませんから。あの洞窟へと行くのは、この現象を終わらせるには必要なのでしょう」


 現時点では、洞窟に行ったとしても、出来ることなどあまり無いであろう。それでも、其処に呪術的なことが成された痕跡さえあれば、大きく進展する。陽炎はそう考えていた。


「はぁ、分かりました」

 煌はそう言い、首肯した。


 陽炎は、煌に大浴場に入ることを進め、彼の言葉通りに煌が大浴場に入っている間に、一旦部屋へと戻った。

「さて、今のうちに準備をしておくか……」

 陽炎は、外套のポケットから、中に黒い液体の入っている試験管の様な物を取り出し、その中身を部屋の四隅に一滴づつ落とし、部屋の中央へと戻る。そして手帳を取り出し、パラパラと頁を捲り、何やら唱え出した。


 目立った変化は見受けられないが、何やら空気が変わったような気配はあった。実はこの呪術は、四隅に黒山羊の血と、ある種のハーブ、それに葡萄の果実液を混ぜたものを撒き、呪文を唱えることで、その範囲から外に、その範囲内の匂いを出さなくする呪文である。


 陽炎は更に、低級な怪異を防ぐ呪術を施す。

 再び、外套から別の試験管-今度はとある怪物クリーチャーの血と毒草を混ぜたものである-をこれまた四隅に撒き、呪文を唱える。

 これは、陣形内に低級な怪物が入るのを防ぐ効果を持っている。

 犬人間を低級な怪物呼ばわりするのは微妙な所ではあるが-仮にも土着神の一柱である-本当に、神格を持っているなら、あの程度の攻撃で逃げ切れる筈がなかった。故に陽炎は、アレが充分に対抗可能なものであると判断している。


 結界を張り終えた後に時刻を管理すると、一九時であった。陽炎は、懐から電話を取り出すと、共に暮らしている妹に電話をかけた。

「凪。今日は帰らないからそのつもりで」

 凪というのは、陽炎の妹の名前である。

『また!もうご飯作っちゃったよ?』

「悪い」

 こういう時の凪は、反論をすれば長いので、簡潔に謝るのが最も良いというのは、陽炎も経験則で分かっている。

 しかし、そこは血の繋がった兄妹。凪も兄が何を思っているか分かっている。

『今世間はノー残業が流行っているらしいんだけど?そこら辺はどーなのですか?』

「残念ながら俺は世間とやらに疎いからな。それに何だよノー残業って。何も全部カタカナにすれば良いってわけじゃないんだよ。普通に残業削減と言や良い」

『お兄さんって本当そういう所あるよね』

「どういう所だ?」

『話をはぐらかそうとする所!明日はどうなの?』

 陽炎は帰れる可能性も高い、もし帰れない場合はまた電話する、と発言した。

『むう。じゃ、明日も未定か……彼女でも作った?』

「ないない」

 じゃ、明日は絶対に帰って来ること。食材が勿体無い。その言葉を最後に電話は切れた。


 陽炎の両親は数年前の、とある事件で亡くなっており、今は凪と二人暮らしである。


 陽炎はその後に、一階のロビーへと降りて行った。

「あ、敷島さんどこ行ってたんですか?」

「部屋に、結界を張ってきました。これで一先ずは安心出来るはずです。取り敢えず、食事に行きましょう。腹が減ってはなんとやらです」


 煌は、陽炎が余りにもスラスラと言ったので、彼の言葉を理解するのに、数秒費やし、その後に驚嘆の声を上げた。

「えっ、結界。今の間に?とすれば、私一人で温泉気分を味わって、悪いですね」

「いえ、仕事ですから」

 陽炎はそう答えた。


「すると、あの化け物は匂いを頼りに追いかけて来る、というわけですか」

 滋賀県といえば焼き鳥であろうということで、陽炎と煌はホテル近くの居酒屋に夕食を求めに行っていた。

「まあ、その可能性は高いですね。貴方の話を聞く限りは、あの犬人間を目撃しただけのようですから、そうすると呪いをかける暇は無いのです。そうすると、匂いでつけてきている可能性は高いのです」

 ふむ、と煌は頷く。

 二人の前には焼き鳥が十本並んでいる。しかし、二人が飲んでいるのは酒ではなかった。陽炎は、明日も車の運転をするために、酒は飲まない。いや、彼は実際にあまり酒が好きでは無いのだが。煌もそんな陽炎に付き合ってか酒を飲んでいない。両者共にソフトドリンクである。


「では、これで一先ずは襲われないのですか」

「ええ、一先ずは。しかし、こんなものは、其の場凌ぎでしかないです。なので、今夜ぐっすり眠れるくらいしか、利点はありません。だから、明日にはケリをつけたいのです」

 陽炎は、そう言い、焼き鳥を口に運ぶ。ネギと、タレの香りが混ざり合い、それがタレの染み込んだ鶏肉を更に美味しくしている。


 結局二人は焼き鳥を五十本ほど食べ-真面な昼食を取っていなかったことも原因である-店を後にした。

「ふう、しかし美味しかった」

 煌は、満腹感からか息を吐きながらそう呟いた。陽炎も、頷きながら、言う。

「あの自家製のタレが良かったですね。鶏肉と非常に合っていた」

「それに焼き加減も良い。あの少し焦げ目がついてるのが美味しかった」

 彼らはうなずき合い乍ら、ホテルへと向かった。


 旅館の大浴場は、その名の通り広かったが、人の多さがそれを打ち消していた。夕食後のこの時間帯。一番人が集まる時である。陽炎は、脱衣所は幸い鍵のついた服入れがあると聞き、それならば、と入ってみることにした。

 もし偶然、彼の外套の中身が衆目に晒されれば、警察が来ること間違いない。そのため、鍵のついたものが必要なのである。


 しかし、陽炎はその外套の中身を晒すまでも及ばず、周囲の視線を集めていた。背中の大きな傷である。

「いや、昔事故でやってしまいましたね」

 陽炎は煌の視線に気付いたように、そう言った。しかし、それが嘘であろうことは、現在戦っている犬人間のような化け物との戦闘の際の傷であることは、煌には想像に難くなかった。


 風呂から出た二人は、自分の部屋へと戻っていった。陽炎は、意識を意識的に明日の戦闘から外していた。彼は戦士にとって休息が或いは戦闘以上に重要であることを知っていた。

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