いざ、那須村へ

 陽炎と煌は走って階段を駆け下りると、即座に駐車場に出て、車に乗り込んだ。陽炎は煌が乗り込んだのを確認すると、即座に車を発進させる。それと同時に此れまで使わなかった車内音楽再生機カーステレオ古典音楽クラシックを流す。煌の精神の安定を図ってのことであった。


「一体何が起こったのですか?窓が割れたりする音は聞こえませんでしたが」

 陽炎は煌が落ち着くのを見計らい、出来る限り優しい口調になることを意識して、問いかけた。

「それが、私にも分からないのです。居間に繋がるドアが開いたかと思うと、ヤツが突然入り込んで来まして」

 陽炎は、極めて平坦にそうですか、と相槌を打つ。この様な現象に巻き込まれた事のない一般人なら、当たり前の反応であるから、陽炎に失望は無い。


 しかし、となると敵がどの様にアパートに侵入して来たかが問題となる。

 陽炎が咄嗟に思い付く限りでは三つの仮説が上げられる。

 一つ目は、予め窓が開いていたというもの。玄関の鍵も何故か開いていたので、これには一定の信憑性が有る。

 二つ目は、あの狼人間が物質と非物質とに自由に行き来出来るということ。これは陽炎の銃撃が効いたことから、一先ずは否定出来る。

 三つ目は、煌にかけられた何らかの呪いである、ということ。煌からの話-あの化け物に襲われる原因であろう出来事-を聞く限り、それも可能性は低い。


 陽炎は其処まで考えて、しかし、あの狼人間は其処まで知能は高そうに無かったのだが、と反復する。

 となると、誰か協力者がいるのか?あの狼人間には。するとそれは誰だろうか……万作初か、那須村の村民か、或いは知らない人物か……


 とはいえ、窓が開いているか確かめに、煌の部屋に再度戻るのは危険である。彼処には逃げ道が無い。拳銃とはいえ、銃弾があまり効かない相手にその様な所へ戻るのは、愚行であろう。


「一先ずは、その、那須村へと行こうかと思います。何か手がかりがあるかもしれません」

 陽炎の提案に煌は頷いた。


「それと、あの狼人間の事ですが……」

「狼人間?」

 陽炎が、話し出そうとすると、煌はそれは何だ、と聞いてきた。

「あの化け物の事ですよ」

 そう、陽炎が説明すると、ああ、と煌は納得した様な声を上げた。

「しかし、あれは狼なのですか?どうも犬の様に見えるのですが。狼ならもう少し体毛が有るでしょう」

 だが、そう反論する。陽炎も考えてみると、犬の様な気もしないでもない。

「それに、日本に狼はいないでしょう」

 煌が駄目押しとばかりにそう言う。だが、今度は陽炎が反論する番であった。

「いえ、日本にも明治初頭にまで狼はいました。それを考えると、あれが狼である可能性は捨て切れない」

「しかし、絶滅してしまってます」

「まぁ、実際は両者とも違うのでしょうからね。狼人間でも、犬人間でも何方でも良い。私が言いたいのはですね、あれが再度現れた時の対処法です」

「と、言いますと?」

「その時、私がいれば、どうにか出来ますが、私がいない時。その時は、するべき事が二つあります。一つは大声で私を呼んでください。即座に駆けつけます。次に、何でも良いから手元にある物をあれに向かって投げてください。そうすれば、少しだけ時間を稼げます」

「分かりました」

 陽炎の言葉に煌は素直に頷いたのであった。彼には、アパートでの戦闘で、陽炎に対する信頼が芽生えていた。


 陽炎は途中で見つけたガソリンスタンドで給油を頼む。そして、車を出ようとする。

「何処に行くのですか?」

 煌は陽炎を引き止める。

「少し手洗いと、其処の店に食料を買いに」

「しかし、もしヤツが現れたら」

 縋るような声の煌に、陽炎はゆっくりと首を振る。

「大丈夫です。奴は無関係の人に見られるのを嫌がります。ここなら、店員の目もありますし、大丈夫です」

「しかし、私の部屋では、貴方にも襲いかかった」

「あれは私が目撃したからでしょう。しかし、そういう事態でなければ大丈夫です」

 陽炎は重ねて言うことで、煌を説得しようとする。煌も、諦めたのか、陽炎の言葉に頷いた。


「ああ、四日前、滋賀県の那須村で行われた祭り、及びそれで犬神島で何をやっているか調べてくれ」

『さっき言いかけたのは、それね。で、どうするの?これから』

 陽炎は外に出ると、再びアリスと連絡を取っていた。

「うん。那須村へと行こうかと思う」

『それじゃあ、私が調べなくても良いんじゃないの?』

 本当にこの人は、こういう時意地悪な言い方をするな、と陽炎は苦笑する。

「どうせ、俺が行っても大した収穫はないだろうしな。所詮は現場検証だけだよ」

『了解。でも、私も忙しいんだから』

「ああ、分かってる」

 陽炎は口だけでそう言い、電話を切る。


 しかし、アリスの言葉を何処まで本気で受け取ったものか、陽炎は彼女と話す度にそう思う。

 陽炎はアリスの生活を殆ど知らない。彼女はいつでも飄々として、実体を掴ませない人であった。陽炎と、最初に会った時からそうである。


 陽炎が車の元へと戻った時には、既に給油は終わっていた。しかし、平日の昼間ということもあり、陽炎の車の他には一台しかおらず、直ぐに退ける必要は無さそうであった。


 高速を使い、滋賀県へと向かう。

「そうだ、宝条さん。那須村に着いたら、私が話を進めますから、私が何を言ったとしてもそれを否定はしないでください」

 高速道路で、ふと陽炎がそう言った。煌は了承したが、陽炎には何か作戦が有るようであった。

 滋賀県には二時間程で到着し、続いて那須村へと向かう。


 那須村は正に寂れた漁村という表現が当てはまる所であった。こういう場所特有の何処かどんよりした空気と、海から漂う潮の香が混ざり合い、ともすれば陰鬱な気分になり兼ねない村である。

「これでも、四日前は活気が有ったのですけどね」

 煌はそう言うが、陽炎にはその姿は想像できなかった。


「おお、何時かの旅人さんじゃないか。どうしてまた此処に?」

 そう、二人に声をかけてきたのは五十程の、恰幅の良い、やや小柄な男性であった。

「えぇ、実は少し用事が有って」

 男性の言葉に答えたのは、陽炎であった。

「用事?そういえば、あんたは見かけない顔だな。もう一人の人はどうしたんだい?」

 男性は訝しげに陽炎に尋ねる。

「えぇ、実はその人の事なんですよ。用事というのは」

「何?」

 陽炎が、そう答えると、男性の顔は益々険しくなっていった。


「いえ、というのも、その人、万作さんというのですが、実は行方不明になってしまっていましね。私は宝条さんの友人なのですが、そういう訳で、万作さんを捜すのを手伝っているのです」

 陽炎が其処まで言った時であった。男性の顔が奇妙に歪んだのであった。恐れ、不信、哀れみ、それらの感情が混ざり合った表情を陽炎は見た。

 そして男性が思わずポツリと呟いたのを聞いた。「犬神様か……?」と。


 男性は直ぐ様自分の失言に気付いた様だが、陽炎が聞いた様子が無いのを見て、安堵の表情を浮かべた。

「……それで、何か知っていますか?」

 陽炎の質問に男性は頭を振った。


 陽炎は「すまねぇな、力になれんで」と言いながら去って行く男性を見送った後で、賺さず煌に聞く。

「犬神様とは何ですか?」

「どうも、この村の土着神の様です。何でも灰色の犬の姿をした神様で、天災や飢饉といった事が起こった時に助けてくれる、と」


「成る程、だから犬と言ったのか……」

「敷島さん?」

「いえ、何でもありません。しかしどうも犬の方が正しい様ですね」

 不思議そうな顔をする煌に、あの化け物ですよ、と伝えると、彼はああ、と頷いたのであった。

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