狼人間の襲撃

 陽炎は外套を羽織り、眼鏡を上げると、扉を開けて、ビルディングの廊下に出る。彼らが今までいたのはビルの店舗の一件であった。事務所用のものであり、店内も、玄関とそれに続いた応接間、後は実際には使っていないが、空き部屋二部屋となっている。然程広く無いが、社員が一人であるこの会社には寧ろ広過ぎるきらいもある。


「探偵社……?」

 陽炎に続いて出た煌はふと、入り口に掲げられた看板を見て呟く。そこには『敷島探偵社』と書かれていた。


「えぇ、流石に化物退治屋とは書けないもので」

 澄ました顔の陽炎に、煌はあぁ、と曖昧に頷く。敷島探偵社は二階にあったので、彼らは階段で一階へと下り、外の駐車場へと向かった。


 入り口から近くの所に止まっている白い四輪駆動車、エクストレイルの前で陽炎は立ち止まる。

「これです。乗ってください」

 煌は頷き、助手席に乗り込む。

「で、何処ですか?その待ち合わせ場所は」

「天王寺駅です」


 バタム、と二人が扉を閉め、陽炎がエンジンを入れる。車体に小気味好い振動が加えられ、エンジンがかかったことを示した。陽炎はアクセルを踏み、車を発進させる。

 そして駐車場を出た辺りから煌に質問を始めた。


「宝条さん、貴方が行った村と島の名前は覚えてますか?」

「えっと、那須なすむらという所です。滋賀県の北にある。島の名前が犬神島いぬがみじまだったかと思います」

 煌は少し考えてから、答えた。


「成る程、では後ほど其方にも向かう必要が有りそうですね」

「それが現状を打開出来る唯一の方法であるなら、仕方ありませんね」

 煌は不承不承といった具合に頷く。彼の現在目下最大の脅威と恐怖の原因となった場所に行くのは辛いだろうが、それも仕方ないことである。彼がそこに行かなければこの様な状況には成らなかったのだろうだから。


「それと、こういうのは先にハッキリとさせておきたいので言っておきます。依頼内容は、貴方の命を狙っている化け物を殺し、貴方の身の安全を守ること。依頼料は六百万で宜しいですか?」

 陽炎の言葉に煌は大きく息を吐く。

「はい」

 一介の勤め人である煌にとって六百万とは無論大きな数字なのだが、彼は背に腹はかえられぬと決心したのだった。


「そういえば、何故この時分にそんな外套なんて着ているのですか?」

 煌はふと疑問に思ったのであろう。陽炎にそう質ねてきた。確かに春先に長い外套なぞ暑苦しいものがある。


「うん?あぁ、仕事着の様なものでしてね、色々と道具が詰まってますので」

「へぇ、お札とかですか?」

「まあ、そんな所ですね」

 陽炎が曖昧に首肯すると、煌もふぅん、と曖昧に答えた。


 車内での会話はある程度順調に進んだ。

 陽炎は煌が拉麺と将棋が好きなのを、そして初とは大学からの知り合いであることを知った。陽炎は煌に中華料理なら炒飯が好きであること、彼の会社の近くにある店に炒飯がそれは美味い拉麺屋があること、将棋やチェスは少し齧ったが、素人の域を出ないことを話した。


 基本依頼人が一見さんである敷島探偵社。陽炎には、依頼人との信頼関係を築き、更には必要以上の情報を与えない事が求められた。

 それは依頼人がもし裏切ったことへの対策である。依頼人が犯人と共謀し、陽炎の命を狙わない、とも限らない。

 陽炎自身もこの様な商売をしているのだから、因縁は多少なりともあるし、彼への取次紛いのことをしているアリスにもそういう事があるからだ。事実陽炎も、アリスに恨みを持つ者に狙われた事がある。


 待ち合わせ場所には、案の定万作初の姿は無かった。此処までの移動時間を合わせると、待ち合せの時刻から三時間も過ぎている。帰ってしまっても不思議は無い、と煌は初の家に向かうことを提案した。陽炎もそれに賛成し、煌の案内で陽炎の家へと向かうことにした。


 初の家は大正駅の近くにある高層マンションの五階の一部屋であった。煌が呼鈴を鳴らすが、反応は無かった。

「どうやら不在の様ですね」

 陽炎の言葉に煌は首肯する。だが、ふと思い出したかの様に言った。

「ひょっとしたら連絡も取れないのを不審に思って、私の家へ行ったのかも知れません」

「じゃ、其方にも行ってみますか……」


 二人は再び天王寺に帰り、寺田町の方へと向かった。幹線道路から、横道に入って少しした所にあるアパートの一室に煌の家は合った。

 煌はズボンのポケットから取り出した鍵で玄関の扉を開けようとしたが、鍵はかかっていなかった。

「不用心ですよ」

「いえ、確かかけた筈なのですが……万作が来たのかも知れません」

 煌はそう言い、部屋に入る。陽炎もそれに続いた。


「誰もいないな……」

 陽炎の言葉に煌は首肯く。

 玄関からは廊下と居間が見えるだけであるが、電気は消されており、人の気配は感じられない。

「この部屋は安さの割には広くて、正面の扉は台所兼居間、左側は手洗いと風呂、右側は寝室へと繋がっております」

 陽炎と煌は取り敢えず全室を見てみたが、何の収穫も無かった。

「では、矢張り万作は昨日殺されたのでしょうか……」

 煌はそう言った。陽炎はそれには答えず、煌に問いかける。

「これから暫く-この問題が解決する迄は-此処に戻ることは出来ないと思います。何か持っていくものが有れば用意する迄待ちますが」

 煌は、では半時間程お待ち下さいと言い、居間へと入って行った。


「という訳だ。アリス、万作初の生存について調べてくれないか?」

 陽炎は煌が準備をしている間に、アリスと電話で連絡を取っていた。

『うん、分かった。生きてたらどうする?』

「今の所は監視だけで良い。でも、もしもの事が有れば、保護してくれ」

 監視とは対照人物を見張ること、保護とは特定の場所に文字通り保護することである。

「要件はそれだけだ。じゃあな」

『あ、ちょっと待って。監視要員はどうするの?』

「あまり強くなくて良い。どうやら今回の敵は人に見られることを嫌う様だからな」

『ん、分かった』

「ああ、それと。もう一つ良いか?」

『要件はあれだけじゃ無かったの?』

 電話の向こうからアリスの意地の悪そうな声が聞こえてくる。

「思い出したんだ」

『ふぅん。で、何』

 その時、陽炎の脳裏に映像が走る。全身を灰色の毛に覆われ、異様に身長の高い、狼人間と形容するのが正しいであろうモノに襲われる煌の姿。

「後でまた連絡する」

 陽炎はそう言い残し、通話を切ると、寝室の扉を開けた。


 果たしてそこには陽炎が通りの光景が広がっていた。陽炎は躊躇せずに外套から拳銃を抜き、狼人間の頭に照準を合わせるが早いか、二発放つ。狼人間が陽炎を視認した時にはもう陽炎の拳銃が火を吹こうか、という所であった。

 それでも狼人間は一発目は交わしたが、二発目が額に当たった。煌の口から思わずおおっ、と声が出る。しかし、狼人間は僅かに仰け反っただけであった。

 狼人間は再び顔を陽炎へと向けた。その目には、憎悪の炎が燃えていたが、陽炎はそれに構わず、再び同じ所へ弾丸を喰らわした。

 だが、今度は怯まず、陽炎の元へと一直線に走り込む。だが、陽炎は動じず、狼人間が攻撃しようと振りかぶった瞬間、銃口を額に押し当て、引き金を引く。さしもの狼人間もこれには堪らず、額から血を吹き出し、よろよろと後退する。


「やったのか?」

 煌が僅かの希望を込める様に尋ねるが、陽炎は首を振る。そして、油断なく、狼人間に銃を向けたまま、煌に言う。

「こっちに来い!逃げるぞ!」

 煌は慌てて頷き、陽炎の元へと近寄る。しかし、煌が数歩進んだ辺りで、狼人間が不意に煌へ向かって踊りかかって来た。


 陽炎はそれを狙い澄ましていたかの様に、発砲。それは狼人間の頭に命中。狼人間は飛びかかっていた最中に銃撃を受けたこともあり、バランスを崩し、煌への攻撃を空振りした。

「まだ生きているのか!」

 煌はそう悪態をつき、部屋から出る。

 続いて、陽炎も、それでもまだ立ち上がろうとしている狼人間に向けて更に発砲して、部屋を出た。それは狼人間の床に突いた手に命中し、それを弾いた。そして、狼人間は再び床に伏せることとなった。

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