第55話 真実の名は

「それで、このあとの予定だけれど」


 ヴェンデッタは、何事もなかったかのように言葉を継いだ。悪意の吐息をラトゥースの耳へと吹き入れる。


「この船を無事バクラントへ送り終えたら、王都ハージュへ向かう。もちろん、あなたにも同行してもらうわ。あの美しい湖に、ありったけの《》を流して、エルシリアの住民を皆殺しにするの」


「そんな……」


 ラトゥースは恐怖の眼をヴェンデッタへと突き刺した。王都ハージュは湖のほとりに築かれた森と水の都だ。故郷エルシリアの中心地でもあり、諸侯を取りまとめる王国の首都でもある。


 もし、毒に汚染された湖水が街に行き渡ってしまったら。

 もし、人々が知らずにその水を口にしてしまったら。


 城も。

 街も。

 故郷の村も。


 ──あのときと同じ、地獄の様相と化してしまう。


 先だって聖堂で見た光景が、脳裏によみがえった。

 すすり泣く声。痙攣し地面を打つ手足。積み上げられた死体から放たれる、鼻を突き刺す異様な臭い。

 次々と運び込まれてくる被害者。それはやがて手がつけられないほどの数となって、ベッドを、床を、地面さえ埋め尽くして。


 ラトゥースは憤りの涙をこらえた。歯を食いしばる。


「……そんなこと、絶対にさせない……!」


 ヴェンデッタは、水笛のように喉をふるわせて笑った。

「勘違いしないで。大罪を犯すのは私じゃない。あなたよ。エルシリア侯姫ラトゥース・ド・クレヴォー。あなたには格別な罪の味を教えてあげる。絶望と自虐の味を、たっぷりとね」


「何が言いたい!」

 問いつめたつもりの声が、不様にふるえる。

「いったい何のために、そんなことを。陛下のお命を狙い、義父上を傷つけたのみならず、罪もない人々まで、なぜ無差別に大量に殺そうとする。目的は何だ。そんなに殺したければ、今、ここで私を殺せばいい。私一人の命で済むなら、好きなだけ持っていけばいいでしょう!」


「取るに足りないわ、そんなもの」

 ヴェンデッタは口元にうっすらと笑みを掃いた。


 先に、大量殺戮の予告を聞いていなければ、柔和にすら見える微笑みだった。内面と反する、壊れた表情。道化の掛け違えたボタンを見るかのようで、ひどくしらじらしく、いたたまれなかった。


「女ひとり娘ひとりの命なんて、しょせん、あなたたちエルシリアの貴族にとってはゴミ同然の存在に過ぎないんでしょ」


 言いながら、指先をゆたかな胸元に差し入れる。

 まとわりつく死の気配にも似た黒い薔薇の刺青が、はだけた胸元から妖艶にのぞいた。

 死人に手向ける葬送の花。


「この耐えがたい血の渇きをいやすには、もしかしたら、世界中の人間を殺してもまだ飽き足りないのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。でもね、やっぱり、どうしても許せないの。あの男が生きていることも、あの男を生かしているこの国も……許せないのよ。だから、ぜんぶ、殺す」


 煙草いれを取り出し、甘い香り漂う一本を抜く。思わせぶりな視線がラトゥースを見下ろした。


「逆に聞くけど、あなたにとって、ハダシュと私は何が違うのかしら? あの男は、命乞いするジェルドリン夫人を平然と殺し、ローエンを殺して逃げた。麻薬におぼれ、酒色に呑まれ、ほんの一時の快楽を買うために何十という命を容赦なく奪ったあげくに、ね」

「違う!」

 ラトゥースは否定した。かぶりを振る。

「ぜんぜん違うわ。もう、違う。ハダシュはもう、誰も殺さない!」


「自分勝手ね」

 ヴェンデッタは煙草の端をナイフで切り落とした。

 ランプに近づけて、火を点ける。

 紫煙が漂った。

 匂いが天井まで立ちのぼる。深い闇の瞳がふいに、ラトゥースの視界を覆い尽くすほど近づいた。


「つまり、好きな男なら、たとえそいつが人殺しであってもゆるすというのね。いかにも偽善者のお貴族さまらしい、おぞましく薄っぺらい、自分たちにだけ都合のいいだこと。吐き気がするわ」


 ふっ、と。

 煙草の煙が吹きかけられた。油断して吸い込んでしまう。一瞬、眩暈がした。咳き込む。

 ラトゥースは身体をよじった。鎖の音が悲鳴のように鳴り渡った。


 この煙を吸い込んではいけない……


 不意打ちのように、唇に固い瓶が押し当てられた。

 ぞっとするほど甘く、ねっとりと熱い味が喉に流れ込んだ。舌にからみつく。

「っ……ぁ……!」

「良い子ね。じっとしていて」

 そのまま強引にキスで口をふさがれる。逃げられない。

 もつれる甘い舌を重ね合わせるようにして、さらに深く、煙が吹き込まれる。

「ぅ……んん……ふ……!」


 視界が、斜めにかすんだ。咳き込み、吐き出そうとする。

 いったい何を飲まされたのか。甘い、にがい、嘘の味に、ふと意識が遠ざかる。

 次の瞬間。

 本能が、けたたましい危急の鐘を叩き鳴らした。


 決してそれを飲み込んではいけない。決してそれを吸ってはいけない。何としてでも吐き出さねばならない。さもないと、まともに──


 だが、遅かった。


 ふかぶかと吸い込んでしまった煙のせいで、眼がくらんだ。視界が暗くなったかと思うと、頭の中がぼんやりと白くかすみがかって。

 何をしているのか、されているのか。

 わからなくなってゆく。


「……な、なに……したの……」


 息をするたびに、口の端からあまやかな毒がこぼれ、だらりとしたたり落ちる。


 身体の奥底が、ぞくりとうごめく。呻きながら、ふるふると乱れ髪を揺らがす。膝が震える。身体に力が入らない。

 心臓がやにわに熱く悶え打ちはじめるのが分かった。


「あ、あ……」


 執拗な指先が、ゆるり、ゆるり。

 半開きの唇をまさぐる。


「噛んで」

 命令される。


 あらがえなかった。


「もっと、舐めて」

「ぁ……」


 あらがえない。

 涙がこぼれる。


「あなたに邪魔されたりさえしなければ、ハダシュは生まれ変われるはずだった」

 血の味を舐めさせながら。ひそやかに高ぶるあやうい声で、ヴェンデッタはささやいた。


「あなたさえいなければ、今ごろはもう、彼もまた、血の快楽を糧に生きる闇の世界の住人になっているはずだった。私とともに、生と死の極限に到達しているはずだった」

「そんなこと」


 許さない。そう叫んだつもりだった。だがろれつが回らない。ラトゥースは焦点の定まらない眼で必死に相手を睨もうとし、ぐらぐら揺れる頭を懸命に揺り起こした。

 だが、支えきれなかった。力なくうなだれる。


「どうして」

 耐えがたい、熱い息がもれた。最後の理性を、絞り出す。


「どうして、じゃなくて、を、狙ったの……どうして……」


「あら、気づいてたの? 意外」


 ヴェンデッタはせせら笑った。ラトゥースの顎を指先で、ついと持ち上げる。

 指輪が黒く光った。

本人デュゼナウに聞いたのかしら。と言っても、答えられる状態じゃなさそうだけど」


 ナイフで下着を少しずつ裂いてゆく。髪の毛を束ねる紐を、切り落とす。濡れそぼった長い金髪が、白い柔肌をおおった。


「……やめ……やめて……やだ……」

「ええ、いい子ね。可愛い。もっとたくさん、いろんな罪の味を教えてあげるわ」

義父上ちちうえを……狙った……理由……」

「まだ意識があるの? もう一服盛るわよ?」

 ラトゥースは悲鳴に近いあえぎをもらし、汗みずくの身体をのけぞらせた。


「いいわ。教えてあげる。この薬で、何でも私の言うことを聞いてくれる人形にした後にね。こうやって……唇に少しずつ狂気を流し込んで、自分のことも、エルシリアのことも何も分からない身体にしてあげる。これは復讐よ。あなたも、エルシリアも、あの男も、すべて終わらせてやるわ。かつての私と同じようにね……それが、答えよ」


 ラトゥースは、うつろな目でヴェンデッタの指に伝う欲情のゆくえを見つめた。

 黒い髪。黒い瞳。黒い刺青。黒い指輪。そして、赤い血。


 汚れた笑いがもれた。呆けた意識が、薄紙を剥ぐように少しずつ吹き払われてゆく。

 理性と思考能力とが、眼の奥にわずかな光となって舞い戻った。


 まだ、壊れるには早すぎる。


 つい先ほど誓ったばかりのはずの言葉。もう、忘れたのか。

 違う。忘れるものか。

 あれほど固く心に刻んだ──


 泣くのも死ぬのも、すべてを終わらせてから。


 この言葉さえ覚えていられれば、魂は壊れない。


 乱暴なノックがひびいた。

「やっと来たわね」

 ヴェンデッタは、待ちかねた素振りで視線を肩越しに走らせた。口の端がいっそう妖艶につり上がる。


 忙しなく入ってきたのは、シャノアの総督、レグラムだった。濡れた茶色の帽子を取り、逆さまに返して、縁にたまった水を流し捨てる。

「何という不潔きわまりない船だ。話が違うではないか。どうしてこのわしが、こんな汚い部屋に……」


 毒づきながら入ってきたレグラムは、入り口で立ち止まった。

 囚われのラトゥースに気づいて、驚きの声を上げる。


「お、おおう、これは、何と」


 好色な眼が、ラトゥースの裸身に吸い付いた。舐めるような視線を這い回らせる。

 レグラムは、下劣な何かを期待する表情でラトゥースの身体をじろじろと値踏みした。

「お初にお目に掛かります。総督閣下」

 ヴェンデッタは陶然と頭を下げる。


 ようやく存在に気づいたのか。

 レグラムはヴェンデッタを見た。

「おまえが黒薔薇か。女だとは聞いていたが」


 ラトゥースはおぼつかない意識を振りしぼった。

 強烈な怒りがこみあげる。


「恥を……恥を知れレグラム!」

 置かれた状況も忘れて、声を荒らげる。


「貴様、それでもシャノアの総督か。国を守る重要な官職にありながら犯罪組織と結託し、外患を誘致せんと謀るとは……絶対に、許さない……」


「何だと」

 罵倒されて初めて、レグラムはラトゥースの裸身ではなく顔を見た。驚愕の呻きをあげる。

「クレっ……巡察っ……!」


 口走ってからその愚かさに気付いたらしい。レグラムは手で顔を隠した。ぶざまにうろたえる。

「なぜこの女がまだここにいる! 殺したのではなかったのか!」


 ヴェンデッタの眼が、何かを含んでひそみ笑った。


「どうせ、いずれ殺すのです。その前に、存分に可愛がってやればよろしゅうございましょう」


 執拗な指が腰に触れ、揺らす。ラトゥースは背筋に走った悪寒に思わず身体を引きつらせた。縛めの鎖がするどく鳴る。

「ほら、こんなふうに」

「や……やめ」

 ラトゥースは身をよじらせた。過敏すぎるほどに浅ましい反応を呼び起こされ、身体がいじましく張りつめる。


 吐く息もじっとりと嫌な汗に濡れている。声がふるえた。

 縛られた身体がぐらぐらと揺れ、のけぞる。


 レグラムは野卑な笑みを引きつらせた。

「まさか、媚薬を盛ったのか」


「ええ」

 ヴェンデッタは臈長けた笑みを口の端に含ませた。

「そうか、な、ならば、わしのこともわかるまい。何と大胆な。これは、どうしたものか」

「どうせ明日の朝になれば、何ひとつ分からぬ木偶デクになり果てておりましょう」

「……う、うむ、ならば」

「いや……ぁ……やだ……触らないで……!」


 もがくラトゥースを冷然と見捨て、ヴェンデッタは壁際の机に歩み寄った。

 総毛立つ冷笑をひそませ、引き出しを開ける。

 銃を取り出した。


「とはいえ巡察使配下の軍人も馬鹿ではないし、この船にいるところを見つかれば、簡単には言い逃れできますまい。通謀の罪が科せられるやもしれませぬ」


「それはまずい。何とかしてもらわねばならんな」

 口ごもるレグラムに対し、ヴェンデッタは平然とつぶやいた。

「簡単ですわ。敵国に通謀した証拠もろとも、海の藻屑と消えていただけばよろしいだけのこと」


 銃口が黒く光る。


「なるほど、海の藻屑か……証拠? 何の?」

 レグラムは、間抜けな顔で振り返る。


「今申し上げたとおりのこと。あなたを消せば、すべての証拠はなくなる」

 凍り付いた微笑が、銃口と重なる。


 レグラムは息を呑んだ。

「どういうことだ……?」


 ヴェンデッタは眼を上げた。

 黒い瞳に、煮えたぎる憎悪がふつふつと湧き立つ。


「ようやく」

 低くかすれた声が、まるで響きわたる雷鳴のように部屋の全てを圧して通り抜けた。


「ようやく、このときが来た。あなたには、地獄の蛆虫にも劣る死に方をさせてやる。どんな罪人が受ける罰よりも恐ろしく、苦しく、絶望に満ちた最期を」


「待て。なぜだ。わしが何をしたというんだ!?」

 レグラムは声をうわずらせた。

 禿げ上がった額から、みるみるねばつく汗が噴き出す。


「私が何者か、まだ分からないの? レグラム?」


 ヴェンデッタは壊れ果てた笑い声を放った。笑いながら、銃口をレグラムの眉間にぴたりと向ける。


「な、な、何のことだか……!」

 シャノア総督は身体をこわばらせた。わなわなとふるえ、死んだ犬のように濁った目を血走らせ、ヴェンデッタを見返す。


「だめよ」

 ラトゥースは、めまいをこらえ、顔を上げた。それだけ言うのにも息が切れる。

「やめなさい……もう……」


 涙のまなざしで、けたたましく笑うヴェンデッタを睨みつける。


「今、なんて言ったの」

 ぴたりと哄笑を止める。

 ヴェンデッタはラトゥースを見やった。


 ラトゥースは、息を喘がせた。かすれ声で、うめく。

「……それ以上、罪を重ねてはだめ……」


「黙れ!」


 突然、手がラトゥースの首へ伸びた。爪をぎりぎりと深く食い込ませ、憎しみのままに絞め上げる。もがくこともできなかった。

 ヴェンデッタはどす黒く顔をゆがめた。憎悪まじりに吐き捨てる。


「分かったような口をきかないで。あなたに何が分かるというの。貴族の姫として、のうのうと生きてきたあなたなんかに、何が」


 レグラムが、足をもつれさせながら扉へ駆け寄った。

 取っ手をがむしゃらに動かす。

 だが、扉は開かなかった。鍵が掛かっている。どれほど揺すっても耳障りに軋むばかりで、びくともしない。


「なぜだ。なぜ開かん。誰だ、閉じ込めおって! 話が違うではないか。聞こえておるのだろう。早くここを開けろ。おい、開けんか、馬鹿者……!」


「逃げようとしても無駄よ、レグラム。それともやっと思い出してくれたのかしら」


 ヴェンデッタが、あざとくも青ざめた笑みを走らせる。


 レグラムは壁にぶつかりながら後ずさった。血色の悪い顔がいっそう土気色に変わっている。

「なっ、なっ、何を思い出せと言うのだ」


 ヴェンデッタは手にした銃をゆっくりと撫でた。しばし愛でるがごとく、彫金の輝きに見とれる。


「覚えてもいないのね、己が犯した罪さえも」


 ぽつりとつぶやく。

 まるで情感のこもらない声だった。


「分からないなら教えてあげる。あなたが私に刻み込んだ憎悪の徒花あだばなを。我が名は黒薔薇のヴェンデッタ」


 ヴェンデッタは引き金に指をかけ、構えた銃をまず天井へと向けた。おもむろに銃口を下げて、ぴたりとレグラムへ。

 狙いを定める。


「しかして、その、真実の名は」

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