10.死にゆくものへ、うたかたの夢を
第56話 ある男の形見
ふいに扉が外から蹴りつけられた。戸板が衝撃をともなって激しくたわむ。揺れる。何度も殴りつける音、そして悲鳴。
一段と高い、最期の断末魔めいた叫び声の直後。扉がへし折れた。蹴破られる。
しがみついていたレグラムの身体が、折れた
その上からおおい被さるように、血まみれの戸板が倒れ込んだ。裏側には、折れた板が突き刺さった黒ずくめの男。痙攣している。
床に鮮血が広がった。
「うぎゃあああ!」
死体に押しつぶされ、レグラムが悲鳴をあげる。
「誰?」
ヴェンデッタは鋭く誰何を放った。振り返る。
「騒ぐんじゃねぇよ……外まで丸聞こえだ、クソどもが」
立っていたのは、唇に血の紅を引き、みだらな仮装をして、船の水夫どもに酔いどれの春をひさぐ男娼のいでたちをした男。
異国の三日月刀を逆手に持ち、顔にも体にも点々と返り血を浴びた凄絶な本性をあらわにして、ゆっくりと部屋に歩み入ってくる。
「何者だ!」
背後から襲いかかってきた黒衣の見張りを、男はぬらりとした無気力さでかわした。見返りざま、真っ二つに喉を掻き裂く。
返り血が、壁から天井にまで奔りついた。
「邪魔するやつは殺すと言っただろう」
暗い眼をした赤毛の殺し屋が、振り返った。
睨みすえる。
冷ややかな激情が、真紅の眼を激しく燃やしていた。
ヴェンデッタは息を吸い止め、一歩、後ずさった。
「ハダシュ」
美しい顔が、わずかにこわばる。
ハダシュは室内を一瞥し、ナイフを握った拳の背で道化の紅をぬぐった。頬に恐ろしい隈取りが走る。
「おお、おぬし、誰だか知らんがよくやった。今すぐわしを助けよ……」
レグラムが鼻水を垂らしてにじり寄った。膝にすがりつく。
「失せろ豚野郎。どけ」
その顔をハダシュは力任せに蹴倒した。
「ぶぎょぁっ!!」
レグラムは潰れたカエルのように床へひっくり返った。四つん這いで逃げ出そうとし、倒れた黒衣にぶつかって手のひらにべったりとついた血に悲鳴をあげ、へっぴり腰で部屋の隅でちぢこまる。
「ヴェンデッタ」
ハダシュの背後には、もはや動かない黒ずくめの
さえぎるものすべてを一刀のもとに斬り捨ててきた惨劇の幕開けを、無慈悲なまでに一顧だにせず。
ハダシュはただ、ヴェンデッタのみを見すえて。
「クレヴォーから離れろ」
押し殺した、低い声で言った。
「ハダシュ」
ラトゥースはかすむ眼で声を探しながら、よわよわしく首を振った。予期せぬ涙が、ぽろぽろと流れる。
「来ちゃだめ……銃……取られ……」
それ以上は言葉にならない。がくりと首を折る。
「クレヴォー!」
ハダシュは思わず一歩、踏み込んだ。
声が聞こえているのかいないのか、ラトゥースは虚脱した身体を枷にあずけたまま、喘ぎ続けるばかりだ。
ヴェンデッタは、ふいに肩の力を抜いた。妬ましく笑い出す。
「ナイト気取りで現れるにはいささか遅すぎたようね」
銃口をひるがえしてラトゥースのこめかみに強く押しつける。ほっそりと妖美な指先が引き金に掛かっていた。
「残念だったわね。あなたの負け。それ以上、一歩でも近づいたらこの子の命はないわ」
撃鉄を起こす。
ハダシュは無言でヴェンデッタを見やった。次いでラトゥースを横目に探り見る。
ラトゥースは動かない。
混濁状態のようだった。
赤みの差したまなじりはあまりにもなまめかしく、あり得ない漁色の熱に染まっていた。半開きになった唇からは、悲痛なあえぎ声がもれている。
口元をゆがめる。ためらっている暇はない。
ハダシュは、ナイフを持つ手を左に変えた。
内心の狼狽を隠し、侮蔑の薄笑いにつくり替える。
「お前に渡したいものがある。これを見ろ」
ポケットから、ギュスタのペンダントを引きずり出した。
放り投げる。
それは、砕けたガラスの音を立てて跳ね転がり、ヴェンデッタの足下で空虚に回転して、止まった。
「誰の持ち物だったか分かるか」
「何だというの、そんな……」
ヴェンデッタはあざ笑う視線を床に落とした。
が、サヴィス家の紋章が入った黒い石に眼を止めたとたん。
喉の奥から絞り出すうめき声を上げた。
自らの指輪を隠すようにして握り込む。
「知っているはずだ。ヴェンデッタ。
ハダシュは激変したヴェンデッタの表情に苦い確信を抱いた。
間髪を入れず、たたみかける。
「それは、ある男の形見だ。かつてエルシリアの騎士だった男で、レグラムとかいう役人と積怨の仲だった男の」
銃を持つヴェンデッタの手が、あからさまに大きくふるえた。
「死んだ母と妹の仇を討とうとして果たせず、兵に追われてシャノアに逃げ……その過去を銀ギルドの奴隷商人に暴かれ、付け込まれ、さんざんに利用されむさぼり尽くされた挙げ句の果てに命を奪われた男の、たったひとつの形見だ。教えてやろうか、ヴェンデッタ……俺の目の前で、ローエンが殺した、その男の名を!」
言葉をいったん切って、ヴェンデッタの顔に見入る。
ヴェンデッタは蒼白な顔で立ちつくしていた。
名状しがたい恐怖に見開かれた眼は哀れにも血走り、今にも悲鳴となって飛び出しそうだった。
ハダシュは残酷に言い捨てた。
「ギュスタ・サヴィスだ」
ヴェンデッタの視線は、古いペンダントに釘付けになったままだった。
ラトゥースに突きつけていた銃を、さらにいっそう強く捻り込むようにして押しつけながら、肩で息をし、激しく惑乱した自嘲の笑いをあげる。
「嘘よ、そんなのは嘘。だまされないわ。兄上は、ギュスタは、あの日、レグラムの嘘っぱちを信じたこの女の父親、エルシリア侯クレヴォーの追っ手に討たれて死んで……!!」
「違う」
かろうじて意識をふるい起こして。
ラトゥースは、肩をふるわせた。囚われの鎖が涙のように鳴る。
「ギュスタは……死んだはずの妹を、ジゼラ・サヴィスを……探して……聖堂で罪をつぐないながら……十年間も……ずっと、ずっと……ずっと、無駄だと分かっていても、それでも探し続けていたのよ……」
ヴェンデッタは蒼然とした眼でラトゥースを見やった。
「嘘を、つくな!」
ヴェンデッタは、右手の指輪を無理矢理に引き抜いて投げ捨てた。それは一瞬、黒曜石の光跡を放って跳ね、部屋の隅から机の下に転がって消え失せた。
冷涼な仮面は、すでにあわれなほど剥がれ落ちている。
壊れた甲高い嘲笑が、その口からもれた。
「だまされるものか。ばかにしないで。私は黒薔薇。血讐のヴェンデッタ。この身体に刻まれた、復讐と憎しみの黒い炎はもう二度と消せない!」
美しい顔が涙と激情でゆがんでいる。
ヴェンデッタはラトゥースに向かってなすすべもない悲鳴を上げた。
「何もできなかった。絶望した母の身体が、雪と氷に覆われたあの美しい死の湖に沈んでゆくのを、あのときの私は、生きることも死ぬこともできずただ、おびえて見ているしかできなかった。でも、私はあの日、身も心も死ねたのよ。レグラムが罪の露見を恐れて差し向けた者の手に掛かってではなく」
そこまで一気に言って、口をつぐむ。
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