第53話 思い出せ。血の夜を。思い出せ。闇の夜を。

 ラトゥースはぞくりと身を震わせた。


「今なら一撃で……しとめられますよ。どうします?」

 期待に満ちた、上気した呼吸をついて、レイスが再度問いかける。

「ここでやつを見逃すも、捕らえて黒薔薇の行方を尋問するも、ハダシュ君を待つも。あなたの判断次第です。ご命令を、姫」


 なぜかこみあげてくる空恐ろしさを、ラトゥースは押し殺した。

 唇を白くなるほど噛みしめる。


 自分が何を一番に優先すべきなのか。

 今すぐ決めなければならない。


 もう、医者の助手として何食わぬ顔をして乗船することはできない。つい先日、巡察使として総督府を訪れたばかりだ。正体を知られている。

 だが、ここで見逃せば、レグラムしか持っていない情報を取り損ねるかもしれない。

 それがもし、黒薔薇の組織を一網打尽にできる情報だったら。

 動悸が止まらない。


 レグラムは馬車を降り、荷物を運ばせ、今にもエウロラ号へと乗り込む素振りを見せている。

 もう、シェイルの到着を待ついとまはない。逃がすか。それともここで捕らえるか。いったい、どうしたら。


 ラトゥースは息をついた。

 やはり、逃がすわけにはゆかない。ぐっとこぶしを握りしめる。

 気配に気づいたか。レイスは眼をほそめた。口の端が笑みの形に吊り上がる。

「やりますか」

 緊張で手がふるえる。決意を込め、うなずこうとしたとき。


「……っ!」


 さほど遠くないところで、犬が何かに吠えついた。獰猛な呼吸が鈍い音をたてて走り抜けてゆく。


 見つかったか。


 ラトゥースは反射的に身をこわばらせた。背後を振り返る。

 どこかで重たい音が壁にあたって跳ね返り、二転三転した。甲高い悲鳴が唐突に途絶える。


 残酷な静寂が戻った。

「犬か。人騒がせな」

 レイスがまた舌打ちする。


 とりあえず、それ以外の邪魔が入る気配はなさそうだった。ラトゥースは高まる焦燥感をおさえ、再びレグラムへと視線を戻した。つもりだった。

 いない。


 ほんの一瞬、眼を離しただけなのに、もうレグラムの姿が消えている。いつの間に移動したのか。舟板から船に上がったのだろうか。確証が持てない。

 いったい、どこへ。


「おい、やつはどこへ行った。案内をよこしもせずに呼びつけおって。これじゃ分からんだろうが」

 レグラムが馬車の向こう側から姿を現した。

 どうやら、一時的に陰になり、見えなかっただけのようだった。荷物を運ぶ船員をつかまえ、尊大な様子で怒鳴り始める。

「《暁の門プエルタ・アマネセル号》への連絡はどうなってる。おい、おまえ。そこのおまえだ。聞いているのか。デュゼナウはどこだ!」


 ラトゥースは息をつめた。

 心臓がおそろしいほどしめつけられる。圧迫されて血液を吐き出す心拍の衝撃が、身体中にとどろいていた。


 今。

 レグラムは。


 何と言った?


「姫、どうなさいました。何か問題でも」

 動揺のそぶりを微塵も見せず、レイスがたずねる。

 ラトゥースは、雨に濡れた地面から無数の氷の手がぞわりと這いのぼってくる幻覚を感じた。


 すべての記憶が一瞬で巻き戻る。

 あれは。

 初めて。


 ハダシュと会った夜のこと。


 ヌルヴァーナの台座にすがりつき、目の前で繰り広げられる凄惨な殺し合いを凝視するしかなかった日。

 思い出せ。血の夜を。思い出せ。闇の夜を。

 あのとき、


(さて、どうしたものかしら。デュゼナウ?)


 黒衣のヴェンデッタが困ったように笑って小首を傾げ、背後を見る。

 黒い手袋をはめた手がひるがえる。

 闇に潜んでいたが、いらだたしげに応じる。


(……殺れ)

 くぐもった男の声。


 なぜか唐突にいくつもの記憶が混乱した。八つ当たり気味にメイドを叱りつけるレグラム。苦笑する銀髪の闇医師レイス。苦痛のうめきを上げて死んでいったギュスタ。そしてハダシュ。


 あのとき。

 黒薔薇の背後にいた、もうひとりの男──


 まさか。


 ラトゥースは、意識の底に沈んでいた記憶のとばりを払いのけた。

 ずっと意識の外にあった。ハダシュの危機に動転し、黒薔薇に気を取られ、存在を忘れていた。


 そこに、もうひとり。

 黒薔薇に命令する立場の男がいたことに。


 黒ずくめの男。足首まである漆黒のコートをまとった、恐ろしく背の高い男。顔を隠す覆面の下に、うっすらと光っていたのは、銀色の髪か。

 今思えば、ひどく見覚えのある背格好で──


「先生」

 ラトゥースは、喉を絞められたようなうめき声を上げた。

「先生、


「……仕方ありませんね」


 レイスはゆっくりと身を起こした。立ち上がる。

 口の端を、陰惨な笑みに染め。

 白く反射する眼鏡の下に、記憶の中の男と同じ、傲然と石油のごとく燃える眼を光らせて。

 間近から、ラトゥースを見下ろしている。


「残念です、姫。このような形でとは」

 その言葉は、まぎれもなく端正なバクラント語。


 異国の言葉。


 この声。

 この顔。

 だがそんなこと、絶対にあり得ない。

 あるはずが。


 ラトゥースは混乱する思考をすべて投げ捨てた。即座に銃を抜く。火薬は装填済み。確実に足止めすべく、撃鉄を起こし狙いも定めず引き金に指をかける。ここで絶対にレイスを殺しておかねば何も知らないハダシュが──!


 闇が、白い渦を巻いた。かのように見えた。

 雨すら切り裂く凄まじい手刀の風となって、視界が真っ二つに割れる。


 拳が銃を弾き飛ばした。轟音。暴発の赤い炎が広がる。衝撃にラトゥースはのけぞった。倒れ込む。


 ポケットから飛び出した小銭が、悲鳴のような音を立ててばら撒かれた。

「しまっ……!」

 逃げる間もない。

 続けざまに首への鈍い衝撃。嫌な音がした。

 ラトゥースは、はたき落とされるように地面へと崩れ落ちた。風に飛ばされた帽子が、一瞬でずたぼろに切り刻まれる。残骸が水たまりに転がった。


 レイスは、半ば水たまりに沈んだラトゥースの頬を容赦なくブーツで踏みにじった。苦痛に歪む青白い顔がみるみる泥にまみれ、汚れていく。

「どうやら、この街で過ごす最後の日が来たようです。シャノアの休日はいかがでしたか、姫?」


 落ちた銃を拾い上げる。

 ラトゥースにはもう、何も聞こえていない。


「デュゼナウ、いったい、これはどういう……この女は、あっ、ああっ!」

 目の前でうち倒され意識もないラトゥースの姿に、レグラムは蒼白になった。及び腰で後ずさる。

「わ、わ、わしは何も知らんぞ。知らんからな! ぜんぶ無関係だ! 何も見てはおらんぞ、お、おまえたちが勝手にしたことだ!」

「黙れ。貴様の知ったことではない」


 レイスは、うすく笑って眼をほそめた。指を鳴らす。黒ずくめの船員が駆け寄った。

「《暁の門プエルタ・アマネセル》へ連れてゆけ。あとはヴェンデッタが好きにするだろう」


 振り向いた先のはるかな沖合に、蒼光が揺れていた。

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