第52話 ずっとやきもきさせられてばかりで。少しは追いかけるこちらの身にもなってくれればいいのに

「さてと。敵もいなくなったことだし。もういっかな。先生、手を貸してくださる?」

「手助けなど要らないでしょうに」

 レイスが横を向いて嘆かわしく苦笑いする。

「何か?」

「いえ。どうぞ、姫。お手を」

「感謝いたしますわ」

 ラトゥースは優雅に手を取ってもらい、木箱から飛び降りた。ふくらんだマントの下で、ブーツのつま先が硬質な鉄琴の音をひびかせる。

「冷たぁっ。あぁん、もう。びっちょびちょ」

 ラトゥースはマントをはぐって、ドレスの後ろ側のすそをまくり上げた。ざっと絞る。泥水が流れ出た。


 レイスはあわててしかつめらしい顔に戻った。何も見なかったふりをしつつ、咳払いをしてはあちらこちらの様子をうかがう。


「ところでハダシュ君はどちらに。姿が見えないようですが」

 ラトゥースはすそをしぼる手つきのまま答えた。

「さっきまで一緒だったんですけれど、油断している隙に、あっという間に置いてけぼりにされてしまいました」

「はは、相変わらずせっかちで怒りっぽくて手のかかるわがまま勝手なハダシュ君らしい」

「そこまでは言ってませんけど」

「おっと失礼。お互い苦労させられますね、彼には」


「ええ、まったくですわ、もう」

 ラトゥースはほとほと疲れた顔をして、ため息をもらした。

「……ずっとやきもきさせられてばかりで。少しは追いかけるこちらの身にもなってくれればいいのに」

 レイスは分かったふうな顔をして何度もうなずいた。眉を吊り上げてにんまりする。

「でしょうね。罪作りなやつだ」


 ラトゥースは首をかしげた。

「何が?」

「いえ、何でもありません」

 レイスは真面目な顔に戻った。黒い革手袋をきちんとはめなおし、白衣の襟を正す。

「……ということは、例の《黒薔薇》の拠点を突き止めたのですね」

「さすがは先生。話が早うございます」

「いやいや、もうその手の冗談は勘弁してくださいよ。お恥ずかしい限りで」


 レイスは恐縮した面持ちで首をすくめる。

 ラトゥースは目線を海の方角へと向けた。


「シェイルが船を回してくる手はずになっていますので、準備でき次第、合流して急襲の予定です。なので、このあたりで失礼して先を急ぎたいところなのですが、その前に」

 かかとを中心の軸にして、まるでダンスみたいにくるりと振り返る。

「ひとつ、質問させていただいてもよろしいかしら」


 レイスは背筋をぴんと伸ばした。

「ええ。どうぞどうぞ。何なりと仰せつけください」

 そつのない笑顔を絶やさぬまま、能弁に応じる。先ほど見せた闇医者の顔とはまるで別人だ。

 ラトゥースもまた、柔らかな物腰をくずさない。

「どうして、あんな物騒な連中と行動をともにしてらっしゃいましたの?」

 平然と聞きただした。


 レイスは苦笑した。手袋の指先で頭をかく。

「どうしても答えなきゃダメですかね」

「犯罪未然防止にご協力お願いしますわ」

 有無を言わせない笑顔で、悠然と迫る。


 レイスは肩を落とし、長いため息をついた。観念した様子でうなずく。

「……ま、バレちゃあ仕方ありませんね」

 黒い診療かばんから、折りたたんだ羊皮紙を出した。開いて寄越す。


「実は、こういう仕事ハナシがありまして」


 受け取った。紙面に目を落とす。ラトゥースはできる限りの平静を保ったまま中身を読んだ。

 上級船員オフィサー募集案内。

 《港湾商人組合》所属商船隊旗艦、エウロラ号。実務経験者優遇。乗船期間は一ヶ月より、まずはお試し乗船歓迎。

 しかし、苦虫を噛み潰したようなレイスの顔を見るに、そう簡単に行って帰るだけの旅ではなさそうだった。


「ご本人を前に申し訳ないが、そろそろ潮時かなと思いましてね。法の番人が目を光らせる街で、自由気ままなヤブ医者稼業にうつつを抜かすのはさすがにもう」

「レイス先生」

 ラトゥースはまっすぐにレイスの顔を見上げた。

 やや神経質ぎみの、ほそめた灰色の瞳。笑みを絶やさぬ口元。抜け目のない、細やかな振る舞い。だが、紳士の外見に身をやつしたその下に隠れているのは──


 ひとつ、覚悟の息をついた。唇を引き結ぶ。

「お願いがあります」

 ラトゥースは腹をくくった。ハダシュと再会する前に、どうしても確かめておきたいことがある。

「私をエウロラ号に連れていってください」

 単刀直入に頼み込んだ。


「いやいや、その手の冗談はもう」

「本気です」

 レイスは今度こそ眼を丸くする。

「危険ですよ。お仲間やハダシュ君と落ち合ってからでもいいのでは」


 ラトゥースは食い入るようにレイスの視線を追った。


「ハダシュに、もうこれ以上、罪を重ねさせたくないんです。殺しの……剣の腕はすごいかもしれないけど、そのせいで自分が苦しんでることにいつまで経っても気づかない。だから」

 かみしめた歯列の合間から声を絞り出す。

「お願いします。私を連れていってください。その船に」

 相手が良しというまで眼を離すつもりもなかった。


 レイスは、すぐに眼をそらした。気乗りのせぬ様子でいやいやと頭をかく。

「いやあ、しかしさすがにそれは」

「先生はそのまま船に乗ってくださっても構いません。近くに連れていってもらうだけでいいんです」

 レイスは手をろくろを回す形に振り動かした。眼をそらしたり、挙動不審にかぶりを振ってみたり天を仰いでみたりする。

「いやいやいやいやそう言われましてもですね……ううむ……そんな怖い顔で睨まなくても、じゃなくて、あっ、いや、ううむ……ううむ? ……はあ、もう、仕方ない。いいでしょう。ただし」


 眼鏡が、遠雷の稲光を受けて白く反射した。

「くれぐれも、私の本職は内密にお願いしますよ。ハダシュ君にだけは嫌われたくない。下手に同業者だなんて知られたら、次からは絶対に手加減してくれなくなりますからね」


「もちろんです。ご協力、心より感謝いたしますわ、ギルベルト・レイスブルック卿」

 ラトゥースは手を差し伸べた。

「こちらこそ、姫。こんな小悪党でよろしければ」

 レイスは慣れた仕草で身をかがめた。手を取り、指先にかるいくちづけを落とす。

 黒手袋がなめらかに雨の粒を弾いた。



 レイスの案内で、港へと向かう。

 わざわざ総督府に通行税を払って立派な橋を渡らなくとも、大桟橋へ渡る方法は不思議といくらでもあるようだった。世話になっている先生のためなら喜んで、などと言う連中が、頼んでもいないのにどこからともなくわらわらと寄り集まってきては船を出したり橋渡しをしてくれる。どういうわけだか、レイスはやたらと裏社会の住民に対して顔がきくらしかった。


「まあ、ずいぶんと皆さん親切ですこと……」

 さっきまで襲われてばかりだったのが嘘のようだ。思わずぼやく。


「ハダシュ君と同じですよ。喧嘩した、どこそこを刺されたと言っては転がり込んでくる。もうひっきりなしですよ。いやでも顔は広くなります」

 乗せてくれた渡し船の船頭に手を振りながら、レイスはしたり顔で答える。

「さすがは先生。やはり徳のある名医でいらっしゃるのね」

 ほめそやすと、まんざらでもなさそうな顔で照れた。

「なあに、損して得取れですよ」


 大桟橋にはひときわ明るい船が泊まっていた。満艦飾まんかんしょくとみまごう、にぎやかな灯りが色とりどりに揺れている。

 複数の姿が船上に現れた。肩にロープを掛けた船員が船縁から手を振った。舟板をかついだ数人が板を送り出し始める。


 ほどなく、黒い幌のかかった貨車が騒々しい音を立てて船積み場に走り込んできた。厳重に梱包された荷が解かれ、下ろされる。こんな時間になってもまだ積み込み作業が続いているのだろうか。


 作業の様子を、物陰にひそんでうかがう。

「この船ですね。エウロラ号。間違いない」

 手元の募集チラシと見比べつつ、レイスは断定した。

「これがエウロラ号……」


 ラトゥースは船の全景を見渡した。


 ずんぐりむっくりとした三本マストの輸送帆船フリュート。太っちょの船腹から甲板デッキへあがるにつれて狭まる洋梨型をしている。

 日が沈む前に見た、すらりと高い船尾楼を持つ戦列艦とは明らかに船型が違う。

 近くに僚船の姿はない。


 甲板に青い吊りランプの光が浮かんだ。視界を横切りながら奥に消える。


「これからどうします」

 レイスがたずねた。ラトゥースは、行き交う船員たちの中に見慣れた顔がないかどうかを無意識に探した。

「待ちますか、ハダシュ君を。それとも、乗り込んで手がかりを探します?」


 矢継ぎ早の声が上の空で流れてゆく。


「姫。油断している今が好機です。ここは堂々と踏み込んで敵の親玉を探しましょう」

 レイスはやけに乗り気だった。血がたぎるのか、今にも飛び出していきそうな勢いでうながす。

「姫は私の助手ということにしておけば安全ですよ。ハダシュ君はああ見えて変装の名手でもあるし、とうに潜り込んでいるかもしれません。探し出して合流しましょう」


 雨にけむる夜の海上に、ちらちらと青い火が揺れている。

 まるで夜光虫のようだった。海面すれすれの低空を飛んでいるように見える。

 その行き先を、ラトゥースは食い入るように見つめた。はるか遠い夜の海、沖合の帆柱に青くゆらめくセントエルモの火を。


 闇の水平線に稲光が走った。とがった白波の立つ暗い海面に、幽霊船を思わせる影がひそんでいる。


 荒れた海。人を寄せ付けない暗く激しい海は、ハダシュのことを思い出させた。

 姿を消す前。

 黒薔薇の配下に堕ちたかつての友と、いったい、どんな会話を交わしたのだろう。

 銀ギルドの船エウロラ号が《竜の骨》を発掘するための奴隷を乗せてバクラントへ向かうと知っていたのなら、もしかしたら、その随行船が戦列艦であることもまた、たわむれに教えられて知っていたのかもしれなかった。

 友の死と引き換えに。

 だから、何も告げずに姿をくらましたのだろう。ハダシュにとってその情報を引き渡すことは、友の命を売ることに等しかったから。


 ハダシュは、この船エウロラ号には、いない。


「早く荷物を乗せろ。馬鹿者。丁寧にやらんか。貴重品だぞ。このうすのろどもめが。何をやっておるのか。さっさと運べ!」

 怒鳴り声が聞こえた。


 レイスが舌打ちする。ラトゥースは声の主を探した。間違いない。確かに聞き覚えのある声だ。


 先ほどの黒い幌馬車から、貧相な背格好の男が降りてくるのが見えた。コートを着込み、濡れた額を忙しなげにハンカチで拭き、片手では持ち切れないほどの荷物を下げて。それでも足りずに船員たちを怒鳴りつけながら運ばせている。


「……レグラム!」


 なぜ、シャノアの総督ともあろうものが、この場所に。

 ラトゥースは、ぐらぐらと沸き起こったどす黒い感情をかろうじて押し殺した。こぶしを握りしめ、低くつぶやく。

「どこに行くつもりだ、あいつ……!」


「そりゃもちろん逃げるためでしょうね」

 レイスは鼻で笑った。

「私と同じですよ。もう、この街は無法者の天国ではなくなってしまいましたからね。あなたがこの街にいる限り」


 声音が変わった。レイスは薄い唇を舐めた。ほの暗い享楽の笑みがほころぶ。


「さて。どうしますか……あの男を」

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