第41話 たかが奴隷ごときの安い命じゃない

 後ろ向きの首吊り状態で、部屋の反対側まで一気に引きずられる。

「う、ぐっ……!」

 何とか、輪の内側に指を割り込ませた。かろうじて即死だけはまぬがれる。

 それでも息が詰まった。ぶざまにもがく。


「らしくもない。そんなに気になるの。あののこと」


 背後から、トン、と背中を突き飛ばされる。身体がぶらりと揺れた。必死に足先で床を探る。

 段差のあるがらくたに触れた。爪先立ちで、ふらつきながら息を継ぐ。縄と木材とが擦れて、濡れ雑巾の音を立てた。


 ローエンはロープを柱に結びつけたあと、期待に顔をあからめさえしながら、後ろに下がった。

「あ、あの、黒薔薇様……」

「もういいわ。下がって」

 女はがらりと口調を変えた。冷淡に命令する。


「な」

 信じがたいものを見る眼で、ローエンはハダシュの背後を見た。見る間に血の気が引いてゆく。口元が、病的にさえ見える痙攣を起こした。

「なんで。俺は、あん、あんたの、ために」


「下がれと言ったのが聞こえなかった? この、ぐず」

 女は唾棄の口調で吐き捨てる。

 存在を拒否され、ローエンの顔がみるみる灰色に変わった。

「どうして」


 だが、女はもうローエンの言葉などまるで聞いていなかった。

「ああ、ハダシュ。逢いたかったわ。ずっと」

 切なく耳を舐める声。柔らかく濡れた吐息が、首筋にかかった。


「近づくな……」

 ハダシュは咽せながら逃れようとした。だが、逃げようとしてもがけばもがくほど、吊られた首にかかる力がいっそう喉を絞め上げる。

「ぅっ……ぐ……」

「つれないのね。お互い、ほくろひとつ、あざひとつ知らぬ場所ひとつない仲だって言うのに」


 銀の鎖と、なめらかな黒い石の指輪をはめた黒手袋が、そろりと背後から頬をつたった。耳たぶをくすぐる手が、おとがいを、首筋を、毒蜘蛛のように這い回る。


「憎い男。あんな小娘なんかにうつつを抜かして。前に言ったわよね。もし、次に逢ったら」

 冷たい鉄が、ひたと。ハダシュの喉に押し当てられる。

 嫣然えんぜんと笑う、ヴェンデッタの横顔が視界に入った。針先のようなナイフが赤くきらめく。

「容赦しないって」


 切っ先がハダシュのシャツを裂いた。あっという間に、原型を留めぬ細切れと化してゆく。引きちぎられた袖が、だらりと裏返しにぶら下がった。


「知らぬ仲と言えば、ねえ、ハダシュ」

 ヴェンデッタは、わざと背後へと回った。剥き出しになった背中の刺青から、脇の下に手のひらを這わせる。

 鎖骨、肋骨、骨盤と、それと。硬さを指先で確かめつつ、ゆっくりと下へたどってゆく。


「やけどのぐあいはどう。この辺り、だったかしら」

 背後から差し入れた指をちろちろと暴いたそれにあそばせながら、なまめいた吐息を首筋に吹きかける。

 部屋の隅で、ローエンが豚のようなうめきを漏らした。

「ひどくなってなければいいけど」


 ヴェンデッタは意味ありげにローエンを流し見た。鈴を振るような声で優しくあざ笑う。


 そのとき、階下の部屋のどこかから、ラトゥースのせっぱ詰まったさけびが聞こえた。

 くぐもった悲鳴と、何かの転がり落ちる音が続けざまに響いて。

 唐突に、残酷に、途絶える。


「……あいつには手を出すな……!」

 ハダシュはロープから逃れようと身をよじらせた。

「あら、いつの間にあの子があなたの飼い主になったの?」

 ヴェンデッタはつめたく笑った。快楽の先端をまさぐる手を止める。


 ぎし、ぎし、と吊り下げた縄が揺れる。ハダシュは歯を食いしばった。


「嫌なひと。あの娘のどこがそんなにまぶしかったの? 優しさ? 信頼? 正義? それとも権力? 馬鹿ね。分からないなら何度でも言ってあげる。そんなものは、甘ったれの子供じみた幻想でしかない。あなたがほしいものは、私が全部、奪ってあげる。あなたは私だけを見ていればいいの」

 耳元にささやかれる声に、ぞっとする嘲笑が混じった。


「ちょうどいいわ。まだ意識があるうちに、いいことを教えておいてあげる。明日の夜、ルイネード侯ガストンとシャノア総督レグラム連名の特許状を持った銀ギルドの商船隊……と名は付くものの、実際は《窮民法に基づく強制労働員》をのせた船と、護衛の戦列艦が出航する。行き先はバクラント北諸島。銀鉱床のある火山島よ。毒と硫黄で満たされた地下に、そこへ降りてゆくだけで命を落とす、《竜のひつぎ》と呼ばれる洞窟がある」


 ヴェンデッタはうっすらと笑った。


「……あなたなら、もしかしたら知っているかもしれないわね。大の男が入るには狭すぎて、奴隷としてかき集められた子ども以外、まともに入ることすらできない場所だそうよ。神殿の……馬鹿な偽善者たちが、浮浪者どもにエサを与えてたせいでなかなか集められなかったけれど、毒におびえて逃げ出してくれたおかげでやっとまとめて売り飛ばせる数が集まったってわけ」


 ヴェンデッタは、壁の棚に隠してあった香油の瓶をとり、蓋を開けた。目もくらむ薔薇の芳香が放たれる。

 ゆがんだ含み笑いがこぼれた。


「でも、本当に送りたかったものは、たかが奴隷ごときの安い命じゃない。消えない火よ。この国を壊す炎を、この街から起こすの」


 生ぬるいオイルが、指先とともに背中をつたった。

 ぬめる光を帯びた針状のナイフが、肌に押し当てられる。皮一枚を裂く、甘美な痛みが走り抜けた。


「エルシリアの雌犬に、この情報を教えてやるがいいわ。そうすれば分かる。あの娘が求めたものが、決して、あなた自身ではなかったということが」


 濡れた指が、とろりとからみつく。

 赤く、膨張して熱を帯びた罪が、花咲くまだらの白となってこぼれ落ちた。

 熱い吐息。乱れる吐息。頸に巻き付いた綱が、なおいっそう病的な緊縛と拘束の音を鳴らす。慰撫と、加虐と、倒錯と。凄絶に入り交じった不協和音が、血と薔薇の甘い香りとないまぜになって、耐え難く意識を溶かした。


「ちがう」


 混濁する意識をかろうじてかき集める。ハダシュはそれだけをうめいた。


 謎めく微笑をもらして、ヴェンデッタはナイフを床に捨てた。

 両腕を背後からつかむ。熱い唇が、背中の傷に押し当てられた。

 今、つけられたばかりの傷のひとつひとつを、半開きの唇が責め立てる。

 ひりつく痛みに、ハダシュは腰を仰け反らせ、あえいだ。舌の先が傷に這い入ってくる。


「忘れたのなら思い出させてあげる。あなたは人殺しなの。何十人も殺してきた殺人鬼なの。泣き叫ぶ人間を殺すのは楽しかったでしょ? 今だって、殺されそうになるの、すごく……気持ちいいのでしょ? みんな同じよ? 人間も家畜も同じ。気持ちいいの。だから殺す。だから、殺されるの。だから、あのも同じ身体にしてあげる」


 おそろしいささやきに、ハダシュはかぶりを振る。

 頭と身体の神経がばらばらにつなぎ変えられてしまったかのようだった。快楽にむせる、男と女の、血と薔薇の香り。つかむ手に、まさぐる腰つきに、揺れ動くあえぎ声に。狂乱の痴態が呼び覚まされる。

「自分が、何のために人を殺したか、覚えてる……?」

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