第42話 愛などというものの変わり果てた、狂い果てた姿
理由など、なかった。
自分を守るため、仲間を守るためなどでは決してない。
後悔から逃げるために。暴力的な衝動を、鬱憤を晴らすために。汚れきった自分自身を直視しないために。
見たくもない鏡を叩き割るかのように、殺した。
殺せば殺すほど、自分が壊れていくのも分かっていた。血に酔い、力に溺れ、命も金も、手ですくった水のようにこぼれて、ぼたぼたと消えていった。女を買い男に買われ享楽の欲望に身をむしばませ──
たとえ一瞬でも、心と身体を引き剥がしてくれればそれでよかった。
生きてゆくには、壊れたこころを悲鳴と狂気と笑い声でつなぎ合わせるしかなかった。心で傷つく代わりに血肉を痛めつけることでしか、悪夢とも現実ともつかぬ虚無と命のつなぎ目を感じ取ることができなかった。過去の自分を否定し続けることでしか、今の自分を受け止められなかった。
誰も。
生きろと、言ってはくれなかった。自分自身でさえも。
すがることができたのは女の狂気だけだった。ヴェンデッタだけが、希求して止まない飢餓感を癒やしてくれた。解放してくれた。受け入れてくれた。すべてを飲み込んでくれた。満たしてくれた。あなたのせいじゃない、あなたは何も考えなくていい、愚かでいい、私が赦してあげる、快楽も刹那も、ほしいものは全部与えてあげる、どこまでも一緒に堕ちていってあげる──
ヴェンデッタの眼が。前から回り込んできた手が。後ろから差し入れられた指が。闇の薔薇にも似た凄艶な唇が。欲情をそそり立てる。快楽をなぞる。妖美にささやく。かすれつく紅の色で、わざと肌を汚す。
ハダシュはもはや意味をなさないあえぎだけをもらし、震えた。半開きにした唇からだらしなくも艶冶な声がもれる。誇りも自我もない、曇りきった、御しきれないうめき。
互いのもらす、獣のような呼吸音ばかりが部屋に満ちた。情火がたぎる。
泥のような愛撫は、さながら、ぬかづいて愛しい男の首をいだき、その血にまみれて微笑む女のよう。
みだらな声が吐息まじりにこぼれる。欲望したたる枝に、黒い蛇がからみついて、くねって。吸い付く感触にハダシュはたまらず身をよじらせた。
「だめよ」
女の形をした欲望が腰を抱いた。身体の重みすべてをかけてくる。首が絞まり、喉がつぶれた。
その状態でむさぼられ、食われ、揺すぶられ続ける。破裂しそうだった。息もできず、半分意識を飛ばしながら、肉体だけが女に蹂躙されている。
狂乱の色香が、濃密に匂う。
かき乱され、かき回され、声を上げさせられるたびに。狂気に恋い焦がれた自身の姿を脳髄の芯にえぐりつけられる。赤い爪を立てられ、噛まれ、血の色をした嫉妬の爪跡を何本も深く刻まれるたびに。喜悦がほとばしり、こぼれ落ちる。憎悪が深まれば深まるほど、身体が苦悶と悦楽の間を激しく行き交う。
残酷な支配を乞うて狂おしくゆがみ、もだえ、高ぶり、そして。散る。何度も。散る。
人間らしい、あまやかな感情のゆらぎを感じたことのない者同士であるがゆえに。
他のどんな想いにも置き換えのきかない唯一無二の激情でその身を切りさいなむしか、魂を結びつけるすべを知らない。
もしそれが愛などというものの変わり果てた、狂い果てた姿なのだとしたら。
すべてがあまりにも悲惨で虚ろ、そして、破滅的だった。
視野の隅でかすかにローエンが動いた。
「もう、やめてくれ」
聞き取れないほど弱々しい声だった。ヴェンデッタは返事もしない。見向きすらしなかった。ローエンはがたがたと震えながら引きつる声で繰り返した。
「頼む、やめてくれ」
「何、まだいたの」
ヴェンデッタは残酷にさえぎった。その口元から、血とまざりあった白い笑みが淫猥な糸を引いて伝い落ちてゆく。
「もう、用はないと言ったでしょ」
ローエンは雷に打たれたかのようによろめいた。
「お、俺は、あんたのために」
慄然と立ちつくす。
ヴェンデッタはハダシュに頬を寄せたまま、嘲笑を含んだ視線を走らせた。
ハダシュは弱々しくあえいだ。頭の中で、ローエンの声がひどい叫びとなって鳴り渡っている。なのに、身体がいうことを聞かない。
「あら、誰が、いつそんなことを頼んだのかしら」
ヴェンデッタは、ゆらりと立ち上がった。ローエンの激昂を、わざとハダシュの耳元で
ローエンはぶるぶると痙攣する手に、ナイフを握りしめていた。一方的な情事をまともに見ることもできず、うつむいたまま、全身をこわばらせている。
断続的な呼吸の音が、蒸気のように立ちのぼった。
「どうする気かしら」
ナイフが眼に止まったらしく、ヴェンデッタはさらに低くあざけって、ハダシュの身体をわずかにゆすった。
隠されていた烙印があらわになる。ハダシュの身体中に刻まれた無数の傷。まだ治りきってもいない、奴隷の売主をあらわす醜いやけどの痕、値段、汚らわしい言葉、血のこごり、あるいは刺青、ヴェンデッタの妄執そのものの証が。
「やめろ」
ローエンは伏せていた顔をあげた。眼も、顔の色も、同じ色にぎらついている。まるで毒を帯びて燃える鉛のようだった。
ヴェンデッタがためいきをつく。
「哀れなものね」
「言うな」
ローエンが怒鳴った。
「言わないでくれ。それ以上。そいつさえ死ねば、俺はあんたを、あんたと」
押し開かれた眼に、煮えたぎる火が宿る。
ヴェンデッタは
「うぇえ気持ち悪い。何、それ。こっち見ないで」
「ウァァァアァァァアア゛ア゛アァァーー!!!」
ローエンは完全に壊れた絶叫を上げた。ハダシュに駆け寄ってナイフを振りかざす。
血まみれの刃に残った赤い飛沫が、天井にまで奔りついた。
ハダシュは棒のように突き飛ばされ、次いで縄に引かれて振り子のように揺すぶられた。
全体重が首にかかる。白い閃光が脳裏に散乱した。意識が吹き飛ぶ。
乱れる足音。ローエンの叫び声。
ヴェンデッタのくぐもったうめき。
何もかもが壊れた笑い声のようだった。
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