第22話 その眼で私を見つめていてくれるなら……貴方に殺されてあげてもいい
身体が痙攣する。もう、隠せない。身体を傷つけられれば傷つけられるほど、血と精の臭いが立ちこめれば立ちこめるほど、魂が堕ちてゆく。瓦解してゆく。
ヴェンデッタは口元をあやしい笑いに染めた。
「血と薔薇で貴方を支配する」
豊満な身体が、鎖に縛られたままのハダシュを呑み込んだ。濡れた音、金属の音を立てて、上下に動き始める。
ハダシュはつぶれたうめきをあげた。理性など、もうどこにもなかった。女に溺れ、その快楽にずぶぬれに溺れて、身体がどろどろに溶けてゆく。椅子が揺れ動く。汗みずくになった心のどこかが、もう堕ちてしまえ、狂ってしまえ、と叫んでいた。
「それとも貶められ支配されることに馴れすぎて、自分では何も考えられなくなったのかしら」
ハダシュは、一瞬我に返り、喘ぎに息をつまらせながらヴェンデッタを睨んだ。麻薬と快楽にかすんだ眼では何の役にもたたないと分かってはいたが、どうしても睨み付けてやらずにはいられなかった。
「そう、その眼。ずっと、その眼で私を見つめていてくれるなら……貴方に殺されてあげてもいい」
ほんの少し、ヴェンデッタの面影に淋しげな様子が混じった。
「私と一緒にどこまでも堕ちてくれるなら」
ヴェンデッタは陶然とした表情を寄せた。舌を這わせ、熱い吐息もろとも耳元にささやく。
「キスして。早く」
ハダシュの身に欲情の火をつけ、みずから妖艶に揺すり立てながら、熱を帯び溶けだした氷のように玲瓏に微笑む。
「貴方が憎い。何もかも奪って殺したいぐらいに」
理性の欠けたささやきが脳裏を圧した。からめた舌がとろりと唾液の糸を引き合ってもつれあう。上も、下も、どろどろに溶け、濡れて練り合わされた欲望そのものだった。
絶え絶えになった息が、白いのどからふいごのように洩れた。揺れ動く身体に悲鳴を上げるたび、混ぜ合わされた欲望が糸を引き、泡立ってぬめり、蕩けていく。
本能だけに突き動かされる肉の塊。互いに命を狙い憎みあっていた者どうしが、餓え、発情しきった獣となって絡み合い、泥まみれの愛をむさぼりあっている。あるのはただ、すさんだ思いだけ。
ふと、喉を鳴らして嘲笑う声が聞こえた。
「残念ね」
汗に弾み、上ずった声が離れていく。ハダシュは最後の瞬間を逃されたことに気付いて息をすすり込み、身体をひきつらせた。
「続きは、お預け」
忍び入る冷笑が、一歩下がる。
そのまま無言できびすを返し、全裸のまま、燃え残りがくすぶる暖炉に近づいていく。
くすんだ光を放つ火掻き棒を引き抜く。
火の粉がぱらぱらと震え散った。
深い陰影に沈む裸身を、残熱の朱色がほのかに照らしている。
赤く熱せられた鉄の棒をレイピアのように払って、ヴェンデッタは振り返った。
「不様ね」
次の瞬間、ヴェンデッタは熱した鉄棒をハダシュめがけて残酷に突き下ろした。
内腿の肉と皮を焼き焦がす凄まじい音があがった。ハダシュは絶叫し、縛めすら引きちぎって身体を跳ね返らせた。支えを失った身体が、反動で椅子から滑り落ちる。
悶え苦しむハダシュの腿にくっきりと、血を流す赤黒い家畜の数字が焼きついている。それを冷ややかに見つめながら、ヴェンデッタは焼きごてを床に投げ捨てた。カーペットが黒ずんだ煤で汚れていく。苦い煙がたちこめた。
「ハダシュ」
呻き、ひきつる身体の上に身をかがめ、手を伸ばして。ヴェンデッタはやおらハダシュの顎をぐっと挟み、涙に濡れた顔を無理やりねじ向けさせた。
「貴方は私のもの」
闇を孕んだ眼差しが、ぞっとする光を執拗に帯びて、ハダシュを見下ろしている。
「次は……貴方のすべてを手に入れる」
やがてヴェンデッタは気配をゆるめ、薄く笑ってハダシュを突き飛ばした。それきり興味なさそうに目をそらし、ローブを片手にすくい上げて部屋を出ていく。足音が遠ざかった。
あまりの屈辱に呻きがもれた。手足までが震え出す。ハダシュは自らのふがいなさに床を殴りつけた。拳が裂けて、血が飛んでも、止められなかった。
どうやって悪夢から逃れたのか、記憶にない。ハダシュは這うようにしてラウールの屋敷から逃れ、街にまろび出た。頭の後ろ奥が嫌な熱を帯びて、破槌のような痛みを放っている。壁を頼ってよろよろと伝い歩く。逃げなければ、そう思いながらも身体がまともに動かなかった。
「冗談きついぜ」
ふいに声が通りすぎていった。
ハダシュは息を止め、壁に張り付いた。
悪夢より息苦しい現実がぶりかえす。無くしていたはずの記憶が、忘却の彼方から揺り戻されてくる。過去と現在、未来までが混然と入り乱れた、吐き気にも似た、過去の記憶。
「賞金首ったってヤク中のキチガイ野郎だろ。関わりたくねえなあ」
無意識に声の跡をつける。
それは、街のどこにでもたむろっている浮浪少年たちだった。
ふと、大昔の自分を見ているような気になる。カネになることはないか、何か壊せるものはないかと嗅ぎ回っては薄汚くうろついていた日々。
幼い頃のいやな記憶が脳裏をかすめた。
父の顔も知らず、母親には捨てられ、暗い森の中で獣に怯えて泣いていた。何もかもが敵だった。野犬に喰われかけていたところを猟師に拾われ、食い扶持代わりに竜の骨鉱山へと売り飛ばされた。
やがて看守を殺し、鉱山を脱走し、密航してシャノアの街に逃げ込んだ。闇に紛れては道行く者を襲い、金を奪い漁色に溺れ、春をひさいだ。人の痛みになどまるで関心がなかった。
とめどなく荒れていくうちに気が付けば麻薬欲しさに売人を殺していた──ラウールの配下を。
「人を殺すのが趣味だと」
「ふざけた野郎だ。賞金いくらよ」
ハダシュは少年たちの跡をつけるのをやめ、路地に戻って深呼吸した。じめじめした動悸を押さえきれず、眼をつぶる。
「どいつもこいつも」
闇雲な怒りにかき立てられて、石壁を殴りつける。物音に驚いた猫が、戸口に捨てられたゴミの山から飛び退いた。おびえた両眼が薄緑色にぴかりと反射する。
「失せろ」
八つ当たり気味に、小石を投げつけた。
猫はすばやく身をかがめ、戸口の隙間をぬって消え失せた。長い尻尾が見えなくなる。あたりが静かになるとハダシュはさらに幻滅を感じて口をゆがめた。
もう、どうなろうと同じだった。そのまま無防備に歩き出す。
雲が切れて、月が顔を出した。目を覆いたくなるような薄汚い裏通りだ。道の端に汚物が掃き捨てられ、ネズミやゴキブリ、うごめく線虫の類が、びっしりと黒ずむほどにたかっている。
喉がからからに渇く。水では癒せない乾きだった。
こんな街のどこに何を求めていたのだろう。自由か、それとも自虐か。
冷や汗の滲む額を手の甲で拭う。思いつめてハダシュは歩調を早めた。忍びやかな靴音が石畳に鳴る。影法師が自身から引き離されてゆくかのように長く伸びた。
突然、ハダシュは足を止めた。ぎりりと唇を噛む。
聞こえる。
足音が近い。
とっさに横飛んで路地へ駆け込む。焦った気配が駆け寄ってきた。誰かが追ってくる。
武器を持っていないことへの恐怖がみるみるせり上がってくる。動悸が激しくなった。脂汗がにじむ。背後の暗闇が、何か物質のような重みと冷たさを持って吹き付け流れ落ちてくるような、そんな気がした。
直後、路地を覗いた男と真正面から眼があった。
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