第5話アヴィのもう一つの世界
アヴィは昔流行ったゲームセンターの筐体のような箱に入り、(そこはひどく暗かったが、とても落ち着いた)部屋の角に目をむけた。そこに吸い寄せられるように忍び足で体を前に傾けると、壁が近づくにつれ、激しく脈打っていた鼓動が次第にゆっくりになるのを感じた。電脳世界で呼吸をしている者はひとりもいない。ただひとりを除いて。そう、私だ。私はまるで獲物を捕らえる前の原始人のように荒い呼吸を繰り返し、スマートが来るのを待ち構えていた。私は心臓をつかむ勢いで左胸を鷲づかみにした。止まれ。止まれ。私は強く念じた。アップデートが来る度に外の世界に置いてきたはずの五感と内蔵が私の体に宿っていく。それがたまらなく嫌だった。このまま下手にテクノロジーが進むのなら、死を運ぶ病原体が私のもうひとつの世界をも浸食し、いつかきっとありふれたインフルエンザウイルスさえ蔓延るようになるかもしれない。インフルエンザの流行で世界を閉鎖します? ふざけるな! 休校で喜ぶ(私にはさっぱりわからない)学生を見ることと、世界を閉鎖され悲しむ学生を見ることが同じ日に訪れてはならない。そんなものでバランスなんてとれやしない。何かというと世界はバランスを取りたがろうとするだろう。たとえば、これからスマートが私に会いに来るかもしれないが、もうそれが最後の挨拶になるかもしれない。会いに来てくれることの喜びと、別れの悲しみが同時に押し寄せるに違いない。世界はそれでバランスをとったつもりだと確信しているのだろうが、圧倒的に記憶に残る辛い思いをするのは後者の方だと誰の目にも明らかではないか。今の今までを思い返してみると、私とスマートが談笑し、その場にお花畑が広がっているような光景を目にするとき、決まって私の頬には父親の拳骨が飛んできた。なぜ私が痛い思いをしなくてはならないの? 私は何百回もセラピストだと名乗るアンドロイドに尋ねた。なぜ私は毎日のようにアンドロイドと父親の格闘を観覧しなくてはならなかったのか。「うるせえ! 殺してやる!」と父親の怒声が何百回と部屋に響いた。アンドロイドは父親をすばらしいパンチを放てるようなボクサーに育てていたにすぎないのだと私は何遍も思った。私はアンドロイドに癒やされていた。そのバランスを保つために、父親の拳骨を鍛えてもいたのだ。そのせいで父親は腕っ節が強かった。はじめはセラピストの顔面を殴ると父親の拳から鮮血が迸っていたのだが、一ヶ月も経過すると、ついにへこみを作る程度に強くなっていた。先月末、セラピストはずっと受け止めていた父親の拳を初めて避けた。きっと担当者が攻撃予測と威力測定などといった格闘プログラムを組み込んだに違いない。
それ以来、いつ私の心臓が止まってしまうか分からない恐怖が私を襲い始めた。彼の暴力をまともに受けたその日に、死ぬ恐れは低いかもしれないが、脳に深刻なダメージを与えることになり、この身に後遺症を抱えることになる恐れは十分にあると思った。私は自分が自覚しないうちに父親に秋波を送っていた。もうひとつの世界で連続殺人者のヒロインを演じたあげく、ずっとうるさく鳴いていた誰かの犬を沈黙させて、セラピストの顔面を殴った。そのとき、セラピストは私の拳をよけずに受け止めると、一言言った。「お父様もうやめてください」私は咄嗟に自分が誰だか分からなくなり、急いで洗面所に向かい鏡を見た。鏡にはひどく父親似ではあるが黒い痣をつくった私の顔が映っていた。私はセラピストに向かって叫んだ。「うるせえ! 殺してやる!」
私は親からも誰からも自己を認められず、絶えず否定されて生きてきた。そんな自分を好きになる日はおそらく一生来ないだろう。私たちは他人に認められて今を生きているのだ。そうしたことを何度実感したことか知れない。私という個人が暴力と孤独に満ちた世界に出現するときは、スマートが私を訪れ、私を肯定したときだけだ。前の日-それがいつの日かもう思い出せないが、スマートが私に会いに来てくれた日があった。何度かあるうちの一回で私は彼の言葉をよく覚えている。
もちろん私を肯定してくれる言葉を、他の人間から何度も聞かされる機会はあった。しかしその相手は血の通った肉体を持たない鉄くずの集合体だ。AI化され、自律型の言語形態を確立したアンドロイド-彼等の言葉を聞き過ぎた私の耳はもはや心ない言葉を聞くことに食傷気味のようで、うんざりしていた。だけど、人間と機械の言葉に一体どれほどの差があるというの? 私はスマートに認識されることでようやく自己を見つめ直すことができはじめた。理由は分からない。ただ機械の慰めの言葉を聞くことを土台として、私はスマートと話す機会を手放すことをしなくて済んだのだ。
私は崖下で処刑を待ち続ける罪人のようなものだ。命綱を政府という柱にくくりつけ、ずっとその一本で耐えてきた。命綱が日に日に摩擦で細くなっていく様子が見て取れる。ああ、私はなぜ生きているのだ? 私の本能が私に問いかけた。私の本能が死を恐れ、私は指先から血が流れようと頭上にある地面に指を引っかけ、懸命に這い上がろうとした。地面に影がさしたので、私は視線を上げた。母親と父親が私を見下ろしていた。親がいなくなればいい、と私は強く願った。しかし、親は私の思いに答えようとはしなかった。父親が私の左手の指を踏みつけ、母親は私の右手の指を踏みつけた。どうして両親が私にそんなことをするのか私は理解できなかったし、理解したくもなかった。最も私を認めて欲しいと願っていた二人の人間がどうして私を否定するのかを考えたとき、涙が溢れた。いなくなってしまえ。両親が姿を消したので、私は地面に這い上った。正面にアンドロイドが立っていた。顔無しのアンドロイドは私に繋がれたたった一本の命綱を柱からほどき、私をまるでペットのように引き連れようとした。前には森が広がり、入り口に看板が立っていた。「樹海からは抜け出せない」その通りだった。いくら歩いても生きる目的を持たない私には森から自力で抜け出すことはできなかったし、退場すらできない迷路をずっとさまよい歩くことにこれまた飽き飽きしはじめていた。だから、私は誰かに手を引いてもらうことに決めたのだ。私の手を取ってくれる人は誰でもよかった。望みを言うなら、もちろん紳士がよかった。私が瞬きをすれば、私の手を握りしめるロボットが立っていた。思わず手をふりほどこうと力いっぱい引っ張ったが、なかなかにロボットの力は強かった。それでも私は並々ならぬ嫌悪感を抱き、どうしてもふりほどくことのできないロボットを見た。ロボットはまるで着ぐるみのように目を見開き、無表情で私を見つめていた。表情から感情を読み取ってきた私にとって、表情の読めない目の前の相手は恐ろしく、身震いが止まらなくなった。このロボットは私をゆりかごではなく、墓場に連れて行こうとしているのだ。きっとそうに違いない、と私は確信した。私は脱兎のごとくその場から逃げ出した。そのとき、私の腕が悲鳴をあげ、すっぽりとロボットの手から抜け出した。必死に足をぐるぐると動かして転ばないように注意を払いながら、しかと地面を蹴飛ばした。途中、私の右腕が宙ぶらりんになってぶらぶらと揺れているのが視界に入った。ロボットの手から抜け出すときに骨が折れたのだ。でも、そんなことに構う余裕はなかった。後ろを振り返ると、私が苦労して乗り越えた大樹の根っこをロボットは軽々と飛び越していた。葉と茎についた鋭い棘で肌を引き裂かれたとき、ロボットに同じ傷をつけることはなかった。
目の前に崖が広がっていた場所に戻ってきた。私は高所に足がすくみながらも、前に出た。すると、崖下に一人の男が両腕を目一杯広げて何かを叫んでいた。その男の顔をよく見ると、彼がスマートだと分かった。「飛び降りろ。自由になりたいなら、すべてを投げ捨てろ!」スマートはどうやら私に飛び降りろと言っているらしかった。私はどうかしている。走ったことで息が上がり、とても興奮していた。まともな精神状態ではなかった。なぜなら、後ろからいつロボットが私に握手を求めにくるか分からなかった。それはロボットに心ない言葉でダンスを求められているのようなものだ。家庭、財産、今の私にとってすべては無価値だ。私は捨てるべき物を端から持ち合わせていなかった。だが、それなら今から自分と作っていかないかとあの男は言っていた。今まさに私は決断せねばならなかった。私が後ろを振り返ると、ロボットが膝をつき手を差し出していた。それは紳士の振る舞いだった。あと少しでロボットの手を取ろうとしたところで、私は躊躇し、びくっと身を引いた。ロボットに従えば、きっと怯えることなく両親と和解し、もう二度と暴力に晒されることはなく、平和な余裕ある道を安心して歩き出すことができるだろう。それは間違いの無いこれから私が歩むべき人生だ。しかし、それを私は本当に望んでいるのだろうか。私が何をしたいのかがいまいち分からなかった。ずっと両親に従って生き続け、そこにすべてを傾けてきた私にとって人生とは何なのだろうか。暴力と孤独、そして恨みが私の生命維持システムの部品だった。そうした生きることの希望も絶望も全てを投げ捨て、私は一度社会の規範に基づいた自由を手に入れる必要があるのかもしれない。私は崖下を見下ろした。きっとスマートは崖下で私を受け止めてくれる。はたして本当に彼の胸が私にとっての墓場、もしくはゆりかごになり得てもいいのか分からない。たとえ彼が私を受け止めることをしなくとも、もしくはできなくとも、彼が受け止めてくれると信じて飛び降りようと私は思った。もう考える時間は無かった。もうそろそろ彼との対話も終わり、彼が地上に足を向ける時間がくる。
スマートは言った。「アヴィ聞いてくれ。信じてもらえないかも知れないが、君の病を治す方法が見つかった」「そう」治す方法は地下ではなく、地上にあったというわけねと私は思いスマートの顔を見ようと首を動かした。スマートは顔を顰めていた。「ごめんなさい」と私はつぶやいた。私はここ数日、鏡を見ていなかったし、長らく櫛を手に持っていなかった。もちろん風呂になんて入っていない。きっと私は生ゴミのような異臭を放っているに違いなかった。しかし、そこまで考えて私ははっとなり、口を閉じることができなかった。私は《もうひとつの世界》にいたことを今の今まで忘れていたのだった。ここには暴力もなければ孤独もない。私のユートピアだった。つまり私の生きる二つ目の世界-ここでは風呂に入らなくとも体に酵母菌もカビも繁殖したりしない。私の体を包み込む香りはいつもと変わらずサンタール・エ・ボーテのリリーガーデニアフレグランスなので、誰も顔を顰めたりしないで私の前を通り越していく。
私が謝った意味をスマートははき違えて、謝ることなんてないと言った。「地上には望んで行くんだよ。嫌々行くわけじゃない」
「私はもう処女ではないの」唐突の告白の科白にスマートは聞き返した。「何だって?」スマートは拳を強く固めて、歯ぎしりしていた。「私はもう処女ではなくなったの」もう・処女・では・なくなったの。私は動揺を見せるスマートにしっかりと聞こえるように区切って言った。しかし、実際は私が泣きそうになっていたからだ。「何だってわざわざそんなことを言うんだ?」とスマートは言った。「父親と・・・」私の言葉の続きをかき消す声音でスマートが叫んだ。「うるさい」彼のうるさいと叫ぶ声音は父親と私のそれとは比べものにならないくらい小さな力しかこもっていなかった。スマートはそこまで怒ってはいないのかもしれないと思った。「私は望んであいつと交わったの。嫌々したわけじゃなかった」それが私の最後の言葉になった。スマートはそうか、と一言つぶやくと地上に向かう旨を言い残し、その間モーリーが君の容態を見守ってくれると言った。私は何の反応も示さないまま、スマートを見送ることにした。この世界でならもっと話ができると信じていたのに、予想していたよりも二人の口数は少なかった。私はどこまでも自己中心的だと思った。しかし、それはスマートにも当てはまることだと心底思った。
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