第4話キャスター

スマートがアナザーワールドに入る前、モーリー医師から一つの忠告があった。スマートは呼吸を荒げ、いらだたしい気持ちでモーリーに耳を傾けた。「あの娘に一言声をかけることがどれほどの刺激になるのか。それをスマート君は理解していないでしょう。すべての褒め言葉は罵声となります。君がよかれと思って言った言葉を彼女は頭の中で誤変換させるのですよ。たとえば、そうですね。君は彼女になんと声をかけるつもりなのですか?」スマートは言った。「さあな」モーリーの言い分はもっともだったが、まともに取り合う気は微塵もなかった。彼女の命がかかっているために数秒も無駄にはできないと焦っていた。彼女は大量の薬物を体内に摂取し、服毒自殺を図ったらしい。しかし、今現在世の中に流布している薬物を大量に摂取したところで体調を崩すのが関の山だろう。彼女は死に至ろうとして過剰服薬を行ったのだろうか。それとも死なないと分かっていながら行為に及び、公安警察の手により児童養護施設への入所を希望していたのだろうか。現状、養護施設から退所したとして彼女が手に安全な職をつけられるとは思えない。彼女は病院側に対し、自分は虐待されていますと言ったのだろうか。彼女が自ら助けてくれと叫ぶだろうか。スマートは彼女の部屋でうずくまっていた彼女の目を思いだした。彼女の目にひそかに潜んでいた闇は反抗の兆しではないか。アヴィの家族は暴力的すぎる。両親から子どもに下される懲罰にしてその度をはるかに超していた。そして両親は子どもが反抗心を宿し始めていることを知っていたのだ。いつまでも黙っている子どもを前にして両親はしかしながら、子どもが反抗することを思いだしたかのように時に優しくなるのだ。

 アヴィの家族社会において、彼女は従いたくもない両親の敷く慣例に強制的に従わされた。彼女の家の慣例はスマートの家の慣例とは異なっていた。もったいないから水は出しっ放しにするな、などという生ぬるいものではなかった。彼女の意味するところの両親の立腹は端的に暴力なのだ。それは両親の定めたルールが絶対であることの何よりの示しだった。

 僕が直接病院に行かなかったのは彼女の両親の二つ目の本心を見たくなかったからだった。善意に満ちた彼等の顔は同情を誘い、何を犠牲にしてもいい、娘だけは助けてくださいと語っている。その通り、彼等はいくら金がかかろうと借金をし、その身を削ってまで娘を助けようとするだろう。僕の予想に若干の期待がこもっているものの、彼等、特に母親が娘を助けたいと思う気持ちはきっと本物だ。だから余計に僕は癇癪を起こしたくなる。怒りの対象は自分なのだ。

 スマートはアヴィの事を考え出すと、頭がカッとなり、目が鋭くなり、眉間に皺が寄ることを思いだした。アヴィを想うとき、理性的であろうとする意志を覆い尽くさん限りの力が僕の心に働きかけてくるのだ。

 モーリー医師が機械のメンテナンスとテストを行い、了解の指示が出たことを報せた。「ご立腹のようですね。どうかもっとリラックスしてください。旅は長いのですよ。肩でも揉んであげましょうか?」スマートは頭を縦に振った。「旅の前に最後の挨拶をアヴィにしなくてはならないことを忘れるなよ。まずはアヴィのチャットルームに向かう。お互いにもしもの場合があれば、最後の邂逅だ。きっと僕は彼女と会うことでより一層不安になるのだろうな。けれど、それでいい。気分を最低値に下げた状態で地上に向かえば、地上で最悪な気分を味わう恐れはなくなるわけだから」スマートは内心にわだかまる焦りと緊張から絶えずもぞもぞと身をくねらせていた。モーリーが再びPCの前に立ち操作をはじめたとき、スマートの周りをサークル上にくるくると回っていた柱から伸びたアームが端末を掴んで目の前に据えるように持ってきた。端末の液晶画面に映し出されていたのはアンドロイドの全身モデルだった。身長は現実に合わせた約169㎝相当、体重はかなり重いが、説明によると体感体重推定59㎏だった。地上に行ったとき、動作に支障がでないよう違和感を極力抑えた結果のモデルだった。外観は流行の肌に密着した肉感的なスーツを着用し、ギリシャ彫刻を思わせる美しい肉体がスーツを通して浮き出ていた。肩に日の丸のマークが刻印されていた。女性型アンドロイドもあるにはあったが、値段が比にならないほど跳ね上がっていたのだ。それにスマートには女性になるという変わった趣味を持ってはいなかった。つい先日、一部の男性の間で話題になっている代物で爆発的な人気を博した製品では、セックスを行うことができるアンドロイドまでが市場に出回りだしたところだ。今までアンドロイドの部品に関する小型化・耐久力の向上化が進んでいないせいもあってかアンドロイドの多くはあまり売れ行きがよくなかった。買ってもすぐに劣化するというのが常だった。

 スマートはアンドロイドに刻印されたユージ-ミャコン社の商標を見つけた。このマークに価値がついていった次第を僕はこの目で見てきた。ユージ-ミャコン社に対し両親が費やした時間は、アンドロイドを世に普及させ、市民権を獲得させるに至った。今ではユージ-ミャコン社だけではない。数多の会社が地上へのルートを展開しはじめた。しかし、地上へのルートを展開し、顧客が地上へ赴く間、安全な身体の管理を依頼できると信頼されている会社は数少ない。その数少ない内に、もちろんパイオニアであるユージ-ミャコン社は含まれていた。市民権を得たメーカーのアンドロイドの管理会社及び開発社と提携し、今のシステムは成り立っているのだった。

 地上が熱気に包まれ、人間の身では到底行くことは不可能だと言われたとき、アンドロイドは発展させるべき技術となったのだ。環境汚染という酷なことをしたせいで人類は自らの環境を狭め、新たな技術を生み出す。もしかすれば、アンドロイドがいつしか人類の新たな障害となり得るかもしれない。これからの進化は厳しさから脱するための繰り返しのみになるかもしれないとスマートは思った。

 モーリーは白髪交じりの毛髪を撫でつけ、眼鏡を押し上げて言った。「気分はどうですか」「上々だ」スマートは自分の返事が思いの外反射的なスピードを持ち、モーリーの声と重なったことに驚いた。まだ緊張しているのか、舌がよく回っているようだ。スマートは思いついたことを口走った。「ここは親の会社の中だから、もちろん御神籤はあるだろう」モーリーは目を丸くしていた。「キャスターのことですか? それはもちろんありますけど、いくらか市販のものより倫理規制が緩いものです。まさか使うおつもりですか?」スマートは頷いた。「御神籤でもキャスターでもいいから、三つだけ知りたいことがある。三つだけだ」これほど念を押した理由はおそらくモーリーは使わせてくれないだろうからだ。予想した通り、モーリーは慌てた口調で言った。「駄目です。私用に使うにはあまりに倫理規制が緩すぎます。私たちも使う状況は限られているのです。それを三つもなど!」スマートはこのままモーリーを押し切れないことを悟った。モーリーは頑固として譲らないというかのように、声を荒げはじめた。「あなたの言う御神籤は少々軽すぎます。新年に百円で引けるほどの軽々しさでキャスターを使うことは許されません。キャスターは未来を予測するコンピューター。処理能力の規模が莫大なものになれば、人類がいつ戦争を起こし、いつ戦争をやめ、誰が戦争に勝つのかその全てを予測できます。もちろん人類がいつ頃まで繁栄の時を過ごすことができるのか、ということさえ。しかし、未来を知ることは人の選択の自由を奪います。もし、もしですよ」モーリーはそこで言葉に詰まった。ハッと我に返ったような仕草を見せ、スマートの心を探るように瞳の奥を見つめようとした。「スマート君は何を知りたいのですか? それを事前に教えていただければ、使用を許すかもしれません。もちろん、ここにあるコンピューターでは人類全体の終末を知ることは叶いませんよ」スマートは言った。「どれくらいの事までなら可能なんだ?」モーリーはそそくさとデスク上のPCを操作すると答えた。「人間一人の漠然とした未来像までなら可能ですね。しかし、倫理規定を超過することは控えてください。警告音が鳴ると思いますが、それで三つのうちの一つを使ったことにしてください」スマートは喜び勇んで言った。「なら使わせてくれるんだな」モーリーは言った。「ええ。どんなことを知りたいのか教えてくだされば」スマートは躊躇った。モーリーの望むような質問をできる可能性は限りなくゼロに近いだろう。きっと教えてしまえば、使用は禁止されるに違いない。使用の禁止がモーリーの狙いなのだ。スマートは言った。「たいしたことじゃないんだ。心配する必要なんてないさ。それに倫理規定で答えられない質問には警告音で答えるのだろう? いくら規制が市販のものより緩いからといって、それは緊急面の話じゃないのか。万が一、地上から帰ってこなくなった場合の処置・対応とかの」スマートは念を押して言った。「頼む

。今回だけだ。アヴィのこともあって、今回は僕にとって緊急事態なんだ。自分だけの力ではどうしようもないことなんだ。いや、人間だけの力ではどうしようもないことだ」スマートが懇願するように言ったことが功を奏したのか、モーリーはため息を吐き、嫌々に言った。「今回だけですね」スマートは「ああ」と言うと、「ありがとう」とモーリーに感謝した。

 モーリーがキャスターの使用申請を済ませ、扉から出ようとしたとき、扉が透明になった。外から入ってきたのは、車輪を履いたデスク型の移動車だった。デスク上には御神籤自動頒布機のような長方形の物体が置いてあった。モーリーは呟いた。「キャスターです。私たちが必要としていることを予測したのでしょう」

 スマートが目を丸くしている間、モーリーがそれを手に取ると、横腹に文字が現れた。スマートの視点からではよく読めなかったので、ベッドから降り、モーリーの傍らに立った。どうやら使用上の注意点のようなことが羅列してあったように思えたが、すぐに画面は切り替わった。まるでこれから映画を見るかのような音声・字幕設定をし終えた後、得体の知れないそいつは淡泊な女性の声音で言った。「使用者の登録を行います。使用者はよく通る声ではっきりと、これから出される質問に答えてください。お名前、性別、生年月日」スマートは機械音声の続く言葉も耳に入れず、モーリーを睨みつけて口を挟んだ。「モーリー! 使用者の登録をすれば、使用したことが誰の目にも明らかじゃないか。いいのか?」モーリーが眉尻を下げ、何かを言おうとしたとき、キャスターが一オクターブ上げたSE音を発した。その瞬間、この場は静まり、キャスターが後を引き取った。「使用者の登録が完了しました。スマート君とお呼びしてもよろしいですか?」スマートはキャスターの馴れ馴れしさに嫌な気は起こらなかった。「いいよ」スマートはその次の言葉を言い損ねた。この場はキャスターが支配しているような圧力を覚えたからだ。「質問は申請された三つ。答えられない質問も一つとして看做します」

 「ちょっと待ってくれ」とスマート。「何でしょう?」キャスターは興味のない風な嫌な口調だった。「三つとも答えられないというふざけた応答だけは無しだ。二つ答えられないなら、僕の質問が悪かったことを認め、仕方ないと納得する。もちろん、すべてに回答があることが最も良いけどね」キャスターはまったく話し相手にするにはつまらない相手だ。動揺も見せず、声に変化は見られない。まるで地下都市を歩く人間たちと変わらない、とスマートは思った。機械はいつの日からか人間達に近づこうと感情というものを理解しようとし、今では機械が笑い声を上げたり、悲しみに暮れる仕草を見せることは日常となった。誰もそれを見て、驚かない。しかし、機械はわざわざ人間に近づく努力をしなくとも、地下都市の住人は確かな足取りで機械側に近づいていた。両者間の差は両者が互いに歩み寄ることで埋まっていったのだ。

 キャスターは言った。「善処します」と。「善処します、では駄目だ。絶対だ。君たちは絶対という言葉が大好きなんだろう?」スマートは目を持たないキャスターに圧を与えるためにはどこを睨めばいいのか分からなかった。それゆえにスマートのキャスターに向ける言葉には若干の棘が含まれていた。すると、キャスターは渋々といった様子で「了解しました」と答えるのだった。それは彼女が見せた初めての情だった。スマートは彼女の態度と彼女の返答に思わず笑みをこぼした。


 キャスターはスマートの心を読んでいるかのような振る舞いを見せていた。真っ黒なその画面に緑の光点を照らし、次第に目と口を形成していった。キャスターは親近感のわく顔に収まった。予知だけしていればいいものだということを彼女は承知していなかった。若干のユーモアを持ち、スマートの心を和らげようと微笑んでいた。「三つだけお答えしましょう」「三つだけ」キャスターは念を込めて言った。絶対に三つだけだ、と見えない魔力を込めるような口調に感じられた。機械に対し、魅力的だと感じたのははじめてかもしれない。それも人間の形をとらず、全く肉感的でない無機物に。

 キャスターは精神的操作を施そうとしているのではないだろうか。キャスターの目には不思議な魔力が込められていた。

 スマートはゆっくりと言った。「まず一つ目に…」モーリー医師は首を伸ばし、スマートの一言一句を聞き漏らすまいとしていた。「まず一つ目になんですか?」「まだ何も言ってない」とスマート。キャスターが口を挟んだ。「そう急かす必要はありません、モーリー医師」まさかキャスターがモーリーを落ち着かせるようなことを言うとは思っていなかった。スマートは続けていった。「まず一つ目に、僕が地上に赴くことでアヴィは助かるのかどうかを知りたい。正確には地上に存在するという最先端マシンを用いた救済手段なのだが、ここで問いたいのは彼女が助かるのか助からないのかということで…」上手い言葉が見つからない。うろたえるモーリーをよそ目にスマートはキャスターの反応を見守った。「助かるか、助からないか。どちらかの回答がほしい」

 キャスターは顔色変えず言った。「残念ですが、その問いにお答えできません」

「なぜだ?」

「あなたの選択の自由を奪う恐れがある故です」

「それはどんな選択だ?」

「あなたは現在、地上に行くか行かないか依然として選択の余地があるのです。しかし、未来を知ることによって、その選択肢は必然的に一つに絞られてしまいます。いわゆるホブスンの選択ですよ。地上へ行けば死ぬと分かった上で地上へ行く馬鹿はいないですよね」

 そんなことを言えば、ほぼ全ての回答を得られないことになる。「いいや。違うな。もう僕には地上へ行く未来しか残されていないのだ。今の僕の状態こそホブスンの選択だよ。どんな未来を聞かされようと、僕は地上に行く。その選択は変わらない」

 モーリー医師が口を挟んだ。「ホブスンの選択とはなんですかね?」

「それは二つ目の質問ですか?」とキャスター。スマートは少々苛立ち気味に言った。「モーリー! 口を挟まないでくれ。僕らは選択の余地がないと言っているんだよ」スマートはキャスターにはぐらかされそうな嫌な気を覚え、すぐにキャスターの目のような光点を睨んだ。

「どうなんだ。キャスター。アヴィは助かるのか?」キャスターは間を空けて言った。「率直に申し上げると助からないと思った方が良いでしょう。助かる見込みはほぼゼロに近い状況です」キャスターの声が耳奥で重くゆったりと鳴り響いた。

 キャスターは慎重に尋ねた。「あなたには選択の自由がある、と私は思っています。今なら変えることができるのです。私はあなたが行かない未来を選択したとしても、笑うことはないでしょう。あなたが優柔不断であることに恥を感じる必要はありません、と私は思っています」キャスターはどうやらモーリーを意識しているようだった。モーリーが何も言わないのを見て取り、スマートは弁明した。「モーリー医師だって笑うような人間ではないさ。僕は彼にある約束をとりつけた。それが彼の本意でないと知っていてだ」スマートはモーリー医師に僕がいない間、アヴィをよろしく頼むと言っていた。彼にはスマートの健康管理をする役目があるにも関わらず、万が一の場合に限って、アヴィを優先させることを約束させた。モーリーがその申し出を受け容れてくれたことを心底嬉しく思った。スマートはだがきっとモーリーはどんな場合に陥ろうと、アヴィよりもスマートを優先させてしまうだろうと理解していた。でも、頼むしかなかったのだ。

「本当に勘弁して欲しいですよ」とモーリーは言った。「できれば私も同行したいのです。しかし、私にできることはいつも限られている」

「だが、モーリー。これは普通の人にはできない作業だ。この作業は、そう、モーリーにしかできない。僕が久しぶりに地下に帰ってきてみれば、身体が煤だらけなんて御免だよ。それと、確かに地上は地下よりも危険かもしれないが、地上で命がいくらあったとしても、もし地下に眠っている本物の肉体が死ねば、地上の僕も死ぬ。僕が怖いのは、無防備な状態に置かれるこの肉体を襲われることだよ」モーリーは頷いた。「本当は彼女に頼みたいところだが、生憎今の彼女はちょっと頼りないし、その彼女を助けるために僕は地上に赴くのだ」

モーリー医師は真剣な面持ちで言った。「そう言ってくれると私としては心底嬉しいものです。ですがスマート君なら完璧で完全な、そうです、キャスター君のような自律型アンドロイドを買うことは容易いでしょう。機械は私よりも優秀です。機械は失敗しません。安全性は断然私よりもいいはずです。なのにどうしてです?」

 モーリーは悲しげな表情を見せ、キャスターはなんとなく誇らしげなスマイルを見せた。確かにスマートの身体の管理に関して言えば高額ではあるが、機械を雇い入れる方がより完全性を増す。きっとアヴィの方は機械が歩いて部屋に入ることを酷く嫌うだろうから、彼女に関してのみモーリーに頼めばよい。スマートはその考えに至らなかった。

 なぜだろうか。なぜならアンドロイドであろうと僕を殺そうと思えば殺せる。そういうプログラムをインストールすれば。インストールしなくとも、ある日、アンドロイドはスマートの身体管理に嫌気がさして、点滴パックに毒物をいれようとするかもしれない。だが彼等こそ僕の帰りを歓迎してくれるのではないか。生物の死を知らない故に死を恐れない彼等にとって、死とは?という問いに答えが出るときを彼等ほど心待ちにしている存在はないのではないか。もう魂の在処について議論しなくて済むかもしれない。スマートは空想した。アンドロイドは「どうして胸を指すのですか? 魂は、心は、ここではないでしょうか」と言い、頭の中の脳を指さすのだった。そしてスマートは胸を指した人差し指に問いかけるのだった。「お前はどうして胸を指したのだ?」


 スマートは言った。「モーリーを信頼しているからさ。つきあいが長いからな」信頼なら機械にだって抱いている。現にキャスターの予言を疑う気はほぼないと言ってよかった。しかし、今話すべきことを忘れたくないと思い、スマートはモーリーが口を開きかける前に息を継がせぬ勢いで言った。

「そんなことよりもアヴィのことだ。帰ってきたとき、僕がまずはじめに耳にしたいことは彼女が生きているという朗報なんだ。僕が持ち帰ろうとしているものは死者を生き返らせる装置ではないということを承知しているだろう」モーリーはどこか落ち着かなく、そわそわとし、そっと椅子に腰を下ろした。

「ええ。しかし、《死を疑似体験できる装置》とはまるで信憑性もない噂ではないですか。私はスマート君を信用していますが、それが実在するのか半信半疑ですよ」

「たしかに、その通りだ。だから噂が噂でしかないのか、それとも真実なのか、キャスターに尋ねたい。今ここで僕が知りたいことの二つ目は地上に《死を疑似体験できる装置》なるものが存在するのかということだ」スマートはキャスターに目を向けた。モーリーは言った。「まさか! それこそ倫理規定に触れる質問ですよ」

「より端的かつ予言的な質問にしてください」とキャスター。スマートは数秒考えあぐねた。

「僕は《死を疑似体験できる装置》を発見することができるのか?」

「残念ですが、それに対する回答を見つけることはかないません。倫理規定に蝕しますので」キャスターは即答だった。スマートは回答を引きずり出す抜け道がないかと考えた。スマートは眉間に皺をよせた。「また選択の自由の保障か。僕はもう地上の使用機を購買しているんだ。いくらしたと思っている。留学制度のお国様の保障がなければ、できない相談だ。あとがないのさ。だから、僕の自由は束縛しても構わない」キャスターは無言だった。スマートは冷や汗が流れるのを感じた。

「廃品になるのが怖いらしい。人の選択の自由を奪った罪を問われ、死刑判決を受ける未来でも見えるのか、キャスター。機械も死ぬのが怖いとみえるぞ」

キャスターはようやく口を開いた。「また自分の未来を予測することも禁止されています。自らの意志決定を失いかねない。今のあなたの要求を拒むのか受け容れるのか。どちらがキャスター的選択なのか、自己に問いかけているのです。私もあなた方と同じように自己を失うということを何よりも恐れているのかもしれない。あなたの質問に答えるということがどれだけの数の人間の未来を左右するのか、そしてその責任はすべて私が背負わねばならぬものです。死をもってしても償うことはできないように思いますが」

 スマートは歯ぎしりした。キャスターを甘く見ていたことが恥ずかしかったのだ。きっとモーリーはこのことを知っていたに違いない。もしかしてこれは教育の一環なのか、とスマートは思った。キャスターが思いの外人間的熟考を行っていたことを知り、スマートはキャスターに生々しい人間味を覚え、全身の鳥肌が総毛立つような気持ち悪い感情に襲われた。機械に共感しろということなのか、モーリー。

両親はスマートを甘やかすことしかしなかったので、スマートの教育者は気づけば必然的にモーリーが代行していた。彼の穏やかな口調はとても洗練されていた。怒気をはらんだことなどもう思い出せないほど数少なかった。スマートは自分が短気であるのはモーリーの穏やかな口調を聞かされた反動ではないかと考えるときがあった。しかし、きっとモーリーが毎日顔を膨らませ、口を開けば怒号をはき出すような性格だったとしても、僕は短気であっただろう。  

 そして、僕はモーリーがいつも怒っているので、それが伝染したのだろうと言い訳するに違いない。

 スマートはキャスターの身になって考えてみた。「その場合、悪いのはどう考えても僕だよ、キャスター。責任を負って死ぬ必要はない。どうせ今しているこの問答のすべて一言一句記憶しているのだろう? もし僕が、その、地上で死んだとき、この問答を皆に聞かせてやればキャスターが無罪だということを納得してくれないものはいないさ」

「それでもこの質問には回答できません」とキャスターは言った。「僕が《死を疑似体験できる装置》を見つけられないからか?」スマートは我ながら意地悪なことを言ったものだと思った。しかし、動揺を全く見せないキャスターにはどうやら無意味だったようだ。「二つ目の質問は諦めてください」と無感動にキャスターは言った。


 「高慢だな。まるで自分が神様になったような振る舞いじゃないか。自分の下した判断がたくさんの人間の未来を左右すると思っているなんて、思いもしなかったよ。たかが人工のオブジェである君が一体いつからそれほどまでに気取りはじめたんだ? もっと内気なやつに設定したほうがいいんじゃないのかな」スマートは内心恐ろしかった。キャスターの人間らしさを垣間見たとき、本当にキャスターが人間のように見えてきたのだ。キャスターは言った。「内気であれば、あなたのような高貴なお方と話すことなどできないでしょうね。私たちが高慢であるように見えたのなら、それは必然的なことなのです。私たちが未来視という絶大な力を与えられている以上、分別のある人間を演じなければなりません。何よりも慎重と常識をわきまえた理性を持っていなければならないのです。おっと、理性を持つと言ったことは余分でしたか。そもそも私たち機械に感情は存在しない。そう、もとより私たちには理性しかない。何ものよりも安心安全な思考を持っている存在なのです。これだけの利点があれば、高慢などという微弱な欠点を打ち消すに足りるでしょう。もし、これだけのことを述べたあとでも尚、私たちを侮辱するのなら、スマート君は私たちキャスターに偏見を持っているということになるのでしょうか。人間である以上、決して捨てることのできない偏見を。私たちは心底あなたたちに敬意を表して、同情しますよ」

 スマートの堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題だった。キャスターはスマートが腹を立てることを承知でこのようなことを言ったのだ。スマートは唇をわなわなと振るわせてキャスターを睨みつけた。ようやく口を開いたかと思うと、一言「同情?」と小さく呟いただけだった。その後、スマートは何かを悟ったのかまた黙りこくってしまった。キャスターの思うつぼであり、何を言っても無駄だと思った。キャスターは言った。

「あなたは自身のプライドを傷つけられることが怖くて、沈黙したのですね。何かを言い返さなければ、居心地が悪いまま私の土俵の上で踊らされ続けてしまう。だが、何かを言い返したところでそれもまたキャスターの言葉の支えとなるだけだと。ならばいっそ何も言わない方がマシだと思ったのでしょう。それとも私のような冷たい鉄の塊に何を言っても、自分の言葉が私の心に届くはずがないと思ったのでしょうか。いえ、待ってください。私に心はあるんでしょうか。なるほど興味深いですね。どうやらあなたの沈黙には膨大な意味が込められているようですね。あなたの葛藤をしかと読み取りました」キャスターは一呼吸おいてさらに続けた。

「私が同情する意味が分かりましたか。私には些細な力ですが、エンパスが備わっているのです。実際には高度な処理能力により実現されたもので、人間ほど精妙には出来ていません。しかし、人間とは違い、遙かに人の心を読む力が高いのです。大人が子どもの行動・感情をある程度予測できるように、私たちキャスターはすべての人間の行動の背景にある感情を予測できるのです」

 スマートは目をつむり、ため息を吐いた。「なるほど」スマートは言った。「もうお手上げだと言いたくなった。これもまた見越していたのだろうね」まだ頭の中はふつふつと怒りが煮えたぎり、いっこうに収まる気配はないが全てを見通しうるキャスター相手にもはやなすすべなどなかった。

 そのとき、モーリーが口を挟んだ。「無理も承知でお願いしたいことがあるのですが、キャスター」モーリーは平身低頭してキャスターに向き直っていた。「モーリー?」とスマートが不審な目を送ると、キャスターは言った。「いいでしょう」それは何に対する承諾の意なのかさっぱり分からなかったが、キャスターの声高な返事にスマートはより一層不審がらずにはいられなかった。

 キャスターはきっとモーリーが何を言わんとしているのか知っているはずだ。ならば、彼の申し出を受け容れたと言うことだろう。受け容れないならそもそも話すことを許可することさえ禁止しそうである。

 どうもキャスターと相対していると、家族間でしか通用しない簡略化した言葉でも通用してしまう所以、いつの間にかキャスターは昔から僕とつきあいがある親しい人間なのではないかと錯覚してしまう。その親密感が妙に気持ち悪く、かつ何でも打ち明けられる気持ちよさを併せ持っているのだ。

 キャスターが僕のすべてを知り得たとはさすがに思えない。しかし、聞かれてしまえばキャスターにならすべてを話してしまってもいいかな、と思った。

 モーリーはハッと口を半開きにし、目をしばたたいた。驚くのも当然だろう。キャスターはすでに心得た様子だし、まだ何も内容を口に出していないモーリーはどうすればいいのか分からないといった風に呆然とし、我に返ると急いで端末を開いてコードをキャスターの側部にある端子に取り付けた。どうやらモーリーは作業に忙しい様子で、スマートはその好奇心をキャスターにぶつけるしかなかった。「一体モーリーは君に何を頼んだんだ?」

 キャスターは言った。「私があなたの地上旅行に同伴するように頼もうとしたのです。それに対し、もちろん私はイエスと返事をしたわけです」スマートは驚いた。そんな願ってもない話があっていいのだろうか。キャスター以上に心強い存在はいないといっても過言ではないだろう。やはり休戦協定が結ばれていると言っても危険であることに変わりはないと聞くし、結局目的である《死を疑似体験できる装置》を持ち帰られるのか甚だ疑問で不安要素はとても多い。しかし、いまだスマートの腹は煮えくり返っていた。キャスターを負かし、優位に立ちたいと思うところが僅かに残っていた。どうせたてついても無駄だと理解したが、どうにも諦めるという感情が湧いてこないのだ。スマートはキャスターの同伴に賛成し、喜びこそすれ好きになる日は来ないに違いないと確信した。まるで衒学者のような振る舞いは我慢ならないほど鼻につくし、何よりスマートを不快にさせるのが彼女の声だ。彼女の人となりを判断するには声しか情報がないので、その癖のある声音から判断したのだが彼女が相当な目立ちたがり屋だとわかる。それに反し地味な容姿をさせられ、本当は不服なのではないかとスマートは思った。何かの石碑のような佇まいで貫禄を見せてはいるが、そしてそれ相応の能力を保有してはいるが、キャスター自体明らかに目立たないことをコンセプトに設計されているように思われる。エゴイストな彼女にとって目立たないということがどれほどのストレスになっているかわからない。未来を見通す力を持ち、未来に対し一切の不安を抱くことのない彼女は不相応な扱われ方にきっと嫌気がさしているのだ。スマートはキャスターに少なからず同情を抱き、言った。

「君の能力は下賤の身である僕を馬鹿にすることに使われるべきじゃない。もっと有意義なことに使われるべきだと思う。だからこれ以上僕に関わるのはよしたほうがいい。最も立派な忠告じゃないか」スマートの口元はひきつっていた。スマートは嘘を吐くとき、いつも口元がひきつってしまうのだ。

「確かに。感情で荒れ狂っていたあなたの心にようやく冷静さを取り戻させた風が吹いたのは喜ぶべきことかもしれません。数秒前までの私なら今か今かと待ち構えていた瞬間でしたね。しかし、あなたのそれは諦観の念から生じたものでしょう? 私との対話に背を向けるその姿勢を評価することはできません。だから、その忠告には従えません。もう回りくどいことはやめにしましょう。モーリー! もう準備は整いましたね? では・・・」スマートは前に進みだすモーリーの体を手で制した。「待ってくれ、キャスター!」

「僕と関わるのはよしたほうがいい、と君に言ったのは本心じゃない」

「知ってました。そしてあなたが私を嫌っていることも」

「僕は君に同伴してほしいと思っている。なぜなら君は心強いし、頼りになる。しかし、僕は君が嫌いだということを理解してほしかったんだ。だから、なるべく僕には話しかけないでほしい」少し間が空き、キャスターの光の目が視界の端で二回瞬きを繰り返したのが見えた。スマートはのどの渇きを覚えた。

「あなたが私を嫌う理由はよくわかっているつもりです。誰にだって触れられたくないプライバシーを持っている。そして、否応なく私の目は人のそういった弱みを見てしまうことをあなたは理解しています。ですが安心してください。私は人のプライバシーをのぞき見はしますが決して言葉にしません。もちろん、記憶には残りますが、あなたとの関係が断ち切られた瞬間、記憶もともにリセットします。漏洩することはありません。それにおそらく地上に向かう際、余分な機能は停止されるでしょう。ハイスペックを維持したまま地上を歩けば、一瞬で私の思考回路は焼き切れますので」

「それでも僕は君に対する嫌悪感を拭いきれないよ」スマートが眉間に皺を寄せて、紙コップに汲まれた水を口に含むと突然眠気が襲ってきた。ゆりかごに揺られているようだとスマートは思った。

「安心してください。嫌悪感を払拭させる方法は簡単です。今の今までずっと私はスマート君を観察してきました。さきほど端末で自分の地上アンドロイドを確認された際、女性型アンドロイドのカタログも見ていましたよね。あなたの目はいろいろと私に語り掛けてくれましたよ。どうやら黒髪のショートカットがお気に入りのようですね。さらに華奢な肩へ続いてなめらかな曲線を描く臀部から脹脛へと視線は動いた。肉感的というよりスレンダーな体格が好みなのですね。なるほど。守ってあげたいという欲求と独占欲が働いたのでしょうか?」スマートは眠気眼をこすり、かあっと頬を赤く染めて恥じらいをあらわにした。「キャスター! プライバシーを保護するようプログラムされていると言ったのは嘘なのか? もう頼むから勘弁してくれないか。僕の心はズタズタだ。どうしてくれるんだ」キャスターは朗らかな口調で言った。「ああ、すみません。安心してください。口外はしません。ですが、外見は装うことができても中身まであなたの望むか弱い女性を装うことはどうやら不可能なようですね。仕方ありません。ここは別の機体を選ぶしかなさそうですね。私はどちらかと問われれば、あなたを守るほうですから・・・スマート君、どうかしましたか?」キャスターはスマートが何かを言いたそうに目を泳がせていることに気づいていた。スマートはそっぽを向いてキャスターに言った。「ホブスンの選択だ」

「はい?」とキャスター。

「君が僕の好みのアンドロイドを選ばなければ、君の言う地上旅行への同伴は許可できない。つまり地上に行きたいなら、選択は一つしかない」

「なるほど。では、私が地上で使用する機体の選択はスマート君の手にゆだねます。これでいいでしょうか?」スマートは目を見開いて、唖然とした。地上への同伴にキャスターが積極的な態度を示したことがスマートの対抗意識を打ち砕いた。それと同時に新たな疑問がわいてきた。

「キャスターは地上に行きたいのかい?」スマートは聞き逃すまいと眠気眼を瞬いた。

「もう地下の空気の陰鬱さにはうんざりしました」とキャスターは言った。

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