第3話スマートの報せ

 スマートが帰宅すると、ドアにつま先を向けた靴が玄関に並列をつくっていた。スマートはその秩序だった、まるでABC順に並べられている単語のように見える美しい並びにはっとさせられた。きっと社会人としての義務や使命と呼べるものが学生としての宿題として僕達には課されているのだ。スマートはまだ居間への扉を開けずに、鞄の中に詰まった教科書類の中に挟まった和紙のように薄い安物の紙でできたプリントを取り出した。このような薄い紙で指を切ることはないので安心だが、どうしてか保護者へのお知らせやアンケート調査に使われる紙は鋭く固い。切れるのは一瞬であった。薄い紙を自室が開け放たれていたので、何も見えない暗い闇の中に放り込むと、より重要な書類を取り出した際に鞄を掴んでいた左手人差し指を深く切った。痛みはなく、スマートは当分気づかなかったが、居間で在宅ワークをしていた母親が気づいた。「あんたの朱印が押されてるわ。万が一、家に泥棒が入ってきたら誰が共犯者か丸わかり」スマートは扉を振り返った。そのまま何も言わずコンピューターにデータを打ち込む母親の後ろ姿を見て、台所に入った。ずいぶんと深く指を切ってしまったようで、血は数分の間止まることなく流れ続けた。母親がプリントの端に赤い指紋がついているのをスマートに見えるようにひらひらと風に揺れるシャツのように示して見せた。窓の外のベランダに干された洗濯物類が風に煽られ激しく揺れていたのだ。まるでそれらはメトロノームのようだった。スマートの意識は次第に朦朧としはじめた。水の冷たさが指を伝って、全身に広がり、寒気がした。突然、水の流れが止まる感覚と同時に蛇口をひねる音が耳朶を打った。母親は顔に皺をつくり、いらだたしげな棘のある声音で言った。「もったいないじゃない」芝居ぶった低音の口調で水の出し過ぎ、と付け加えるとスマートの目線の先にあるものを見た。「あ、ヤバい」そう言うと、窓辺に駆け寄り、ちょっと手伝ってと言った。

 スマートはそのいつもの母親の調子に落ち着きを感じた。指の切れ目からまだ血が流れているのが始終気になった。放っておくと次第にかゆみが襲ってきた。「あんた何してるの?」洗濯物を掴んでぼうっとしていたスマートは我に返った。「ぼうっとしていただけ」自分の声が自分のものでないように聞こえた。自分の踏みしめている地面は本当にこの世界の大地なのか。実際はマンションのベランダなのだが、今自分のいる世界は本当に地下に存在する世界なのか。スマートは分からなかった。もし、これがすべて妄想であれば僕の抱いている感情は綺麗に片付けられるだろう。僕は僕に疑いの目を向けている。僕を見ようとする数少ない人間、家族やアヴィ、彼等の方が僕という人間を正しく見ているように思う。彼等の見ているスマートこそが本当の僕自身の姿であり、僕が見ているスマートはスマートではないのではないか。もし、家族もアヴィもいなくなった世界に一人残されたなら、僕は自我を保てるのだろうか。もう少し時間が経てば、僕はそのとき独りになるような気がする。独りになる場所はもう分かっていた。スマートは窓の内でサイレント的演出を見せるテレビの映像を見た。そこには地上世界が映されていた。赤色の砂地が広がる大地にキャラバンがいくつも無秩序に並んでいるのが映っていた。次の映像に切り替わると、カメラのフラッシュを浴びる二人の男が握手を交わしていた。地上で繰り広げられていた戦いの休戦協定だった。地上の世界が映ると、陽炎が立ち上る世界の中で一際目立つ存在があった。背中に通気口の穴が空いた女性型アンドロイドが宣伝のように美しい立ち居振る舞いを見せていた。地上世界に足を運ぶにはそのアンドロイドに精神を送り込む必要があるのだ。本来の肉体で行くことは禁止されている。なぜならば殺し合いに巻き込まれ、死亡する恐れは地下世界と比較すればかなり高く、さらに地下世界から放出される熱エネルギーと上から降り注ぐ太陽熱で僕達の脳組織は機能停止を引き起こすからだ。僕達はものの数分で体内の水分を失い、傷から血があふれ出ることもなくなるだろう。それは僕達がどうしようもなく、機械の身体を用いなければならないことを意味している。僕達はかつての偉大な王のように眠るのだ。魂の抜けた肉体を安全な地下世界の生命維持装置の中に横たわらせ、地上世界を見て回ることができるようになった。スマートは緊張と興奮が入り交じる思いを胸に抱き、テレビの映像に釘付けになった。一度でいいから行ってみたいと思いはしたものの、本当にその願いが叶うかもしれないとなれば、今日の夜は眠れそうにないほどの酔いに浸れそうだとスマートは目を輝かせた。もしかすれば、アヴィとともに向かうことができるかもしれない。

 手伝いをすませたあと、自室に籠もり机につくと部屋に散らばる娯楽の変な誘惑に駆られつつ、Bノートを開いた。そこに英語の単語を綴っていく内に再び意識が地上世界の休戦協定に傾けられた。かりかりとシャーペンが紙の上を滑っていく音が響く中、その音がいつもより気持ちの良い音に感じられた。手がリズムに乗ってすらすらと止めどなく動いていた。しかし、頭の中を占めていたのはどうやって学校を休学し、親を説得し、地上世界に行くのかという全く無関係なことだった。それについて考えることはスマートにとって単語を覚えるよりも有意義で退屈しなかった。

 スマートが手を止め、痛みに疼く指にちょっとした快感に似た刺激を感じたとき、扉にノックの音が鳴った。スマートが傷口から滲み出た血を舐め取り、言った。「なに?」扉を開くと、母親が片手に端末を持ち立っていた。母親は少し神経質そうに顔を歪めて言った。「モーリー医師から電話よ。大事な話だって」スマートはどうして僕ではなく、わざわざ母親に最初の連絡をしたのか気になった。スマートに連絡をすることに気が引ける内容であったため、とりあえず母親に意見を仰ぎたかったのだろうか。スマートが端末を手に取ると、端末が若干湿っているのが分かった。向こうからモーリーの声が聞こえた。「お、落ち着いて聞いて欲しい。ア、アヴィ君が自殺を図った」珍しく彼は落ち着きを失ったようにどもりながらの口調だった。スマートは彼のたった二言で平静を失った。頭の中を泳いでいたすべての雑念が取り払われ、アヴィのことに集約されたのだ。息がつまり、頭がクラクラしはじめた。スマートの鼓動が早鐘を打ち始めた。アヴィは生きることを諦めたのだ。

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