第2話アヴィの部屋
スマートがアヴィの部屋の扉をノックすると、くぐもった声が聞こえた。「入って。散らかってるけど」どうも彼女の部屋は散らかっているらしい。スマートが部屋の中に入ると、相変わらず灯は点いていなかった。彼女は窓の下で足を抱えて座っていた。まるで窓から差し込んでくる光から逃れるような格好だった。青白い光が彼女の肌を青白く染めていた。目の下に隈があるのが見えた。やせこけた頬に力の無い瞳、何度も殴られたあとには紫と黒の痣が見えた。スマートはいつもと同じ笑みを浮かべて、彼女のひどく冷徹な態度を眺め、部屋の角に腰をおろした。近づくとアヴィは怯えるのだ。スマートは言った。「気分はどう?」いくつかの質問をした。スマートは終始、笑っていた。「日光に浴びることは身体にいい。そんな暗いところに座ってないで、もっとこっちに来たらどうだい?」暗い部屋の中で何かが行われていた。この部屋は現実ではない。亞空間に閉ざされた異質な空間だ。聞こえない声に悩まされている感覚がスマートの脳内に侵入していた。スマートは咄嗟に耳をふさいだ。すると、視覚が強調された。スマートに見えたものはずっと窓のしたで沈黙のまま座っているアヴィの姿だった。部屋の中は家具調度が一切なかった。スマートの意識はただ一点、アヴィに向けられた。アヴィはこの部屋で殴打されるために生きているようだった。耳を塞いでも声は絶えず聞こえてきた。アヴィの両親の声に似ていた。彼等の怒号とともに身体全身が冷え切るような言葉の数々が聞こえてくる。殴れと言っていた。今ここで殴れと強い感情がスマートの頭の中に響いてきた。スマートは拳を固く握りしめ、立上がった。スマートはまるで彼女を殴打するためにこの場にいるように感じた。スマートは両足を杭で打ち付けたかった。もしここで一歩でも彼女に近づけば、彼女を殴りかねない。彼女は今、スマートに対し両親の顔を見ているのかもしれない。スマートはアヴィが震えているのが見てとれた。顔は無表情を装ってはいるものの、おそらくそう躾けられているのだろう、不愉快そうに歪められていた。『そうだ。やつは顔を歪めた。だから殴れ。そうして躾けなければ、やつはすぐにつけ上がる。顔を歪めたとき、殴られるという条件反射を覚えさせるのだ。一度は聞いたことがあるだろう? パブロフの犬だ。それは犬を躾けるようにすればいい』きっと自分の中にも彼等と同じ血が流れている。そこに一切の差違は見られないだろう。だが、社会はどうしようもなくアヴィとスマートを差別しているのだった。ただ性別という点だけではない。彼女は間違った医師にかかり、スマートは正しい医師にかかり、彼女は異端として社会から排除されかかっている。彼女を排除することは正しいことだと、両親の行為は正当なものだと、社会が容認しているようにスマートの目には映っていた。それが社会の維持したい秩序だというのなら、そんな社会は破壊せざるを得ない。
しかし、この胸に滾る怒りは今、発散するためのものではないとスマートは拳に溜めた力を緩めていった。スマートの目に秩序だって見えたアヴィの部屋はどうやら彼女自身の目には無秩序だって見えているようだった。彼女の瞳が意図して部屋を散らかしているのだと物語っていた。部屋に散乱しているように見える無機物はすべて意味を持って配置されていたのだ。しかし、スマートにとっての散乱物は影に隠れ、よく見えなかった。スマートはいつもそっと彼女の部屋に入らねばならなかった。アヴィの両親は彼女の部屋に他人を入れることを許さず、万が一他人の痕跡が残っていたのなら、万が一部屋に秩序だって配置された無機物の位置がほんの数ミリでもズレていたなら、きっと癇癪を起こし、暴力を振るうその手の骨が折れるまで彼女をぶち続けるだろう。
スマートは彼女を守りたいと思うが、一度だって喜んで彼女の部屋に入ったことはなかった。一段へりを超えるとき、スマートの足がぴたりと静止する。これ以上先に進めないとスマートは瞬間思ってしまい、その思考の渦にずっと囚われてしまう。もう最近では耳を塞がずにアヴィの部屋に足を踏み入れることはできなくなっていた。
スマートの話すことがなくなると、アヴィは震える声で言った。「もう出てって」幼なじみであったのにも関わらず、アヴィの警戒心を解くのにずいぶんと時間がかかった。それでも一定の時間を超えると再び彼女はスマートに敵愾心を見せ始める。スマートが自分を笑いものにし、楽しんでいるように見える。もし僕の心がすべて彼女にお見通しになったとしても、彼女は僕を信頼しないだろうとスマートは確信できた。疑心暗鬼に陥った彼女は機械の示したデータでさえ疑うという力を得てしまっていた。
スマートを見透かして、虚空を見つめているような彼女の瞳に吸い込まれそうになったとき、涙を堪えて分かったとスマートは言った。まだ十代の女の子の、虚空を見つめ、眉間に皺を寄せて、深淵を見てしまった後のような絶望感を湛えた顔など見たくなかった。まるで心の奥底に宿った、他人に知られたくない僕でさえ知らない悪意を見透かされているようだった。彼女が見ているものは僕ではないとスマートは思った。彼女が見ているものは僕の心底に沈んでいるだろう、弱者を嘲笑する悪魔の種だ。そう思ったとき、アヴィの声が耳朶を打った。
「もう出てって」その声音は依然として変わらなかったが、スマートは全身総毛立つ恐怖に駆られた。スマートは脱兎のごとくアヴィの部屋から出たい衝動に駆られたが、そのはやる気持ちを彼女に悟られたくない一心で抑えつけた。いつもの調子で靴の裏の土を外に払うと、彼女の目から逃れるように夕日が差し込む路地まで早足で歩き続けた。傍観者に甘んじてきた僕の心を抉るような目線だった。何もしないことの罪がスマートの目の前に深く大きな暗雲として立ちこめていた。何も変わらないと思っていた彼女との関係に変化が表れ始めているのかもしれない。この地が本当に地下に存在し、僕達の天井のさらに上に地上世界が広がっているのなら、そこに救いを求めることができるだろうか。一見すると、この世界は地上であることを疑う余地がないものだった。しかし、空も雲もすべては人工のものであるし、朝になれば僕たちの街を照らしに昇ってきてくれる太陽も人の手によって動き、光り輝いているのだ。それが真実であると僕たちは疑おうとしなかった。それでもスマートはたびたび、地下で暮していながら、ここが本当に地下都市なのか分からなくなっていた。衛星に透視システムが搭載され、地下都市でさえ監視できる環境が整って以来、僕たちは安全な暮らしを手に入れることとなった。もしここが地下空間につくられた都市であると保証できるものがあるなら、僕は信用したかもしれない。しかし、それらしい証拠も無ければ、結局その目で実際に確認しなければすべては半信半疑のままだったのだ。スマートはきっと僕以外にも地下と地上の存在に疑問を抱いている者がいることを信じていた。おそらく皆は僕のことを視野の狭窄な人間だと馬鹿にするだろう。他人の見てきた世界をあらゆる資料や映像などで確認ができれば、それを信じることこそ視野を広げ、新たな理解を得ることにつながると。
僕はいつも自分の世界に閉じこもってきた視野の狭い人間であるとスマートは自覚していた。地球は地上と空でつながっており、いくら離れていようと今まさに人の生き死ににまつわる瞬間に立ち会っている者もいれば、堕落した瞬間にいる者もいる。それらすべてを見ることが可能となった時代で、それを疑う者など存在しない。しかし、情報が常に正確とは限らない。そして自らの目で見たものをただ一心に信じることも危うい。見えた者は表面だけだったかもしれない。そう思えば思うほど、スマートは地上も地下も存在しないように思えてきた。
地上で無慈悲な殺し合いが続く中、その報道を続けてきた報道機関は最近静かになっていた。地上の科学技術は軍事に特化し、人の生き残る余地がないほどの激しい戦いが繰り広げられていたのだった。殺し合いをよしとした地上と殺し合いをよしとしない地下を比べたとき、どちらがより人間を繁栄させることができるのかは一目瞭然だった。もうやむを得なくなったゆえに殲滅しあい、沈黙が降りているのか。これ以上の殺し合いは無意味だと妥結したゆえの沈黙なのか。まだ続く報道はきていない。
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