死のレプリカ
別家伝家
第1話スマートの計画書
専属医の前に座るといつも肩に力が入り、自然と奥歯を噛みしめていた。彼に勧められ、椅子に腰掛けると、その緊張も和らいだ。専属医はにこやかに言った。「今月の計画書です。ちゃんと守ってくださいね。もしものことがあれば責任は私にもあるのですから」この丁寧な物腰はこいつのくそったれな専売特許だ。人は初対面の相手と話すとき、少しは警戒心を抱くものだが、そこで笑顔を見せることで相手の警戒心はほとんど薄れてしまうものだ。だがしかし、モーリー医師のそれはスマートにとって次第に胡散臭いものへとなっていた。スマートはモーリーに苦笑をして見せ、「もしものことがあればモーリーさんは藪医者扱い。あなたの沽券に関わる問題ですからね」と常套句のようにすらすらと言った。意地の悪いスマートの言葉にモーリーは渋面をつくり唸った。まるで演技のような彼の態度はおそらく、いい返答が思い浮かばなかった所以だろう。その顔が見たかったのだとスマートはついしたり顔になった。外に出かけるとき、顔を氷で閉じ込めたみたいに無表情を固めているのに、どういうわけかモーリーの前ではそれが崩れてしまう。彼の技能がそうさせているのだろうか。友情など芽生えない関係性であるモーリーに自らの本性をついついさらけ出しそうになる自分にたびたび嫌悪感を抱く。それをはたと思いだし、スマートはいらだった。モーリーは言った。
「そういことではなく、スマートさんは私の大切な患者です。あなたのお体が心配なんです。どうか分かって頂きたい」スマートは分かったと手を上げ、席を立ち礼を言った。さっさと帰りたくなったのだ。医者は慌てて早口に言った。「待ってください! まだ簡単な心理テストが残ってます。これを行ってからでないと困ります」心理テストなどしたくなかった。スマートは額に手を当てもみほぐしながら口元を歪め、ため息をついた。これはいわゆる基本的な権利ではなく、特権なのだ。専属医に係りたくとも係れない人は少なからず存在するのだ。今や毎月一度、国民は健康診断を受ける義務を持っているにも関わらず、それを十分に享受できないものがいる世の中で、自分は贅沢なのだと自覚しなくてはならない。アヴィの顔が脳裏にちらつく度に、スマートの胸がずきずきと痛むのだった。しかし、これはお門違いだ。ぼくが苦しむ必要はないとスマートは言って聞かせた。スマートの顔に脂汗が浮きはじめ、ありありと苦悶に満ちた表情を浮かべているのを見て取ったモーリーはすかさず、肩に手を回し、椅子に座るよう促した。「何かあったのですか?」とモーリーは言った。
「今日またアヴィの様子を見に行く約束がしてあるのですが、どうも彼女の姿を見る度に彼女の係った医者を思いだしてしまうのです。やつを許してはおけません。まだ警察でさえ…いや彼らを悪く言うつもりも医者を侮辱するつもりもないんです。ただここ一週間やつに対する恨みを募らせていく内に、やつをこの世から末梢したい思いで胸が張り裂けそうになるんです」スマートは感情が高ぶっていた。口から心臓が飛び出すような気持ちの悪い感触を覚え、一度深呼吸をすると先ほどとは打って変わってモーリーをすがりつくような目で見た。モーリーはスマートの気迫に気圧され、一拍おいてスマートの目を真っ直ぐに見て言った。「そんなやつのことは考えない方が一番です。何よりまだ君は十八。これからの人生をやつのような人間に割く必要はありません」モーリーはその間、スマートが呼吸を整え冷静沈着な本来の彼を再び見るようになるまで待ち続けた。スマートは低く冷めた声音で言った。「しかし、ぼくはアヴィにこれからも会い続けるつもりです。そして彼女を見る度にやつを思い出すのでは、もうこの恨みを晴らさないではおかないのです」しんと張り詰めた静寂が支配した空間でアナログ時計は規則的なリズムをとり続けていた。一種異様な空気が流れているのをモーリーは理解していた。ただスマートがどうしてやつを殺したいなどと急なことを言い出したのか、その要因を必死に考えようとした。スマートがやつに対し抱いている感情にばかり気を取られ、彼の言ったことを現実には受け止めていなかった。沈黙の中で答えは出なかった。モーリーが何かを言う前にカーテンの向こうで作業をしていた看護師が見かねて声を掛けてきた。「そろそろお時間よろしいですか?」モーリーは我に返ったようにスマートから一歩退き、不安げに顔を曇らせつつ言った。「しかし、まだテストを」「今日はもう帰ります。ありがとうございました」とスマート。モーリーははっと驚いたものの、これ以上スマートに接するのは躊躇われた。今の彼は容易に足をつっこんではいけない泥沼のように思われた。すぐあとには、スマートは吹っ切れたような顔をし、来たときと変わらぬ様子になっていた。すべては正常な流れに戻っていたのだ。
計画書を手に入れた時点でスマートの用は済んでいた。その後に専属医とお茶会などしている暇は今日のスマートにはなかった。この後にはアヴィと会う約束がしてあるのだ。扉のノブに手を掛けたとき、モーリーは念を押すように付け加えて言った。「本当に計画書から外れたことはしないでくださいね。計画書は絶対ですよ」スマートはあっけからんとして言った。「分かってますよ」
スマートは一度足りとて計画書から外れた行為はしてこなかった。その成果があってこそ現状、命に関わるような病に冒された経験はなかった。今になって環境はかなり改善されたものの、未だこの地下都市の衛生管理は隅々まで行き届いていない。劣悪な環境下で健康な身体を維持することは神頼みにすがるほどの困難を極めていた。スマートが定期検診だと受付の女性に告げると、変に間延びした声で確認をとりはじめた。彼女は一度もスマートと目を合わせようとせず、じっと手元の紙をぺらぺらと捲っていた。彼女の顔には一切の感情がなく、貼り付けられた仮面のように微動だにせず、口周りの筋肉のみが動いていた。スマートはそれを見てまるで自分をみているようだと思った。湿気でがさついた髪を手で梳きながら、スマートは心地の良いクレゾールの匂いを鼻孔に残し、曇天広がる外にでた。よくできている。空はホログラフで覆われた偽物の空、当然偽物の太陽も浮かんでいたのだが、湿気は本物だ。おかげで整えたはずの癖毛はいつの間にか湿気を含み、元通りはねていた。おそらく地上で降った雨が地中にしみ、この地下の気候に影響を与えているのだろうとスマートは嫌々ながらに思った。見え隠れする太陽は人間の前に姿をさらけ出すことを恥ずかしがっているような顔をしていた。
土手から河川敷を見下ろした限りにおいて、景色そのものがさみしくなっていた。以前来たときは青々と生い茂った草木が丁寧に剪定され、さらにスポーツウェアの人影が多かったように思う。スマートは少し沈んだ面持ちで、互いに無関心と無関係を保つ見知った顔が並ぶ列に自分を滑り込ませた。そこはとても落ち着く場所だった。ここに自分がいるということが当然のことのように思われた。しかし、その全くのアウェー感のなさにスマートはどこかむずむずする心地の悪さを覚えはじめていた。早朝の冷たい空気が肌をないでいき、いらぬ不安も心配も抱くなと言っているようだった。計画書は変更された。先月の早朝なら自宅内でストレッチをしているところだが、今月からジョギングとなった。急な運動は、特に寒い冬の季節に限って、身体に大きな負担となることがある。脳梗塞や心筋梗塞に襲われ、亡くなる人は多いのだ。それを防ぐためには徐々に身体を早朝の運動に慣していかなくてはならない。人がいる中で運動する環境にも慣れなくてはいけない。スマートはちらちらと周りの人に目を配らずにはいられなかった。落ち着きのない態度に周りが不信感を抱こうが、お構いなしだった。彼らは毎度見る見慣れた顔ぶれだった。見慣れたものしかいなかったように思う。スマートがいくら彼らに関心を向けようと、彼らはまるでスマートが見えていないかのように無関心を装っていた。彼らは皆この世界では孤独だ。彼らがおしゃべりになり、人にただならぬ関心を向ける世界はここではなくなり、もう一つの世界がその役割を担っているのだ。スマートは一人になりたいと思い、彼らを追い越していった。右足が地面を踏みしめる度に、白くなった息が目の前に現れた。スマートが鉄道の下を走りゆくと、聞こえる音は彼のあえぎ声のみとなった。内から吹き出るような汗が身体を這っていく感触は気持ちのいいものではなかったが、不純物を洗い流したような爽快感は少なからずあった。スマートが辺りを意識し見回すと、そこは彼の知らない場所だった。ずっと変わらない風景が続く中、先ゆく道をずっと目で辿っていくと白く巨大な総合病院が建っているのが見えた。勢い余って走りすぎたようだった。来た道を振り返り、呼吸を整えつつ歩きはじめた。もしかすればアヴィも自分と同じように早朝のジョギングを楽しんでいるかもしれない。しかし、彼女がジョギングをする場所はここではないだろう。彼女がジョギングをする場所は《アナザーワールド》だと、彼女がどちらかと言えば《アナザーワールド》を好んでいることをスマートは知っていた。《アナザーワールド》に肉体こそ飛ばせないものの、意識はたやすく送ることができる。僕たちはついに肉体の縛りから解放された無限の世界を手に入れたのだ。そこではもはやできないことはない。すべての夢をたった一人で叶えることができるようになった。
スマートは空を見上げた。しかし、実際は空ではなく、天井であり地上と地下を隔てる蓋なのだ。この世界に名前がないことがおかしく思えた。この世界こそが僕の夢の産物なのではないかと思うことが日に日に多くなり、増していった。本物も偽物も、その二つの間に境界線などないと思いたいが、スマートはたった一つの真実を知りたかった。その為に、ある一つの計画を練っていた。スマートの目先にゲートが見えた。最後にゲートを通過すれば、走った距離とともに計画書を無事遂行したことを端末に記録してくれる。国が作ったものではなく、誰かサービス精神に溢れた個人が設置したものだった。計画書を作成できるものはせいぜい中流階級以上の人びと。スマートはゲートを通過してゆく人びとの列に加わった。彼らはすべてこの地下で多少なりとも恵まれた生活を送っている人たちだ。スマートはやり場のない苛立ちを感じた。アヴィを思い出したのだ。十分なお金がなく、藪医者に係ってしまった特別に不運な女性だ。彼らがゲートを作ったことは特別におかしなことではなかった。しかし、スマートの目には目先のゲートが歪んだ形をしているように見えた。人の生活を豊かにするためのモノは日々発展していき、人に快適な生活を与えたが、アヴィにこれらのモノが一体どのように見えているのか、スマートは今まで気づかなかった。結局、アヴィ本人にしかわからないことだが、それよりもスマートの興味を引いたのはアヴィの容態である。
スマートはゲートを通過し、自宅マンションに向かって歩きつつアヴィのことを想った。アヴィは日に日に体の肉が落ちているようだった。目に浮かぶ瞳は虚ろで、頬骨が張り出し、髪はパサつき、手足は棒切れのそれだった。明らかに何日も何も口にしていない風貌だった。これが藪医者の言うところの魔法の薬の影響なのだった。そんなもの存在しないのに、彼女は安易に信じた。彼女は藪医者の言いなりだった。彼女は藪医者に頼るしかなかったのだろう。両親は彼女を邪魔者扱い。暴行を繰り返し、酷い時には誰だかわからなくなるくらいにアヴィの顔は腫れ上がり、スマートは腹が煮え繰り返る思いをした。向かいの棟まで廊下を伝ってゆけば、彼女の暮らす部屋があり、そこには彼女の日常があった。いつからか別々の道を歩くようになり、スマートは親の会社が成功をおさめたことで、もっとより高いマンションに引っ越した。ふと彼女に会いにいきたい衝動にかられ、かつて住んでいたマンションを訪れようと思い立ったが、しかし彼女の両親の顔を再び見たとき、得体の知れない感情がスマートの頭の中を覆い尽くした。目の前にいた彼女はスマートと両親の間に入っていた。もし僕が彼女の両親に危害を加えれば、仕返しをくらうのは僕ではなく、彼女なのだった。もう二度と頭に血が上る思いをしたくないとスマートはそのとき思った。
無意識のうちに道ある道を歩いていると、スマートは物心がついた頃から住んでいた馴染み深いマンションにたどり着いていた。彼女に会うつもりはなかったが、足は自然と彼女の元に向いていた。スマートは彼女の元に足を向けると、心が動揺で乱れ、怒り心頭に発しそうになることを自覚していた。いま怒りの矛先は彼女の周囲をうろついている胡乱な医者に向けられていた。両親に関する問題を解決に導くにはあまりにスマートは感情的すぎることに気づいた。つまりはスマートが間に入ることで、余計彼等の家庭に混乱を招いてしまうと思ったのだ。アヴィの家庭の話になると、慎重にならざるを得ない中、スマートはそのスマートさを発揮できず、ただ彼女を守らねばならないというくだらない責任感を抱くだけだ。くだらないと母親に言われたのだとスマートは覚えていた。母親と父親が、おそらく恵まれた両親をもっていながら、スマートにとって彼等は理想の両親ではなく、とても子供心ながらに怖かったことを覚えている。今は父親も母親のことも愛しているが、ただし彼等が会社のことを話し始めると、やはりそれが子ども時代のトラウマになっているのか、近づきがたい雰囲気を醸し出しているのを感じてしまうのだった。
母親の言葉を思い出した。「くだらない。道は自分で選ぶものなの。彼女を不幸に招いた存在がスマートであろうと、スマートに招かれた道を歩くことを決めたのは彼女自身じゃない。責任はスマートにないわ」しかし、スマートは少し賢かった。母親の言葉を素直に受け入れることなどしなかった。甘やかすような教育をしてきた両親はだがしかし、ほとんど仕事でスマートと遊んでくれる時間など作れず、親らしいことを全くできていないことに責任感を感じていたのだろう。だから、子育てに不慣れな母親は少し間違った場面で、ずれた甘い言葉をよく言ってしまうのだった。そのことをスマートは段々と理解し始めている頃だった。両親の囁く甘い言葉はいつだってすがりつきたくなるような悪魔のささやきだった。スマートが良かれと思ってしていたことが裏目に出、彼女の両親の逆鱗に触れ、結果として彼女が保ってきた安寧の関係を崩すことになり、彼女を傷つけることになっていたなど知りたくなかった。
今でも彼女はきっと僕のことが嫌いなのだろう、とスマートはため息をついた。マンションから離れたとき、彼女に会いに行く気はとうに失せていた。今会えば、きっと僕は我慢ができなくなり、彼女が僕を追い返そうと掴みかかってきたときには、僕は彼女の棒きれのような細腕を割り箸のようにたやすく折ってしまうだろう。それが現実になれば、僕は彼女の腕を折ってしまった自らの腕を両断しなければ気が気でなくなる。そして、気が触れた僕は晴れて彼女の仲間入りを果たすのだ。
今日もアヴィは休みか、と教師は言った。教室の片隅にポッカリと空いた席はアヴィの席だ。彼女の机の中には周りの席に座っているいけ好かないクラスメイトたちの教科書で埋まっていた。彼等が男であることが余計に許せなかった。アヴィの席はほんの数回しか使われていないゆえに、彼等のしていることは有効活用と呼べるものだが、スマートは絶えず彼等の顔を見る度にいい気はしなかった。彼等の中にスマートの担任教師も含まれていた。彼は呆れた口調で言うのだった。「今日もアヴィは休みか」わざわざ声に出さなくとも誰が休んでいるかなど、皆把握している。絶えずアヴィの席は空席なのだ。そのことはクラスの誰もが理解していることだった。彼等が知らないことは山ほどあるが、スマートにとって重要なのはスマートとアヴィの接点を彼等が知らず、担任教師だけがスマートとアヴィの接点を把握していることだった。スマートは教師の目線の先にいるものが自分であると分かると、内心ため息をつき、窓の外に視線を転じた。いつものことだった。彼は言っているのだ。「アヴィはいつから来るのか。すべてはお前にかかっているのだ。私は忙しくて、一人の生徒にばかり構ってやれる暇などないのだ」あの教師はきっと彼女の抱えているものを理解しようとする気などさらさらない。そして、気づいているのだ。本当に自分がやれることには限界があり、もっとも親しいスマートにすべてを任せることが最良であると思っているのだ。そんな言い訳など聞きたくなかった。ただ何もしたくないし、責任を一切持ちたくないのでと言い訳をし、すべてをスマートに押しつけているだけだ。ここにはすべてが揃っている。傍観者も加害者も被害者もみんな一緒くたにされ、クラスの中で配置されていた。それぞれが果たさなければならない使命を持ち、割り当てられた役割を制限された世界の中でこなしていた。
昼休み、クラスの中で何かが議論され、四方から意見が飛び交い始めた。しかし、スマートは教室の片隅で気になっていた女の子に二人が専攻していた世界史について教鞭を振るっていた。モイラは言った。「世界を牛耳るために必要なものはお金ってことね」スマートが彼女の艶やかな肉付きのいい太ももに見とれていると、モイラは教科書から目線を上げた。「聞いてる?」ボーイッシュな髪型に健康的な茶色に焼けた肌は、彼女の性格を反映していた。なぜ彼女のような体育系の人間が文化部の盛んな学校にいるのか、甚だ疑問ではあったのだが、それも体育大会の日に明らかになった。彼女はその見た目以上に運動神経がよくなかったのだ。その事実は彼女一人の責任ではないが、クラスの皆に失望と敗北をもたらした。体育大会でダンスのパートナーであった身としてスマートは彼女に彼女の周りに集まってくる女子たちと同様、優しい声をかけたい衝動にかられた。彼女はスマートの目にとまっていたのだ。今がチャンスだと言わんばかりにスマートは彼女に近づいた。彼女は天真爛漫で、きっとスマートは彼女に癒やしを求めていたのだろう、いつも輝くばかりの笑顔を見せてくれるのだ。誰が近づこうと追い返す仕草を一切見せなかった。しかし、スマートが話しかけようと近づいたとき、彼女はやはり体育大会の失敗で落ち込んでいたので、彼女の返事はとても冷たかった。「ごめんね。ちょっと疲れてるの」スマートはつとめて相好を崩した。落ち込みは人に伝染するのだ。「そうなんだ」スマートがその場を立ち去ろうとしたとき、モイラは言った。「全然関係ない話するけど、スマート君って歴史詳しいんだね。この前のテストベストワンだって聞いたよ。すごいね。今度も頑張ってね。応援してる」あまりの唐突な褒め言葉にスマートはたじろいだが、彼女の微笑を見て胸がすく思いがした。彼女の優しさは冷たい返事をしてしまった罪の裏返しなのだろう、とスマートは思った。いつの話かも思い出せないテストの話を持ち出され、驚いたものの彼女がスマートのことを多少なりとも認識してくれていたことに笑みがこぼれた。それ以上話を続ける勇気のなかったスマートは立ち去り、心地の良いリズムを刻みながら、階段を駆け上った。
詳細は思い出せないが、あの日以来モイラに世界史を教える機会が何度かあった。今日はその何度目かの二人の時間だったのだ。誰にも邪魔をされたくはない。しかし、スマートの思いはあっけなく打ち砕かれることになった。クラス中でなされていた議論に終止符が打たれようとしていた。一人の男子生徒が大股で近づいてきた。スマートとモイラの手前で足を止めると、むすっとした顔のままスマートに言った。「アヴィさんのお見舞いに行きたいんだ。だけれど、おれたちは彼女がどこにいるのかもわからない。まして、いや、きっと行ったならば追い返される。そこで、もしかしたらスマート君なら彼女を知っているんじゃないかと思ったんだ」スマートは彼が気に食わなかったので、彼の頭からつま先まで睨みつけ、何も聞こえなかったかのように再びモイラに向き直った。すると、男は苛立ち気味に言った。「担任に言われたことなんだ。アヴィは病気だから、お前達で一度お見舞いに行くことを薦める、と言われたんだ。でも、ほら。おれたち彼女をよく知らないし、行っても相手にされないだろう。なぜいまになって担任の奴がおれたちにそんなことを頼むのか疑問には思ってる。そこはお前と同じだよ」スマートはいっそう気分が悪くなってきた。もしこのまま彼の話を聞き続けたなら、彼の歯を折る勢いで殴ってしまいそうだ。前頭葉の働きが感じられる。頭の前頭部が熱くなり、次第に胸の内がむかむかしてきた。スマートは無言で彼らの誰とも視線を交わさずに教室から出て行った。後には静かな足取りでモイラが付いてきていた。モイラが後ろを振り返り、誰もついていないかを確認した後、はっきりと言った。「わたしあの人たち嫌いだよ」スマートは失笑した。
放課後、クラスの彼等と顔をつきあわせたくなかったので、スマートは担任教師になぜアヴィに彼等をぶつけようとするのか聞いた。彼は疲労しており、アヴィの話を持ち出すとひどく神経質そうに顔を歪めた。教師が生徒にしていい顔ではないと思ったが、スマートにとってすでに彼は教師ではなかったので、意外ではなかった。スマートの眉がびくついた。怒りと失望だ。彼は何やら言葉を途切れ途切れに、愚痴をこぼすように言った。「どうでもよくなってね。先生は疲れたから、君たちに託すよ。それが一番だと気づいたんだ」今の彼に何を言っても無駄だと思った。スマートが冷えた廊下に出ると、モイラが手をこすりながら待っていた。犬のように誠実で忠実なものだ。
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