第三章

第18話

 月明かりが照らす夜道を女性がひとり歩いていた。

 薄暗がりの夜道は不気味な雰囲気を漂わせており、今にも魑魅魍魎といった類いの存在が出てきそうである。とはいえ、この科学旺盛の時代。今更そのような存在を信じている人はおらず、まして今はそれ以上に恐ろしい存在である幻獣が一般に認知されている時代だ。なにか不可思議なことが起これば、幽霊の類いの仕業を想像するのではなく、真っ先に幻獣が思い浮かぶのだ。

――タッタッタ。

 その女性の歩くスピードは速かった。女性は決してせっかちではなく、なにか早く帰らないといけない用事もない。そしてそれは、走っているというよりは――逃げていた。

「はぁ……はぁ……」

 足は少しばかり疲れてきているが、それでも女性は歩みを止めない。背後から迫り来る得体の知れない恐怖と焦燥感から、本能的に足を動かしていた。はっきりとした確証はないが、ここで足を止めてしまえば生きては帰れないと女性は直感的にそう感じていた。

 背後に迫る存在はなんなのか。逃げる中で女性はその正体をずっと考えていた。

 人間だったら生きている分だけまだいい。幽霊ならそれはそれで怖いが、この際それでもいい。問題はそのどちらでもない――幻獣だ。

 だが、女性の住む都市・クリプトには結界が張られている。この結界の内側には外から侵入することはできないし、召喚術師の手を借りない限り、幻獣が出現することはない。それは女性も知っており、だからこそ、これまで安心して過ごしてきたのだ。

「な、なんなのよ……。もう……」

 熟考するも、明確な答えは見つからない。いっそ振り向いてしまうのも手だが、この薄暗がりではしっかりと確認できるかどうか分からない。だが、このまま逃げ続けて家に着いたところで安全になる保証はない。それどころか、自分の住所を相手に教えてしまうことになってしまう。

 もし今、跡をつけているのがただの人間ならそれこそ危険だ。

 女性は意を決して振り返った。

 ――なにもない。

 女性はホッと一息ついた。単なる思い過ごしだったのだろうが。そうであるなら、願ったり叶ったりだが、同時に疲労がこみ上げてくる。まるで一週間の疲れが一気にきたのようだった。肉体的にもそうだが、精神的疲労のほうがひどかった。それだけ気が気でなかったのだろう。

 疲れは残るものの、これで錯覚であることははっきりした。あとは一直線に自宅を目指すだけだ。もうこんな経験はうんざりだ。いち早く自宅に帰って安心したい。

 そう思って女性は踵を返す。

「――」

「えっ……」

 振り返ると、ソレはいた。ソレから発せられているのか、ノイズに似た奇妙な音が聞こえてくる。自然と足が竦む。女性は直感的にソレが今まで自分を尾行していた存在であると悟った。

 月明かりに照らされるソレは力なくゆらゆらと揺れているが、浮かび上がる輪郭は人間の姿に似ている。やはり、追いかけてきていた存在は人間だったのだろうか。だが、それにしては生気を感じない。

 では幽霊か。だが、幽霊にしては本物の人間のような存在感がある。

 残る可能性は幻獣だけだが、その可能性はないと女性は頭の中で否定する。つい先日、とあるショッピングモールで幻獣が出現したというニュースが話題になったが、その原因は未熟な召喚術師が招いた偶発的な事故とされており、結界そのものに問題はないとニュースは報じていた。

 この都市は安全なはずなのだ。幻獣から襲われる脅威にさらされていないと女性はそう信じていた。

「――」

 またも不快なノイズに似た音が聞こえてくる。

 その直後。

 ソレは姿を消した。――否。超高速で女性の背後に移動していた。

 背後から伝わってくる異形の気配に女性は反射的に振り向こうとする直前――。

「――」

 ノイズだらけのぞっとするような底冷えする声。

 月明かりに浮かび上がる刀のような影。それで切り裂かれるのだろうと女性が悟ったとき、女性は息絶えていた。

 月夜に鮮血が飛び散った。

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