幕間二
第17話
果てしない空をどこまでも雲が流れていく。行き交う人々は少女も好奇な目で見ている。ときおり少女に近づこうとする者も現れるが、そのたびに向けられる少女のどこまでも空虚な瞳に臆し立ち去ってしまう。科学技術は着実に進歩していき、街はその様相を何度も新たにした。
もう、飽きるほど目にした光景だった。
もう半世紀あまり、少女だけはまるで時間が止まったようにその一切が停滞していた。人間に対する憎悪はすでに消え去り、諦念と決して消えることのない空虚さだけが心を埋め尽くしている。
いったいあと、どれだけこうしていればいいのだろうか。幻獣に人間のような寿命はない。身体を維持する幻核を破壊してさえしまえば、いつだって死ぬことはできる。しかし、それは自分で自分を殺すことと同義だ。それだけは絶対に嫌だった。
いったい、自分がなにをしたというのか。なんでこんな目に遭わなければならないのか。
答えのない自問自答は少女の首をただただ締めつけるだけで、なにも得ることはない。代わりに出てくるのは止めどない涙と心に溜まっていく絶望。それらに何度も押しつぶされそうになる。
こんな苦しい思いがこの先ずっと続くのなら。いっそこの手で全てを終わらせてしまいたい。死の苦しみはどれだけの辛さなのだろうか。いや、それでもこの永遠に続く絶望と比べればきっと何倍も楽だろう。それもきっと一瞬だ。一瞬で楽になれるのだ。そう考えると、とても冴えた名案にすら思えてくる。
全てを終わらせる。そう思って、少女がこの人生の幕を閉じようとしたとき。
「やっと見つけた」
少女が抱えている絶望とは正反対の軽薄そうな声がその手を止めた。声の印象からして男だろうか。
男の足音はどんどん大きくなり、少女に近づいてきていることが分かる。少女は振り返ろうともせず、ただその男が真後ろに立つのを待った。
「……人が大往生しよとしてるのに、なんの用なの」
「人、じゃなくて幻獣だろ」
幻獣を知っている。ということは召喚術師だ。男と召喚術師というイメージから自分をこんな状況に陥れた人間のことを思い出してしまい、わずかに少女の顔が歪む。
「悪いけど、人間と手を組むつもりはない。興味もない。だから、さっさと消えて」
言葉の端々に棘を感じる物言いだが、男はまるで意に介していないように続けた。
「いやな。この付近に人間に似た、それも人語を話せる珍しい幻獣がいると聞いてな。そのくせ、人間を毛嫌いしてるっていう話だから、ちょっとばかしな」
「……なんだ。アンタもアイツらと同じなのか」
この手の人間は腐るほど見てきた。どいつもこいつも、薄気味悪い笑みを浮かべて近づいてくる。そのくせ、こちらが少し威嚇すると一目散に逃げ出す。どこまでも悪辣で臆病な生物なのだ。幻獣でもここまでの醜態を晒すような奴はいない。
「用がないなら、さっさとアタシの前から消えて。アタシは見世物じゃない」
「用がないってこともないんだが……。でもまあ、そうだな。また日を改めるか」
思いのほか男は大人しく少女の元から去っていった。
「……変な人間」
ぼそりと少女はつぶやく。用があると言った割にはすぐに引き下がり、こちらをからかうようなこともしなかった。これまで少女に近づいてきた人間は皆そうだった。それこそ物見小屋の見世物のように。
なにより不思議だったのが、自分自身だった。あの一件以来、人間に絶望し二度と関わらないと誓ったはずなのに、さきほどの男とは少しではあったが会話をしてしまったのだ。理由は分からない。ただ、自然に口が動いていた。
「今日はヤメね」
あの男と会話をしてなんだか興が削がれてしまった。また日を改めると言っていたが、きっともう出会うことはないだろう。これまでもそうだった。からかいにきた人間も腹案を持った人間も、誰ひとりとして二度と少女の前に現れることはなかったのだ。
所詮はその程度の認識なのだ。誰も近づいてくれるなどしてくれない。ただの見世物なのだ。むしろ、そのほうがいい。関わらないと決めたのだから、今さら仲良くなどしてくれなくて――いい。
翌日もその男は少女の前に現れた。正確には前ではなく背後にだが。
「昨日からいったいなんのつもり?」
少し苛立った少女の声にも男はまるで気にした仕草をみせない。それが余計に少女を刺激する。
「昨日も言っただろう。用があるって」
「なら、さっさとその用とやらを済ませたら」
いつまでも毎日のように来られてはたまったものではない。用があるのならさっさと済ませてほしいものだ。
「今まさにその用ってのをやってんだがなぁ」
「意味が分かんないんだけど」
「いずれ分かるさ」
この男はなにを言っているのだろうか。少しは骨のある奴かと思って相手をしていたが、見込み違いだったか。本当は用などなく、こちらをおちょくってその反応を楽しんでいるだけかもしれない。いや、きっとそうに違いない。どこまでもふざけた態度を取る男だ。
「死にたくないなら、早く去ったほうがいいわよ。今のアタシは殺気立ってるから」
少女は少しドスを利かせた声で男を威圧する。威嚇のようなその声はこれまで近寄ってきた人間を蹴散らしてきた。この男も命の危機と知れば、これまでの人間のように一目散に逃げ出すに違いない。そう少女はそう思っていた。
「そうだな。確かに俺もまだ死にたくはないしな。……また、明日来るさ」
昨日と同じように男はそれだけ言うと去っていってしまう。威嚇に臆したわけでもなく、初めからそうするつもりだったように男は別段変わった様子をみせることはなかった。
「なんなの、あの人間……」
少女の中であの男に対する評価が分からなくなる。からかいに来たわけでもなく、力ずくで従わせようとするわけでもない。今まで出会ってきたどの人間にもないタイプの人間だった。
その翌日も。その翌日の翌日も。男は幾度となく少女の元に現れた。少女が小太刀を使って脅しても顔色ひとつ変えることはなかった。ある意味で全てを受け入れる広い心が男にはあるのかもしれない。
そんな男を少女は気になり始めていた。どうせ好きなときに死ねるのだ。なら、もう少しばかり人間と――あの男と戯れてみるのも一興ではないか。少女は次第にそう思うようになっていった。
「結局、一週間経ったな」
今日も男は少女の元に現れた。初めて出会った日から一週間。男は一日も欠かすことなく現れた。
その頃には少女も半ば諦めており、言葉の端々に感じられた棘もいくらか丸くなっていた。
「いい加減、なにが目的か教えなさいよ」
痺れを切らした少女が問う。これだけ毎日やってくるのだ。それ相応の目的がなければおかしい。もしなにもないとしたら、そちらのほうが不気味だ。
「教えてほしいか?」
「からかってるつもりなら、容赦しないわよ」
戯けるように言う男を少女は睥睨する。慌てて取り繕うように咳払いをし、男はおもむろに口を開いた。
「――俺の守護獣にならないか?」
男の口から飛び出した発言に少女は言葉を失った。同時に脳裏をよぎるのは忌ま忌ましいあの召喚術師の顔。あのときも同じことを言われたのだ。その言葉を愚かにも信じた結果――全てを奪われた。
わなわなと手が震えた。怒りや悲しみ、絶望の様々な感情が複雑に絡み合い少女の中で暴れ回る。その根底にあるのはもう騙されたくない――という願い。
スッとなにかが自分の中で冷めていくを感じた。それと同時に少女が声を荒らげる。
「……アンタも、騙そうとしてるの……」
絞り出す声は今にも消え入りそうなほどにか細い。それに反比例するように少女の中で渦巻く衝動は次第に激しさを増していった。
――嫌だ。嫌だ。嫌だ。
反芻する怨嗟の声が少女を蝕んでいく。
「騙そうなんてしていない。本気で言ってるよ」
男の声は至って真剣だ。普通ならば、そこに嘘偽りがないことは声からすぐ理解できるはずなのだ。
――嘘だ。嘘だ。嘘だ。
しかし、男の声は少女の中に巣くう怨嗟とそこから生まれた猜疑心によって、届くことはない。
「……いや、だ」
自然と手が小太刀を握っていた。今度は脅しなどではない。殺意という明確な意志を宿して握っている。
おもむろに少女が振り向く。少女にしてみても男にしてみても、それが初めて真剣に相見えた瞬間だった。
振り向いた少女は虚ろに下を向いているが、小太刀を握る手だけはわなわなと震えている。それが怒りか、それとも少女の中に残る理性が抗っている結果なのか、男には分からない。
「やっと顔を見せてくれたな」
少女から溢れ出る殺気には気づいているはずなのに、男は気圧されない。普通の人間なら、尻尾を巻いて逃げる状況だ。いや、むしろそうでなければおかしいのだ。自身に向けられた殺意を目の前にしても、それでも男は穏やかな笑みを浮かべているだけだった。
「嘘だ……。もう、騙されたくない……」
声となって漏れるのは少女を縛る過去の痛み。見ているだけで痛々しい。少女が内に抱える闇の深さはその反応から痛いほどよく分かる。
「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて」
優しい微笑みと包み込むような声で少女を落ち着かせようする。
しかし、そんな救いの手も少女には届かない。過剰ともいえる防衛反応は心を閉じさせ、自身を救う光すらも拒んでしまっているのだ。それをこじ開けるのは並大抵のことではない。
「……ろ」
あの苦しみをもう味わわないためにはどうすればよいか。少女の中である結論が出る。
「――消えろ!?」
小太刀をより強く握りしめ、男に向かって歩き出す。それは次第に早くなり、小太刀の先端は男を向いている。このまま行けば、男の身体に突き刺さり命にも関わる。
にも拘わらず。男は全く避けようとしない。その行為がどんな結末を招くことになるのか、一番よく分かっているはずなのに。
「ぐッ――!」
下腹部に激痛が走る。さすがの男もその痛みに口からうめき声を漏らした。衣服には鮮血の円が広がっていく。
「あ……あ……」
取り返しのつかないことをしてしまったと、ハッと我に返った少女は思う。今までだってなんどか得物を振り回すことはあった。それでも威嚇こそすれ、実際に凶器として使ったことはなかった。
このままでは自分のせいで目の前にいる男は死んでしまう。少女は恐怖から自然と手を離し、男から離れようとした――そのとき。
男が少女を優しく抱きしめた。
「――ハハッ! 元気のいいガキじゃねぇか!」
男は快活に笑っていた。
痛いはずなのに。
苦しいはずなのに。
男はそれでも優しい笑みを絶やさなかった。
「見てたら分かる。お前、本当は長い間ずっとひとりで寂しかったんだろ? けど、また捨てられるのが怖くて、つらくて……」
男は少女にまっすぐ目を合わせて、包み込むような柔らかい口調で語りかける。少女を見つめるその目は慈愛で満ちていた。
「大丈夫。もう誰もお前を傷つけさせない。もうひとりになんかさせない。お前はもう――俺の家族だ」
最後にそう言うと、男は再び少女を抱きしめた。あとはなにも言わず、ただずっと抱きしめていた。
少女の頬を熱いものが伝った。それは止めどなく溢れてくる。
重くのしかかっていたものが融解し、心が軽くなった。
そうか。これが自分が求めていたもの。この長い年月の中で一度だけでいいから、ずっと言ってほしかった。
それに気づいたとき。
「うっ……うぁあ……うあああああああああああん!」
少女はそのとき初めて、人肌の暖かさを知った。
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