103:明鏡止水 その七
邪眼の解除は気力だけで出来るものではない。
この手のことをなんでも数値化する学者によると、呪いの類は相手の術力に対する自分の抵抗力との差分によって、その度に確率判定がなされているらしい。
簡単に言えば一度呪いに掛かってしまうと、その呪いの効果が切れるまで継続するということだ。
邪眼による金縛りは、実は強力ではあるけれど呪いとしては永続性はない。
この手の一点特化型呪術は、ほとんど十割の確率で抵抗に失敗して術に掛かってしまうのだが、抵抗力がその効果に減衰を掛ける割合もまた大きい。
一定の時間、俺自身の抵抗力からすれば数分もないぐらいの時間、動けなくなるだけなのだ。
とは言え、戦闘中に掛かってしまえば数秒だろうが致命的だが……。
普段はなんだかんだ言って、強力な術者である弟妹と一緒にいるから、この手の呪術に対抗する手段を任せっきりにしているのが間違いだった。
「木村さん、しっかりして!」
伊藤さんはくっきりと顔が見える範囲まで走り込んで来ると、そう大きな声で俺に呼び掛けた。
その声にグールのジジイが反応して彼女のほうへと動き出す。
焦る俺の体を縛る呪いは、しかし、彼女の声と共に、ふっと軽くなっていた。
「え? 効果が消えた?」
と、考えている場合ではない。
好機とばかりに大口を開けて迫っていた女吸血鬼を殴り飛ばし、慌てて体を返してジジイのグールを追う。
「お嬢さん、美味しそうだね」
ジジイはニヤニヤしながら伊藤さんを追いかけていた。
まるで痴漢オヤジのようなキモさ加減だ。
しかし、伊藤さんのほうが確実に足が早い。
トレッキングシューズ愛用の伊藤さんの実力がものをいった形だ。
凄いぜ伊藤さん。
「待たんか!」
しかし、業を煮やしたのか、そう叫んだジジイは自身のリミッターを解除したらしい。
人間の肉体の限界を超えることの出来るグールは、その気になれば人の運動能力を軽く凌駕する。
たちまち老人の姿に似合わないスピードで追い上げ始めた。
「させねえよ!」
俺の投げたナイフがジジイのグールの左足の足首から下を砕いた。
ジジイは転倒したが、更に両腕を使って這い進む。
すげえ執念だ。
そんなに若い女の子がいいのかよ!
「余所見をするとは余裕だな」
こっちはさほど若くない吸血鬼の女が追いすがって来た。
吸血鬼は、例え眷属の下位であっても片手間に相手の出来るような存在ではない。
俺は舌打ちしつつ走るスピードを上げた。
例えこの吸血鬼に一時的に背中を見せることになろうと、伊藤さんを追うジジイのグールを放っておく訳にはいかない。
俺は一気に走ってジジイにタックルを掛けた。
「木村さんうしろ!」
緊張した顔で振り向きつつ走っていた伊藤さんの叫びに、俺はジジイを抱えたままゴロゴロと転がる。
女吸血鬼はスピードを出しすぎていたのか、俺をかすめて床に突っ込んだ。
ドガガッ! と、工事現場でコンクリを掘るような音がして床が削れる。
「伊藤さん、とにかく話は後で! 外に出て! うちの連中ももう来るはずですから!」
「わかりました、ごめんなさい!」
どうやら俺に迷惑を掛けたと思ったらしい、謝りつつ全力疾走して行く。
「いえ、助かりました!」
聞こえたかどうかはわからなかったが、その遠くなる背中にお礼を言った。
実際、伊藤さんの声で金縛りが解除されなかったら危なかったのだ。
「この!」
体勢を立て直した女吸血鬼が、赤い派手なヒールで床を蹴って斜めに突っ込んできた。
どうやら床に突っ込んだダメージはカケラもないようだ。
さすがに頑丈だ。
しかし、その服も破れてないのはどういうことなんだ?
俺は女の目を真っ直ぐ見ないようにしながら相手の行動を確認すると、咄嗟に手にしたジジイを投げつける。
だが、さすがに怪力を誇る吸血鬼、女はそれをまるでハエでも払うように叩き落とした。
女の薙いだ部分がボコリと削れたスプラッタな姿になったジジイが床でジタバタと立ち上がろうとしている。
「死ね!」
牙を剥いて、もはや人間らしさを失った顔で突進して来る女の腕を掴んで払おうとしたが、びくともしない。
仕方ないので逆にそのまま引いて、内股を刈って押し倒す形となった。
ジタバタと暴れる女の危険な牙を、顎を抑えこんで引き剥がしたが、それでちょっとした硬直状態に陥る。
やばい、ジジイが起き上がったらこっちが不利だ。
「兄さん、見境がないのはどうかと思いますが」
その時、温度のない冷めた言葉が背中から降ってきた。
「何の見境だよ! お前そっちの
さっそく駆け付けてくれたのはいいが、うちの弟はいちいち俺にチクチク嫌味を言うのをなんとかして欲しい。
いや、嫌われてんのは知ってるんだけどさ。
「さすがにそんな下品な女を
「どうやったらそんな発想になるんだよ! アホか!」
馬鹿なことを言っている間に、浩二の影がスルスルと伸びて幾匹かの影の蛇となり、グールを縛り、そのまま浩二は流れるような動作で懐から取り出した呪符を叩きつけるように放った。
刹那の間で、グールのジジイが燃え上がる。
「おのれ!」
女吸血鬼は凄い力でこっちの押さえ込みを解こうとするが、いくら吸血鬼の怪力とは言え、この場合上から押し付けている俺のほうが有利だ。
俺はさっき作った聖水モドキの僅かな残りを取り出すと、その女吸血鬼の口に突っ込む。
「がああああ!」
女の口から白い煙が吹き出した。
これだけでどうこうなるような相手では無いが、相手の力の何割かは押さえ込んだ形だ。
俺のナイフは銀製では無いが、仕込んである術式に破魔の力がある。
さっき投げたのは投擲用だが、愛用のナイフはかなりごっつい狩猟ナイフタイプだ。
その刃を女吸血鬼のやや中央寄りの左胸下に思い切り突き込んだ。
喉を焼いたせいで声が出ないのか、女吸血鬼はパクパクと口を動かし、胸から間欠泉のように血を吹き出す。
「焼きます」
浩二の声が聞こえたかと思うと、先程と同じ呪符が今度はこっちに飛んで来た。
あぶねっ!
「うおっ!」
パッと離れた俺の目と鼻の先で吸血鬼の体から炎が上がる。
肉と髪の焼ける嫌な匂いが溢れて、思わず鼻をしかめた。
恐ろしい炎の勢いだ。
地下で火災とか冗談ではないが、これは浄化の炎なので怪異しか焼くことはない。
てか火災報知機がこの炎を感知しないのはお得意の結界を張ったからか?
面しか創れない浩二の界による断絶ではなく、従来の術式での結界である。
自分の能力に関係することだからなのか、浩二は普通の結界についてもかなり詳しく、術式としてよく使用していた。
「一般人の誘導は駆け付けた警官がやってくれた。少し転んで怪我をした人はいるみたいだけど、大怪我をしたりした人は無いみたい。それと……」
由美子がまるで散歩でもしているかのような気楽さでのんびり入り口方面から歩いて来ている。
その傍らには伊藤さんがいた。
「ゆかりんには兄さんのハグが必要です」
「何言ってるの! ゆみちゃん!」
伊藤さん、顔が真っ赤である。
そして俺は兄の威厳のために動揺を抑えた。
「ついでにチューもしてあげると効果的だと思います」
「キャー!」
伊藤さんが由美子の口を塞いだ。
ありがとう、伊藤さん。
しばらくそのままお願いします。
心癒される光景から敢えて目を反らし、醜悪なモノへと目を向ける。
グールは人間大の炭のような何かに変わり、吸血鬼は真っ白な灰となっていた。
グールはともかく、この灰はこのままにしておく訳にはいかない。
集めて後で流水、つまり川に流す必要がある。
まぁ下水でも良いけど、どっかに淀みがあると拙いしね。
「これは僕が処理をしておきますから、そっちをなんとかしてあげたらどうですか?」
言われて、もう一度振り返り、改めて目をやると、伊藤さんは真っ青な顔をしていた。
ああ、そうか、伊藤さんは今まで
由美子や浩二にすら気づけたことに今まで気づけ無いなんて、俺って駄目な男だな。
「わ、私は大丈夫です。それよりすみませんでした。あの、凄く嫌な感じがして、それで、必死できちゃって、邪魔をしちゃうってわかってたはずなのに、……邪魔しちゃ駄目だって、……わたし」
彼女は見ていて心配になるぐらい震えていた。
潤んだ目を見張って涙をこらえているようだ。
「いや、ありがとう。おかげで助かりました。本当ですよ?」
由美子と交代してそっと伊藤さんの腕を握る。
いや、ハグとか無理だから、そんな期待するような目で見るな、妹よ。
しかし、伊藤さんはほとんど立っているのがやっとの状態だ。
相当怖かったのだろう。
そうか、そうだよな、それが普通の人の在り方だ。
それなのに、必死で来てくれたんだ。
それはどれだけの勇気だろう。
恐怖を知らないような俺達には、到底考えもつかないような、それはきっと強い心の力だ。
さすがにハグは無理だが、俺はそっと伊藤さんの肩に手を回して震えを止めてあげようとしてみた。
不思議そうに俺を見上げた目が健気に微笑もうとする。
その瞬間、つうっと、こらえていたらしい涙がその頬に流れた。
俺はそれを目にして思わず息を飲んでしまう。
そんな俺の様子を見て、我が妹が視界の片隅でやたらとイイ笑顔をしているのが見えた。
……お前、後で覚えてろよ。
それにしても、と、俺の胸の内に大きな不安が沸き起こった。
伊藤さんは邪眼の力を解除した。
思えば、彼女は以前も
俺の考え違いでなければ、彼女は無能力とは違った別の特殊な体質ではないのか?
俺には伊藤さんのような体質に覚えがあった。
それは生まれついての体質で、普通なら義務教育に入る前の検査で発覚するものだ。
後天的異能はこの検査では見つからないが、体質的な異能は必ず見つかる。
しかし、彼女は義務教育を受けていない。
冒険者の父親と共に各地を転々としていたのだ。
「……一度、伊藤さんのお父さんと話をする必要があるみたいです」
俺がそう言うと、伊藤さんはしばし呆然と俺の顔を見て、徐々に真っ赤になった。
ん? ……あ! いや、違うから! え? どうしたらいいの? この空気。
少し離れた先で、浩二が結界を解きながら小さく溜め息を吐き「やっとか」とか言ってるし、由美子はかつて見たことのないようなすっごい笑顔で俺たちを見ている。
え? どうしよう、これ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます