102:明鏡止水 その六
地下街には独特の熱気が篭っていた。
帰宅前に食事を摂ろうという人たちや、塾帰りの学生、若い男女、少女達の集団、いつもの日常の風景だ。
篭った空気に漂う、カレーやラーメンなんかの匂いも、ごちゃごちゃになったり、どれか一つだけ目立ったりと、それもまた風景の一部のように馴染んでいる。
「くそっ、どこだ」
地下街に降りた途端、上で嗅いだ独特の死人の匂いはその日常の匂いの風景に紛れてすっかりわからなくなってしまっていた。
複雑に枝分かれした通路の先の暗がりが一々怪しく感じて覗き込んでしまう。
「ん?」
人の流れが不自然に曲がっている場所があった。
狭い通路を繋ぐ箇所にエスカレーターがあり、その下の開いた部分に休憩用のベンチがある。
どうやらその場所を避けているようだった。
急いでそこに近づいてみると、なにやら揉め事が起きている。
若い男達がなにやらうずくまった人間を突き飛ばそうとしているのか?
「おい、どうしたんだ? 何やってる?」
俺が声を掛けると、男たち、いや、まだ少年と言えるような年の連中が一斉に振り向いてこっちを見た。
そして俺の顔を見た途端、ぎょっと怯えたように身を引いた。
ちょ、お前ら傷付くぞ。
「おっさん、助けてくれよ。このじいさんがよ……」
どうやらその中でも物怖じしないタイプらしい少年が、斜めに見上げるように鋭い視線を投げて来る。
助けてくれという言葉とは噛み合わない、まるで喧嘩を売っているような目付きだった。
「ん? 具合が悪いのか?」
「それがよ、すげえ力でしがみついて来て、便所連れてけって言うんだぜ? おりゃあ知らねえジジィなんかと連れションとかねーってんのによ」
トイレぐらい連れてけばいいのにと思いはしたが、こういう連中は何かをやれと言われると却って意地になって抵抗したりするものだ。
仕方ないのでそのおじいさんとやらを俺が引き取ろうと近付いた。
ふっと鼻孔に独特の異臭が飛び込む。
「おい! ソレから離れろ!」
言うと同時に俺は蹲っている人影から少年を引き剥がしに掛かる。
だがそれより相手のほうが一手先を取った。
「いてえ!」
縋り付いていた少年の腕をソレが噛んだのだ。
腕の肉が大きく齧り取られ、淡い色の肉と白い骨が覗いてる。
「うわああああ!」
「なにやらかしてんだ! ジジィ!」
逃げ腰になる者、激高して相手に詰め寄ろうとする者、そんな風にてんでばらばらに行動をされては犠牲が増えてしまう。
「やめろ! そいつは
殴りかかろうとした少年を引き剥がすと逃げ腰の仲間に向かって放り投げ、指示を出す。
同時に噛まれて泡を吹いている少年を素早く引き寄せて、相手から距離を取った。
周囲の人達はまだ何が起こったかわかっていないようで、喧嘩か何かと思って遠巻きに見ている人影も数人見える。
「ガッ、ガァッ!」
噛まれた少年がガクガクと体を揺すり出した。
まずい、感染し掛けている。
感染力の強さは相手の親玉の強さでもある。
このグールが親から何代下かわからないが、三代以上下がってこれなら上はそうとう厄介な相手だろう。
俺は個別に仕分けして装着しているポーチから小さなスタミナドリンク程の大きさの容器を取り出した。
人工の霊水である有機ゲルマニウム水入りのその容器に、別の仕切りから取り出した銀片を放り込む。
「銀の月は水面に映り、風により光は解ける」
精製の文言を応用した急増の聖水もどきである。
効き目は怪しいがとりあえず毒の侵食さえ止めてくれればそれでいい。
怪しげな霧を吹き出すそれを、俺は少年の傷口にぶっかけた。
「ギャアアアアアア!」
……凄く痛かったっぽい。ごめんな。
「おっさん! やっちゃんになにしてくれてんの!」
まだ逃げてなかったのかお前ら、仲間思いなのはいいが、お前らがいるとほんと、やばいから、主に俺が。
「じゃあ、こいつ頼む、グールに噛まれたけど一応応急処置したって救急車呼んで言ってくれ。ハンターから言われたって!」
胸元のハンター証を引っ張りだして見せる。
子供向けのヒーロー物とかCMの登場人物とか、そんな広報活動でハンター証自体はそれなりに有名だ。
「えっ、ハンター? マジもん?」
「おっさんハンターなん?」
仲間を受け取ってその傷口の無残さに顔をしかめながらも、少年達はこっちに興味津々な様子を見せる。
「いいから早くしろ! 応急処置してるとは言え、下手するとそのお仲間がグールになっちまうぞ! 警察行ってから救急車だ! わかったか? 警察の詰め所にまともな聖水があるはずだから」
俺の剣幕に押されて、少年たちは「お、おう」とか「わかった」とか言いながら仲間を抱えて走り去る。
その頃には俺の言ったグールとかハンターとかの言葉を受けた周囲が、軽くパニックを伝染させ始めていた。
「近頃の若いやつの血肉は臭くてならんな」
うずくまっていたグールが立ち上がり、口元を赤く汚したままでニヤリと笑う。
姿形こそ老人だが、皮膚はつやつやとピンク色で凄く健康そうだ。
ただ両目はグールらしく赤く濁っていた。
「おいおい、知性が残ってるんだ。お前のご主人はどんだけ高位なんだよ」
「まぁそうだな、真なる神と言っておこうか」
ニヤァと笑う表情こそ邪悪だが、その姿形はそこらの一般人となんら変わりない。
ゾッとした。
この分ではその真なる神とやらの下僕となった犠牲者がかなりの数いるに違いない。
一旦グールとなってしまった相手を元の人間に戻すことは出来ない。
なぜならその人間は既に一旦死んでいるからだ。
「敵は吸血鬼かよ、くそが!」
吸血鬼の下僕には二種類いる。
同じ吸血鬼の劣化版である眷属と、この相手のような
その違いは一度死んでいるかどうかにある。
眷属は時間を掛けて吸血鬼化するので、完全に吸血鬼化していなかったら人間に戻る可能性もある。
だが、グールは毒によって殺された死体が動き出すという代物だ。
毒を抜いても死体に戻るだけなのである。
尤も完全に吸血鬼化した場合ももはや人間には戻れないのだが……。
グールは予備動作なしに腕を振るってこちらを攻撃して来た。
ドガン! という馬鹿みたいな音がしたかと思うと、頑丈な地下の壁がえぐれている。
「キャーーー!」
悲鳴が響いた。
それまでここで起こっていることを上手く理解出来ていなかった人が、実際の暴力を見て身の危険を感じたのだろう。
パニックでエスカレーターで将棋倒しとかならなきゃいいが、さすがに俺もそこまで面倒見きれない。
警察の対応が早いことを願うのみだ。
「兄ちゃん、食い物の恨みは恐ろしいって言葉知ってるか?」
「子供でも知ってる言葉で偉そうに宣言されても、な」
愛用のナイフを引き出し、牽制する。
老齢の見掛けによらず、相手から鋭い蹴りが放たれた。
俺は身を沈めながらナイフを持った腕でその足を払う。
ドン! という車同士がぶつかったような音と共にお互いが弾かれたように距離を空けた。
「兄ちゃん強いなぁ。怖い怖い」
「じいさん無理すんな、年寄りの冷や水っていうだろ」
言いながら俺はグールに突っ込んだ。
間合いを取ろうとする相手のふいを突いてその懐に入り、体を抱え上げると通路に叩きつける。
グールは「グゥ」と唸ると全身を痙攣させた。
すかさず首を掻き切ろうとした俺の体が、まるで電気に打たれたかのようにビクリと跳ねてその場を離れる。
「なんだ?」
自分でもわからないままチリチリと感じる焦燥に、導かれるように視線を動かした。その視線の先で、俺のいた空間を切り取るように鋭い斬撃が通り抜ける。
「あら? 存外勘がいいのね。残念」
そこに現れたのは夜のお仕事風の少し派手な衣装を纏った女だった。
いや、女吸血鬼か。
「あんたがこいつの親って訳か」
「私、ハンターって嫌い。優雅さに欠けるもの」
くすくすと笑うと、ニィと紅い口角を上げる。
「死ね!」
野太い、綺麗なお姉さん風の姿からは考えられないような声が放たれ、その吸血鬼は赤く濁った両目を見開いた。
瞬間、俺は硬直した状態で固まってしまう。
しまった、邪眼か。
吸血鬼の特殊能力の内ポピュラーな物だが、最も強力な攻撃の一つでもある。
その性能が単純な分、効果が強いのだ。
と、その時。
「木村さん!」
聞こえて来たその声に文字通り血の気が引いた。
なんでここに?
いや、そんな場合じゃない、逃げろと叫ばなければ、くそっ、肝心な時に身動き一つ出来ないとは!
駆け寄って来る彼女の馴染んだ軽い足音が、俺の心を焦燥に叩き込んだ。
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